命ってなんでしょうか…
最近私はまだ乳呑み子の子猫を5匹保護しました。何度か保護した経験はあるので里親さんが見つかるまでしばらく家で今面倒を見ていようと思ってます。
ですが最近知人から、"父親の会社の倉庫で、まだ乳呑み子の母親のいない子猫が見つかったのだが、父親は頑として家で飼うとは言わないので受けとってはくれないか"とった連絡がきました。
よくよく話を聞いてみると、病院に連れて行き、数日間保護できるが、貰い手がはっきりしない限り保護するつもりはないと彼女の父親は言っているということでした。引き取って、長く里親が見つからなければ困るからとのことです。
でもそれは話が逆ではないでしょうか?
保護することができるのならば、まず保護することが先決なのではないでしょうか?どんどん衰弱していっているということなのに、なぜ頑として動かないのでしょうか。彼女には里親は(今まで保護した経験から言うと)すぐに見つかるからまず保護してみてはと説明したものの、父親が許さない…と言うのみです。
そして、もう一つ怒りを感じるのは、私が子猫を保護していることを知って、それならそこに預けてしまえば安心だ自分に責任はないと考えているように思えることです。とても無責任だと思いました。かわいそうと思いつつも(しかも手を差し伸べることができるのに)自分はそれを背負いたくなくて他人に預けてしまおうという考えが許せませんでした。命ってそういうものなの?と思います。
でもそう思っている自分も結局無責任なのではないか、責任を負いたくないだけなのではないかと悩んでしまいます。
世の中にはたくさんの命があってそれを助けたくて仕方ないけれど1人では決して叶うことではなくて、だからなるべく預けてしまえばいいみたいな無責任な考え方を正して、1人でも多く手を差し伸べてくれる人になってほしいと思うのに、なんだかそれもやっぱり偽善なような気がしてきてしまい、苦しくて仕方がなくなってしまいました。命ってなんでしょうか。どうかかわっていけばいいのでしょうか。人も動物も同じ命を持っているはずなのに、どうして手を差し伸べないんでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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尊く有り難いことでございます。
よしなが様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
他の命を大切になさられたいというお優しい慈悲の御心、有り難く尊いことでございます。
仏道修行を進めている菩薩たちの中には、あえて、涅槃(悟りの境地)に入らずに、迷い苦しんでいる衆生たち全てを救済し終わるまでは、この迷い苦しみの世界に留まろうとされている方々もおられます。
そんな菩薩たちには及ばなくても、例え、一匹でも二匹でも、救える命があるのであれば、諦めずに、それぞれにおいてできるだけのことをできる限りと思って取り組むことが大切であるかとは思います。
もちろん、ボランティアと同じで、あまり他人に強制したり、善意を押しつけることもできませんが、何もしないよりかは、実際に助かる命が、一匹でもあるのであれば、偽善であろうがなかろうが関係なく、できることをしてあげていけると良いのではないだろうかと思います。
独りでは限界もありますので、志同じくする仲間を集い、みんなの力を合わせて進めていければ、もっともっと助けることのできる命も増えていくことにはなるでしょう。
また、私自身にも経験のあることですが…
ボランティア・慈善活動というものは、あくまでも自分のできることで、できる限りにできたことだけを見るようにしておかれると良いでしょう。
他を比べ出すと、正直、悪い感情が生じてしまうようになります。嫉妬や恨みや怒りなどです。
功徳を積むはずであったのに、嫉妬や恨みや怒りにより悪業を積んでしまうことになっては、まさに本末転倒になりますので、誠に気をつけて下さいませ。
とにかく、救われた命、誠に尊く有り難いことでございます。心から感謝申し上げます。ありがとうございます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
忙しい中、お返事有難うございます。
気持ちが楽になりました…
自分ができなかったことじゃなくて、できたことを見つめるようにしていきます。
今も5匹が元気に暴れています。
その様子を見てるととても暖かい気持ちになります。
自分にできる限りの範囲で、少しでも幸せな命を増やしていきたいです。もっと前向きに自分のやっていることについて考えていきます。
ほんとうにありがとうございました