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出逢いは必然ですか?

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こんばんは 宜しくお願いします。

人との出逢いは、出逢うべくして出逢うのですか?

間違いな出逢いはあるのでしょうか?

一生添い遂げますと誓いをしたのに別れました
そして私の中では純愛ですが世間でいう不倫の末再婚しました。

この棘の道をたどらないと出逢えなかったのなら幸せになってもいいですか?

ずっと申し訳ない気持ちでいなければならないでしょうか?
相手側は元々破綻していました。
でも私の存在が無ければ一生添い遂げてたかもしれません。

私に試練を与えて正しい道を選ぶか試されたのでしょうか

だとすれば正しくないから一生幸せにはなれないです
教えてください。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「懺悔」キリスト教では「ざんげ」仏教では「さんげ」と読む

貴女の迷いは不倫から来る罪の意識です。
それと現在のご主人の離婚の理由の自分との関係での葛藤です。

二つとも大なり小なり貴女が関係している事つまり罪過は、はっきりしています。

それならこの罪過を認め「懺悔」をし二度と同じ過ちを犯さないと心に誓う事、そしてこれから善い行い(善行)を心掛けそれが貴方の喜びになった時に貴女の徳にかわります。
決して罪過は無く成る事はありません!しかし善行で少しづつ消滅していきます。

先に進むには進む方法があります。それが仏の教えの真実の道です。
どうか迷い無い道、真実の道を歩き出して下さい。

幸せは必ず苦の先にしか見えてきません。今は苦しくとも先を見れば直ぐそこに幸せが待っているでしょう。

追記
懺悔は只悔やみ事ではありません。その後が大事なんです。認めたなら次は善の行いで懺悔した事になります。
人には様々な出会いがあり様々な道もあります。例え無駄の様に思えても苦しむ道でも。
どこかで今までの過ちを認める事が出来ない貴女がいる様に感じます。
人は皆歩いて来た道は善い事ばかりではありませんだからといって後戻りは出来ないのです。
過去の出来事に足を取られるよりは今を懸命に生きる事が出来たら幸せではないでしょうか。

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いずれにせよ他人が幸せにするのではない

その男性と一生添い遂げるつもりでいてごらんなさい。
いずれ飽きますわ。お互い。
お互い不倫するような関係なのですから、もっとイイ人が見つかればそっちに飛んで行ってしまうかもしれませんです。心が弱いからこそ結びついたのですから。
自分を満たさんが為の恋愛行為は、いくら相手ラブの様に見えても自分ラブの延長。
「あなたのことを愛している」という言葉だって自分ラブの傷のなめ合い言葉である場合もあります。
一生添い遂げる覚悟の誓いが一日でダメになる。なった。
今あなた方が好きだと思い込んでるのも同じこと。
自分の過去の負を正当化するために、相手をいくら美化しても、それはあなたのマイワールド、マイストーリー、自分だけの妄想美談でしかないのです。
ご質問でも、何かの「せい」にしておられますが、それもあなたのよそ事まかせのマイストーリー。
厳しいですが、二度と同じ過ちを犯さないための愛語です。
人は人によって幸せになるのではなく、自分に幸せセンサーが付いている事に目を向け、相手によって幸せになるのではなく、自分が自分の為すことで幸せになれることをこそ、学ぶべきです。
人のものまで奪って、幸せになったって、後々さらに自責の念に苦しめられるだけです。
しばらく、その関係を続けていれば自分で分かる時が来るでしょう。
それでもエゴを貫き通すか、自分の独自の脳内マイストーリーを押し通すか。
そして一抹の後ろめたさを脳内芳香剤でシュッシュして無かったことにしてしまうのか。
美しい愛に見えてもエゴはエゴ。
快楽は快楽。
そうは思いたくない気持ちは分かります。
どこまでいっても誤魔化しきれないものがあるということはあなたが一番分かっていはずです。
都合のいい言葉を我々に求めても虚しいだけです。
自分を助けるのは、最終的に自分自身。自分自身の心がもっと強くあらんと、いつまでも他者依存する生き方になります。ここに来るのだってあなたにそういう心理が働いているからでしょう。
出逢いは必然か、意味、意義があるのか。いいえ。あなたの「選択」があった。
そういう理由付けをして正当化しようとしている自分のエゴがうごめいている事に向き合えば、為すべき道は見えてきます。あなたは後悔・懺悔しているようでも違います。
ホントの懺悔はこれからだと思います。おのれのエゴにきちんと向き合わない限りは何も人生変わらないのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

懺悔の心、罪の意識はずっとあります
無かったことなどありません。
ずっともっています。
その上で理由を知りたかったのです。
必然なのか、意味があることなのか
何故私は普通の道で生きられなかったのか。
私の質問が上手くないので伝わらなかった
みたいです。
すみませんでした
回答ありがとうございました。

いずれ飽きますわ
結構な話し方ですね
何十回と読みました
幸せにはなれないから離婚しろと!いうことですね。
子供も巻き込んだしまったのに。話し合ってそうします
回答ありがとうございました。

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