先日相談をし、解決の糸口が定まらなかったもので、質問を変えて投稿させていただきます。
私は、人とは基本的に利己的な存在であると思います。
他人や勿論私自身も、おそらく自分1位の考え方が本質的にあるのだろうと思います。
例えば些細なことでは、他人の失敗を寛容に許せない人間や、自分を信じて疑わず、断固全てが他人のせいだと憤怒する人間、自分の保身のみ考える人間など、多種多様です。
その多種多様な人間の中で最も私が理解出来ないのは、「簡単に人に怒りを向けられる人間」なのですが、人は何故怒るのですか。
利己的な本質というものが背景にあり、自身の不平不満や、不安を解消するための手段というのは承知しております。ですが、怒ること(恨み辛みの感情を持つこと)は相手は勿論自分にさえマイナスなものしか与えません。憎い相手にそれほどの労力を使うのですから、解消のため怒りをぶつけることはデメリットの方が大きいはずです。
また、人には長所がどこかしら存在するはずです。その相手の長所を思えば、怒りを向けることを踏み留まったり出来るはずではないでしょうか。目先の解消を優先してしまうのは何故ですか。
大人でさえもそれに気付かずに、理不尽と思われるような怒りをデメリットを背負ってぶつけます。
合理的に考えていけばそんなことにはならず、誰も傷付かないのに。
加えて、そういった方々の殆どは、責任の所在が100%相手にあるという錯覚をしているような気がします。選択の余地がある以上、その選択をした自分にも何割かの非があるはずだ……私はそう考えるのですが、他の方は違うのですか。
非常に生きづらいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
怒っている人の心を見つめてみると、
「自分は正しい!お前が悪い!!」
という感情があると思います。
しかし、怒るのはそれだけではありません。
仏教の祖であるお釈迦さまは、
『自分の欲望が妨げられた時、人は怒りを覚える』
と教えられています。
人前で注意された時、
「恥をかかされた!」
と怒るのは、褒められたいという名誉欲が妨げられたから。
朝起きた時、機嫌が悪いのは
睡眠欲を妨げられたから。
仕事で失敗して部下を怒るのは
そのせいで、会社の利益が下がり、
やがて自分の給料にまで責任が及ぶという
財欲が妨げられたから・・・
と、必ず怒る原因に自分の欲望が関係しています。
『怒りは無謀に始まり、後悔に終わる』
と言いますが、怒りは炎によく例えられます。
怒りの先にどんな結果があるか分かっていても、
たったひとつのマッチの一本の火が
全てを燃え尽くしてしまうように、理性がなかなか働かないのですね。
この怒りをコントロールするのは、至難の技です。
透明さまは、そのことができる素晴らしい心の持ち主だと思います。
ですので次のステップに進むことをお勧めします。
そのような怒りに包まれている人の話を聞き、
受け止め、怒りをコントロールする方法を教えてあげて下さい。
人によりそい、人の悩みを聞き、人の怒りを諭し、
人の為に生きていく事を仏教では菩薩行と言います。
菩薩さまの行いという意味です。
どうぞ透明さまのお心を、世の中に活用下さいませ(。-人-。)
透明さん、初めまして。前回の質問も含めて拝見させて頂きました。
人間って複雑ですよね。「私のことを分かって」と思うのに相手のことは、分かりたくても100%分からない。自分のことは100%理解して欲しいのに。
怒りはマイナスなものしか与えられないとありますが、そうでもないと私は思ってます。
怒る時に心の底から「相手が全部悪い」と思っている人は少ないと思います。心の底には「自分にも非はあるけど言わずにいられない。」という反省の思いがあるんじゃないでしょうか?
透明さんは他人の心の奥深くまで理解することが出来ますか?「怒ってる」という表情や言葉、表立ったものも分かるし、その前後の思いも理解することは出来ますか?
利己的=自我(煩悩)と捉えさせて頂きますと、煩悩がないと人は人として生きていけないと浄土真宗では説かれます。
煩悩をなくすことで仏になれますが、私にはなくせません。だから、浄土真宗の教えを有難いと思っています。
お釈迦さまは「人生は苦である」と説かれました。苦の原因は煩悩だとも。
煩悩は、私たちの感情全てのことです。怒りも喜びも…悲しいことに「人の為に」とする行為すら、たどっていけば「自分の満足のため」なのです。
人間は、どこまでいっても他人を理解することも、本当の自分を理解しきることも満足にできません。
煩悩があるから。煩悩は不の面もありますが、生きる要素でもあります。
誰かの力になりたいと思う欲も、自分をよく見せたいと思う欲も、善悪ではなくどちらも必要なものです。
怒ったことにより反省したり、相手を思うことが出来るなら、それがマイナスとは言い切れません。
人生は善悪で分けられるほど単純ではないと思います。
怒っている人をみたら、今以上に相手が怒る理由を探ってみてください。透明さんは、どこまで相手の気持ちに寄り添って考え、理解できますか?
寄り添う行為の限界を知った時、本当の無力さを知った時「人は利己的な存在でも仕方ないんだ。合理的にはいかないんだ」とスーッと入ってくるかもしれません。透明さんのいうような人がいたら、その方が私はロボットだと思います。自分の嫌な感情をオフにする…うらやましいけれど、悲しいです。
あなたの言う通りです。
怒る人は自分が正しいと錯覚しているのです。
それを自我といいます。
人は皆自我に囚われているのですから仕方のないことです。
怒りは毒ですから本人を苦しめ、周りにも感染します。
怒りは炎ですから、小さな火のうちに消しておかなければ、あっという間に燃え広がって焼け野原になってしまいます。
お釈迦様も怒りを捨てよと言われました。
「怒りには、怒らないことによって打ち勝て。」(法句経)
「蛇の毒が広がるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。」(スッタニパータ)
などの言葉を残しています。
それだけ怒りを制すること、つまりは自我を捨てる事は仏道修行でも重要であり難しいことなのです。
おそらく完全に悟りの境地に達しなければ、自我や怒りを完全に無くすことはできないと思います。
しかし、完全に無くすことができなくても、適度に抑えることはできるでしょう。
あなたのように。
周りから理不尽な怒りをぶつけられても、今まで通り冷静に対処してください。
そして、怒ることなく冷静に対処できるご自分に自信を持ってください。