頑張る意味、生きる意味とはなんでしょうか
人生において夢も希望も絶望もありません。
ただ生まれたからなんとなく生きているだけなのですが、このような人生なら、あってもなくても変わらないと思います。
死ぬと家族が悲しむとは思いますが、その家族も遅かれ早かれ死にますし、その後のことは死んだ私には関係ないと思うので、どうでもいいです。
このような考えを持っている人間なので、社会全体に広がる、
「夢」に向かって「前向き」に「頑張って」、「成功」することが「良いこと」である
という雰囲気についていけません。
なぜ頑張らなくてはならないのでしょうか?
私は頑張ることが嫌いです。
でも頑張れない自分のことも嫌いです。
本当は自分も頑張りたいと思っているのかもしれません。でもどうしても 頑張る ということが受け入れられません。
これは「逃げ」「甘え」だと感じられるかもしれませんが、逃げてはダメなのでしょうか?
自分が何をしたいのか、救いを求めているのか、どうなりたいのか、わかりません。
長くなりましたが、なにか助言をいただければ幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
汝、法門開かれし
カワムラ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
『「夢」に向かって「前向き」に「頑張って」、「成功」することが「良いこと」である という雰囲気』・・
拙生もこのような雰囲気に嫌悪致している者の一人でございます。
同士です。
要は世間の物差し、お金や名誉や地位、権力などを価値ある者だと信仰してしまっていると、そのようになってしまい、その信仰が多数であればあるほど、それが正しい、当たり前となり、やがて、そのような価値観を信仰しない者は、排除していこうとなってしまうわけであります。
その排除における疎外感のようなものをお感じであるのかもしれませんね。
しかし、仏教では違います。
世間世俗的な世界における「幸せ」など、本当の「幸せ」でないと考えます。
仏教では、悟り・涅槃という究極的な「幸せ」を目的と致します。
その「幸せ」へと向けて、仏教においては、無明(根本的な無知)・煩悩・悪業を対治するために「智慧と福徳(功徳)」の修習を進めていくことになります。
無常観、出離の心も少しくお持ちのようです。
さあ、扉は開かれました。
仏教を本格的に学び入る良い機会を得られました。
是非、興味を持って学んで頂けましたらと存じます。
分からないことがございましたら、どうぞ遠慮なくhasunohaもご活用下さいませ。
川口英俊 合掌
「~ねばならない」からの脱却。
現時点で夢や目標があるならそれに越したことはありませんが、そうしたものが見つかるまでは自然体で生きていても良いのではないでしょうか。
人、モノ、現象、その他諸々の自分に影響を与えるようなものに出会った時に何か質問者様の中で目覚めるものがあるかもしれませんし。
ただ私も俗にいう「意識高い系」のような俗物的な結果に向けての頑張りには抵抗を覚えます。
20代ですとまだまだご自分の可能性やスペックにも気付けていない部分は多いかと思います。
現代日本は選択肢が多いようで少なくなってきています。
ゆっくり焦らず、まずは丁寧に一日一日を生きてみて下さい。
質問者からのお礼
川口秀俊さん
ご回答ありがとうございます。
川口さんも同士とのことで、同じように疎外感を理解していただけているように感じ、少し嬉しく思いました。
仏教の教え、勉強してみようかと思います。ありがとうございました。
渡部仁海さん
ご回答ありがとうございます。
現在就活中でして、人生について考えることが増えたことにより、焦りも生まれていました。ですが自分のペースでもいいのだと仰っていただけて、少し安心しました。ありがとうございました。