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停止後の職場復帰について

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有り難し有り難し 47

某役所20代後半の者ですが、万引きで停職処分になりました。
事件当日は、持病の強い鎮痛剤(ソセゴン錠)を服用していたこと、また、初犯だったことから、先日検察にて、不起訴となりました。また、鎮痛剤を使用していてあまり覚えていませんが、
被害者様、職場の皆様、家族へとても申し訳なく思っています。
地方公務員が万引きで停職処分になった際、復職するか辞職するか、過去の事例ではどのような感じですか?
やり直すことは可能でしょうか?
同じ職場には盗撮にて停職になった人がいますが、今は毎日がんばっています。
自分もできることなら、またゼロから頑張りたいと思いすが、将来のことが心配で不安で、怖くて仕方ありません。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

やり直せます!大丈夫!

不起訴処分ですか、前歴はつきますが、前科にはなりません。加えて停職という社会的制裁を受けたのだから、もう十分でしょう。いろいろ不安になる気持ちは、わかりますが本件でこれ以上の処分を受けることはありませんよ。まずは、ご自身やご家族のために、お身体を整えていきましょう。自分でもどうしようもないとき、そんなときは祈るんです。必ず救いがあります。私は一生懸命に念仏を唱えています。南無阿弥陀仏。お幸せを祈っていますよ。浄光寺
追伸
あなたはもうだ丈夫です。常にだ丈夫だと言い聞かせてください。自然とそうなって行きます。いままで、ご苦労をされたかと思います。そうした経験を後悔ではなく未来にいかしてください。必ずうまくいきますよ。拙寺では、仏教勉強会を開こうと企画しています。まだ時期は未定ですが、拙寺のホームページを覗いてください。ご参加をお待ちしています。通信制だからどこでも受講可能です。通学は7月開講です。通学は無料ですが、通信は通信費のみいただきます。 浄光寺 http://www.johkohji.info/  です。 内容は、学問として学ぶのではなく、仏教に立脚しながら、幸せな生き方、考え方を共に考えてみたいと思います。

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個別相談可能
浄光寺の三浦康昭です。 くよくよと考えてもしかたがありません。明るく前向きに楽しく愉快に生きていくためのヒントを自分自身も考え続けながら、また少しでも皆さんのお役に立てればと考えています。できるだけ、わかりやすく簡単にお答えしていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。現在も整骨院をやっていますが、医療福祉関係の仕事に長年従事してきました。他に、知的障がい者施設の仕事に関わらせていただいています。また、イジメや引きこもりなど子どもたちのために何かできることがないか、現在模索中です。フリースクールをお寺で開講予定しています。仏教特に浄土学は死ぬまで研鑽だと思っていますが、居眠り専門なのが、課題です。

罪を問わず 罪を責めず ただ今日の自己のありかたを問う

してしまった事はその事はもう取りかえしがつきません。
あなたも十分反省したし、後悔もしたでしょうし、これからは懲りて二度とやらないでしょう。
何か、職場で嫌なことでもあったのではないでしょうか。
自身の良心に深く懺悔し、今後はもう二度とやらないことを誓い、今日からまっとうに生きましょう。
応援しています。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

はい。ありがとうございます。
自己啓発か分からないですが、最近仏教やお寺さんが作者の本を読み始めました。

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