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檀家会と信教の自由について

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結婚して同居した夫の実家は融通念仏宗(大念仏)の檀家です。
40軒ほどの自治会のほとんどが同じ寺の檀家で、自治会の班(組)毎に檀家会の役が回ってきます。5組あるので5年に1度の周期です。

これまでは義母が檀家会の役をしていましたが、高齢のため今年の役から私が担当することになりました。

春秋の彼岸、夏の施餓鬼、11月の如来さん、年末の大掃除など、ほぼ毎月行事があり、寺の内外の掃除やお坊さんや尼講の方への接待などに終日拘束されます。

行事によって夫婦で来るようにとか女性がという風に決められるので、完全に強制です。
私自信は大念仏を全く信仰していないにも関わらずです。
これは信教の自由に違反しないのでしょうか?

自治会と檀家会が一体化していることにも納得できません。
また檀家には家柄や過去のお布施の額で格付けがあり一覧表が配られます。キリスト教などでは考えられないことです。

考えすぎて体調を壊し、離婚や引っ越しも考える毎日です。
何とか近所の方とトラブルになることなく、個人的に檀家会から抜ける方法はないでしょうか。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

嫌なら覚悟を決めなさい。

 本当に嫌なら同じ思いを持った人と行動を起こすしかありません。総代さんや住職さんに一人でなくて同じ思いをした人と言いに行くしかありません。その時には感情的にならずに
①なぜ、行事参加が難しいか?
②このような行事なら参加は可能ですが、この行事にはこのような理由で参加が難しい。
③自分の家族はこのような事情で夫婦では行事に参加し辛いので考慮してほしい。
等、合理的な理由をしっかり言うべきです。意見がすべて通るわけではありませんが考えるきっかけにはならないでしょうか?
 ワシから言わせると、自分のお寺はどんな行事をしても集まりがイマイチ悪いのでうらやましくてしかありません。
 最後にどうしても受け入れられないなら、この土地から一回離れて暮らしてみるのもいいのではないでしょうか?その上であなたの菩提寺の宗教が必要と感じたならまた、戻ってきてもいいと思います。家族の理解も必要ですが・・・。
 お礼の言葉を見る限り、あなたの回答は決まっています。離檀ですね。宗教があなたにとって苦になるならもう辞めてしまいなさい。ワシは止めません。ワシの信仰している仏教で苦しむ人の姿は見たくありません。取り敢えずここから離れて新しい生活を初めて下さい。これからもあなたの生活が実りあるものとして祈っております。ワシのアドバイスを聞くか聞かないかはあなた次第です。自己責任でお願いします。

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正しさを見つめ直せばよいのです

あなたはおそらく❝正しさ❞に苦しめられているのであると思います。
お寺の正しさと、夫の正しさと、ご自身の中の正しさ、キリスト教的な正しさ。
❝正しい❞という事を真に理解されればスッキリするはずです。
「法」 と いう文字を 意訳すると 「あるべきよう」と訳されます。
思想の世界による❝正しさ❞には、❝正しさ❞に限界があります。
ですが、その正しさ。正義の本質とは何かお分かりでしょうか?
政治の世界ではみんな自分の政党が正義・正しさを主張するでしょう。
だから争論、当は争いが起こる。
それは低い次元の「正しさ」なのです。
仏教、仏法上の正しさは、対立がありません。争いが起こりません。自分たちだけの正義ではありません。だからこそ正法なのです。
正法の名のもとであっても争うようでは、それは正法ではありません。
正に対する邪や悪が生まれるからです。
子供のアニメのアンパンマンでたとえればアンパンマンだけが正義で、正義だからバイキンマンたちを皆殺し、絶滅させて良いという理屈は❝正しい❞でしょうか。
宗教も排他な宗教があります。他を認めない、という姿勢は❝正しい❞でしょうか?
正しいと主張しても、あるべきようではありません。
私はワイフは元クリスチャンで、坊さん同士でも意見の違いが生じることもあります。
どちらが正しいという事は私たちの関係にはありません。
そこで大切なのが❝法❞ 「あるべきよう」なのです。
あなたの夫がそのお寺の護持者であっても、あなたにはあなたの人生があります。
妻の立場として、夫の趣味、夫をこの世に存在させた先祖を祀るヤシロのイベントの支援、援助程度だけ関わるようにして、入信は別問題にすればよいのではないでしょうか。宗教は押し付けであってはいけません。宗教の前に人間の心が先です。妻はパン派ですが、私はゴハン派です。その違いはあって当然なのです。
個人の自由や、家族愛より宗教を優先させるような流れになればそれは❝あるべきよう❞ではありません。
あなたの体調がすぐれず、不本意ながら体調不良になってまでも出て行くようであれば、あなた自身の生き方として❝あるべきよう❞ではありません。
困った時は、困った時のそれぞれの状況の中で、この状況にとってのあるべきようを考えてみましょう。
❝あるべきよう❞ これを 熟考してみて頂ければと思います。

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村寺の問題について

心穏やかに様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

まだまだ村社会、地縁社会の地方においては、村寺(地元の自治会や青年団等で寄り合い所となっているなど村社会の中心的な役割を担っているお寺)があり、自治会での地蔵盆や合同法要・供養等で、その村寺に法要の経費やお布施を自治会費から出しているところも少なからずあるのではないかと存じます。

また、心穏やかに様のところのように、自治会のほとんどの会員がそのお寺の檀家であるならば、尚更にそのような慣習・慣例的なものも強くあるのでないかと存じます。もちろん、お金の問題も当然となりますが、強制的なそのお寺の行事へのお手伝いも問題は問題であります。

ただ、既に危惧されておられますように、そのような村社会において、明らかな嫌悪を示し、反対・批判をすると、それこそ村八分となり、余計なストレスや嫌がらせ等を受けてしまうことも十分にあり得ますので、檀家・自治会を辞めない限りは、いずれにしても難しいことに変わりはありません・・

方法としては、同じく疑問を持っている者、意見を同じくする者たちと共に、住職・責任役員、総代に対してしかるべくに提案・進言して、意識改革を促して、そのような強制的なお手伝いを辞めさせるようにするのが良いのではないかと存じます。せめて意思確認、事情確認ぐらいはしてもらえるようにすると良いのではないかと存じますし、お手伝いをさせるにしても、その対価としての報酬(時給ででも)もしかるべくにお寺から出すようにしてもらうと良いのではないかと存じます。

また、「信教の自由」に関しましては、これまでに下記の各問いにて扱わせて頂いておりますので、ご参照下さいませ。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/信教の自由

とにかく、まずはお身体どうかお大事にご自愛下さいませ。少しでも善処へと向かい、心穏やかに過ごされることができますように祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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自分の宗教心を固め、正しさにあまりとらわれないやり方

考えるべきポイントは三つ。
①一心の自由は何ものにも替え難い
自主的な選択が許されないところに真の宗教心はありません。宗教は心を縛るものではなく、解放するものだからです。目をつむった時、好きな人の顔がすぐ思い浮かべられるように、お地蔵様のお顔などが自然に思い浮かべられ、その状態に留まることが心の安寧ならば、それがその人の宗教心の核であると言えます。この安寧こそが解放状態です。
だから今、周囲で習慣的に行われ、貴方様も参加している宗教行為が、貴方様にとって真の宗教として救いとなっているかどうか、調べてみましょう。
②宗教的慣習はどこにでもある
戦争に負けた日本は、国家神道が戦争をリードしたことにかんがみ、教育の現場などからあらゆる〈宗教的〉なものが徹底して排除されたため、世界的に異様なほど自称無宗教の人々がたくさん暮らす国となりました。それでも私たちは、お祭やご葬儀の時は、伝統的作法によって喜びや安心を得ています。そこには宗教心があります。
③あまり〈正しさ〉を優先させず、優雅さや穏やかさを優先させる
個人的宗教と地域的慣習の二つは重ならない場合が多くあり、問題や悩みが生じたりします。具体的な選択肢としては、まず、社会的儀礼と割り切って慣習的宗教行為に従い、心には誰も踏み入ることのできない自分の世界をきちんと保つ意識になってみること。論語に「君子は和して同ぜず」とあります。和することは、同じになり、自分が融けてしまうことではありません。
どうしても自立心を保てず、和することもできず、苦しい気持が募る場合は、問題が起きるたびに、自分なりの験直しなどを行い、一件落着とするよう、工夫してみましょう。
また、正しさばかりを優先させず、優雅さや穏やかさを優先させる気持でことに当たることも大切です。世の中は正しくないことだらけです。それは、正しさの基準が人それぞれ千差万別であり、正しさは人の行動をうながす要素の一つでしかないからです。誰しもがそうして社会を生き、社会に生かされています。柳眉を逆立てず、おりをみて新住民としての意見を発しつつ、穏やかな慣習の変化を待つことがベストです。命は無常であり、主役は必ず入れ替わります。この理をよく観て、何とか自立心を保ちながら慎重な判断をされますよう。

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質問者からのお礼

貴重なお時間をとってご回答いただき、ありがとうございます。

正しさばかりを優先せず…つまり「信教の自由に反するじゃないか」などと言わず、と言うことですね。

波風を立てたくないならそれしかないのかも知れませんが、何よりストレスの原因は強制されること、しかもお布施集めのためとしか思えないような行事のために、どうみてもお金集めしか頭にないようなお坊さんたちのために貴重な休みを拘束されることです。

とうとう胃痙攣をおこし病院に行きました。

遠藤様のおっしゃるような穏やかさは当分身につけられそうにありません。

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