『産まない』ことが子供にとって一番なのでは?
私は仏教徒ではありません。しかし、1つの生きる智慧としての仏教に興味をもち、色々と小さな脳ミソを使い調べてきました。
それで思ったのが、仏教は私に「生きることは思い通りにならないことばっかだけど、残念ながら諦めるしかないよ」と言ってるのではないか?ということです。
私のような若造でもこれは理解できます。うまくいくことよりもうまくいかないことの方が圧倒的に多いですし、楽しいことより辛いことの方がたくさんあります。
そこで私の中に「ならば、生まれさえしなければいいのでは?」「辛いと分かってるのになぜ子どもを産むのか?」という疑問が生まれました。
言うなれば、辛い世界に「送り込んだ」親は加害者、「勝手に送り込まれた」子供は被害者という構図です。
そこで質問なのですが
・この考えは正しいのか間違っているのか
・間違っているなら、どう違ってるか
・正しいなら、なぜ人間は子どもを産むのか
教えていただきたいと思います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
心安らかに生きる道
こんにちは。
まず狐の婿入さんのおっしゃっていることに関して仏教の教えで考えると、前提はその通りですが結果が違います。
そのことを仏教の特徴をあらわす「四法印(しほういん)」で確認していきたいと思います。
>「生きることは思い通りにならないことばっかだけど、残念ながら諦めるしかないよ」
は、おっしゃる通りです。
この世は「一切皆苦(いっさいかいく)」ですので、そのことは諦めなければなりません。
では、なぜ「苦しい」のでしょうか。
それを仏教では「諸行無常(しょぎょうむじょう)」「諸法無我(しょほうむが)」であるからとします。
「諸行無常」とは、「あらゆる物事は移りかわっていき、そのままで留まることができない」ということです。
世の中ではうまくいかないことも多々ありますし、たとえうまくいったとしてもそのことがまた苦しみを生みだしていきます。
例えばJリーガーになりたくてなれたからうまくいったというわけではありません。今度はもっと認められたいなど様々な困難に出会っていきます。
けして終わりがないのです。
そしてその原因が「あらゆる物事はそれ自体で成り立っているわけではなく関係性によってのみ成り立っている」(諸法無我)からです。
「自分」の中に起こってくる「うまくいく・いかない」「楽しい・つらい」も「以前の状態よりはうまくいって楽しいが、そのままではうまくいかず辛くなってくる」という移りかわっていくなかの比較の感情に一生惑わされなければなりません。
それが「苦しい」のです。
しかし、以上のことをきちんと自覚し、他人のせいにせずに「自分」で引き受けることができたならば「心安らかに生きていくことができる」(「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」)と教えられています。
みんな「苦しい」のです。
しかし、それをきちんと自覚すればだれでも「心安らかに生きていくことができます」
この世に「自分」として生まれたのは、親のせいではありません。
子が親を選べないように、親も子を選べません。
そしてそのこと自体が「尊い」のです。
すべてが「自分」の思いどおりに選べる世界ほど醜いものはありません。
「自分」というものに縛られる「苦しみ」を自覚しながら、ものを食べ・働き・子を生み育て・喜び・悲しみ「心安らかに生きて」いってください。
私的見解があなたを苦しめている事に気づこう
引用回答にて。
Q仏教は「諦めるしかないよ」と言ってる?
A⇒良い質問ですねぇ。違います。
お釈迦様のいう「苦」とは★この世というものが、こちらの願いや要求とはまるで無縁なありかたとして存在しているから人間の私的感情の介入できない世界であるよ、ということです。
これを漢字で表すと「苦」という言葉が一番近いであろうから中國や日本では❝苦❞という一字で示しているだけで、OH、この世はクルシィぜ、というチープな教えではありません。
その法則の川の流れの中であらがうような行為=物事を※「自分の都合を立てて取り扱うことを止めよ」という教えであって「諦めろ」じゃありません。自分の都合を立てるべきではない、ということです。
親は加害者、子供のは被害者か?
⇒そういう悲しい被害者的なものの見方を持っている=この世をそのように※私的に自己解釈で枉げて観ている姿では?。幸せに生きて親に感謝して生きている人もワンサカいますでしょうに。
どんな不運な中でも元気に生きる人もいる。
どんなに恵まれた環境の中でも不幸に沈む人もいる。要は自分。
問題は環境、親の方ではなく、それに対してどういう思い・見解を人生の主人公であるあなたが起こすか。それこそを、あなた自身が養い、成長させてゆくべき人間性なのです。
その人間性をより良く変えていくことが、あらゆる人間の使命と言えます。
そうすることによって誰でも幸せになれるのですから。
Qこの考え~間違っている?
Aうん、もうちょっと幸せ幸せになれるものの見方があることを知るきっかけになったね
Q間違っているなら、どう違ってる?
A現にアナタ、モヤモヤしてるでしょ?あなたがもし教祖サマだとしてそんな矛盾や苦しみの教えを世間の人が聴いても誰も救われないでしょうに。
Q正しいなら、なぜ人間は子どもを産むのか
A正しい・間違いというのは禅では「是非の見を起こす」というボンノーです。
たとえばネットは良いか悪いか?
ネットがあるから便利、あなたも成長できる、使い方が悪ければ人を狂気に導く。
⇒ものの方に善悪があるのではなく、使うあなたが正邪を超えて、良いものとして使える力を持っているかどうか、でしょ?
物事に対する、私的見解、コメント、悪く思うことが自分を苦しめるということがありますから、まずは、そこに気づいてみましょう。
とても的を得ていますが、人間に生まれたことは大チャンスです。
「苦」とは単純にいう苦しみではありません。
「苦」とは思い通りにならないという意味です。
私達は思い通りにならない人生を思い通りにしたいと願っています。
「こうすれば思い通りになりますよ」という宗教はたくさんありますが、それは仏教の教えではありません。
仏教とは仏になる教えです。
端的に言えば、仏になれば「苦」はなくなるとお釈迦様はおっしゃるのです。
お釈迦様のおっしゃるに、私達は前世があって、その前世にはそのまた前世があって・・・と、遥か遠い過去から輪廻を繰り返してきたいのちなのです。
『天』『人間』『地獄』『餓鬼』『畜生』『修羅』の6種類のいのちの有り様を経巡っていのちを繰り返してきたのだとおっしゃるのです。
これを六道輪廻と言います。
お釈迦様はこの六道を迷いながら生まれ変わり死に変わりしている様も含めて「苦」と表現してくださるのです。
今はその六道の一つ「人間」だということです。
しかし、人間として生まれてきたことには大きなチャンスがあるのです。
それは仏法を聞くことができるという最大のチャンスなのです。
仏になるチャンスが今あるということです。
確かに人生は苦しくて思い通りにできません。
しかし、人間に生まれるということは仏になるチャンスがあるので、この機会を逃してはいけません。
人間に生まれることは極めて稀なことです。
そしてその人間に生まれて仏教に出遭うことは、これまた極めて稀なことなのです。
人間に生まれ仏法にであう確立を例えた話で「盲亀浮木」という例え話が雑阿含経というお経に説かれています。
大海の底に住む盲目の亀いて、その亀は百年に一度海面に浮き上がるのだそうです。
その亀が百年に一度浮き上がった時、たまたまそこに漂う穴の開いた流木があり、その浮木に開いている穴に頭がすっぽり入る確率。
この確立が人間に生まれ仏教に出遭う確立だとおっしゃるのです。
浄土真宗の蓮如上人は、人間に生まれたのに仏法を聞かない事を「宝の山に入りて手を空しくして帰る」とお示しくださいます。
人間に生まれてきたことはとても尊いのです。
是非、このいのちで仏法を聞かせて頂きましょう。
質問者からのお礼
ありがとうございます。ご回答を読みながら心がポカポカしてきた気がします。いただいた言葉を心に刻み、これからも頑張ろうと思います。