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辛い想いから楽になりたい

回答数回答 2
有り難し有り難し 88

幼い頃から、周囲の期待に応えようと必死でした。背伸びをして大人びた言動を取ったり、ものわかりの良い子どもを演じていました。
気が付けば、本当の私は年齢相応の成長ができず、未熟な人格のまま成長してしまい、演技にも限界が来てトラブルが増え、
ついには、中学生で統合失調症になってしまいました。

入退院を繰り返し、たくさんのトラブルもありましたが、なんとか20代後半から病状が落ち着き、今の夫と結婚しました。
しばらくは穏やかな日々を送っていたのですが、夫の勤務先が倒産、転職先での仕事が厳しく、家庭内の雰囲気も変わり、
私の病気が再発してしまいました。

何かというとパニックを起こして、叫んだり壁に頭を叩きつけたりして暴れ出してしまいます。
そんな自分が嫌で、誰かに辛さを分かって欲しいのですが、夫には「何も出来なくてごめん」と言われてしまうので、
かえって心苦しくなってしまい、愚痴をこぼすこともできません。

気持ちがどうしようもなく辛い時、他人に迷惑をかけずに心を楽にする方法がありましたら、アドバイスいただけたら幸いに思います。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

この身このまま生かされている…

 だからこの身このままで生きていくのです。
 良し悪し言えば、良いわけない、こんな身で生きていたくない、あなたはそうおっしゃるかも知れません。でも多かれ少なかれ、皆そんな気持ちで生きているのです。
 ご病気は辛いけれど、治れば良し、治らなければそれはそれで良し…そこに病気にならなければ気付けない別な新しい人生が生まれます。治らなければ許さない…そんな気持ちを手放しましょう。
 皆がこうありたい、こうしたい、こうなりたいの願いを持ちつつ、しかしながら思い通りにはならなくて、「それより他に仕方のない」人生を歩んでいる…それが実際のところです。
 あなただけでない、表面的には幸せそうにみえるお方々も皆それぞれの事情を抱えて生きています。
 あなたを責めるのではなくて、「何も出来なくてごめん」とおっしゃる優しい旦那様をお持ちのあなたは間違いなく幸せですよね。私だけでなく多くのお方もそうおっしゃると思います。

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おきもち

言ってるだけだから軽く流してねー、と伝える。

たまったことは溜めないで言葉にしてムッキャー!と叫んでOKです。
それを迷惑にならない様に配慮するだけで良いのです。
周りの方に事前にお断り、お伝えをしておくことです。
「ちょっと、ゴメン。スッキリしたいだけなので、いまからいうことは本当に口で言ってるだけ。あなたに罪はないから、発散の為にグダグダ言うけど気にしないでね。言ってるだけでスッキリするから赦してね。」と。
愚痴はこぼしちゃいけないんじゃありません。
言うだけ言ってスッキリすれば後腐れありません。
あなたが実際にストレスに感じていることを、ストレスではないと押し殺して溜めることの方がよっぽど害ありです。
ご主人に、その辺のところを理解してもらうと良いでしょう。
「坊さんに相談したら、イライラした時は、言葉にして発散した方がいいらしいから、あなたにむけてるわけではないことを分かってください」と。
もっとイイ方法があります。
日頃ストレスになることを、自分の中でストレス化させないことです。
何かイラつきそうなことがあった時、アタマを優先させず「感受」を優先してください。
仏教では心の動きを、受想行識と表現します。
受は、第一感受の状態。
想は意見、コメント、想起される事。
行は、意志、何かをしようと思う心や反応。
識は、判断、分別。
たとえば、何かにゴツンとぶつかったと致します。
それが「受」なのです。
その時には、知覚があるだけで「何でこんな目に合うんだ」とか被害者意識などは起きていません。
「ゴツン」だけでいてみてください。
自分のコメントを付け加えないように過ごすのです。
何故なら、自分のコメント、想起されたことがあなたを苦しめているからです。まずは自分を苦しめているものが自分の思いのなだということを見抜いて下さい。それがわかれば、あとはそれを暴れさせない様に、自分をおさめるのみです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。夫や家族には、いつも感謝しています。

痛い、辛いと思うから、自分を追い詰めてしまうのですね。
ぶつかった、ただそれだけのことと思える事が出来れば確かに苦しくないですね。
実際にそうするのは大変そうですが、頑張ってみます。
ありがとうございました。

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