hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

『産まない』ことが子供にとって一番なのでは?

回答数回答 3
有り難し有り難し 97

私は仏教徒ではありません。しかし、1つの生きる智慧としての仏教に興味をもち、色々と小さな脳ミソを使い調べてきました。

それで思ったのが、仏教は私に「生きることは思い通りにならないことばっかだけど、残念ながら諦めるしかないよ」と言ってるのではないか?ということです。

私のような若造でもこれは理解できます。うまくいくことよりもうまくいかないことの方が圧倒的に多いですし、楽しいことより辛いことの方がたくさんあります。

そこで私の中に「ならば、生まれさえしなければいいのでは?」「辛いと分かってるのになぜ子どもを産むのか?」という疑問が生まれました。

言うなれば、辛い世界に「送り込んだ」親は加害者、「勝手に送り込まれた」子供は被害者という構図です。

そこで質問なのですが
・この考えは正しいのか間違っているのか
・間違っているなら、どう違ってるか
・正しいなら、なぜ人間は子どもを産むのか

教えていただきたいと思います。

2014年12月8日 1:38

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心安らかに生きる道

こんにちは。

まず狐の婿入さんのおっしゃっていることに関して仏教の教えで考えると、前提はその通りですが結果が違います。
そのことを仏教の特徴をあらわす「四法印(しほういん)」で確認していきたいと思います。

>「生きることは思い通りにならないことばっかだけど、残念ながら諦めるしかないよ」
は、おっしゃる通りです。
この世は「一切皆苦(いっさいかいく)」ですので、そのことは諦めなければなりません。

では、なぜ「苦しい」のでしょうか。
それを仏教では「諸行無常(しょぎょうむじょう)」「諸法無我(しょほうむが)」であるからとします。
 「諸行無常」とは、「あらゆる物事は移りかわっていき、そのままで留まることができない」ということです。
世の中ではうまくいかないことも多々ありますし、たとえうまくいったとしてもそのことがまた苦しみを生みだしていきます。
例えばJリーガーになりたくてなれたからうまくいったというわけではありません。今度はもっと認められたいなど様々な困難に出会っていきます。
けして終わりがないのです。
 そしてその原因が「あらゆる物事はそれ自体で成り立っているわけではなく関係性によってのみ成り立っている」(諸法無我)からです。
「自分」の中に起こってくる「うまくいく・いかない」「楽しい・つらい」も「以前の状態よりはうまくいって楽しいが、そのままではうまくいかず辛くなってくる」という移りかわっていくなかの比較の感情に一生惑わされなければなりません。
それが「苦しい」のです。

しかし、以上のことをきちんと自覚し、他人のせいにせずに「自分」で引き受けることができたならば「心安らかに生きていくことができる」(「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」)と教えられています。

みんな「苦しい」のです。
しかし、それをきちんと自覚すればだれでも「心安らかに生きていくことができます」

この世に「自分」として生まれたのは、親のせいではありません。
子が親を選べないように、親も子を選べません。
そしてそのこと自体が「尊い」のです。
すべてが「自分」の思いどおりに選べる世界ほど醜いものはありません。

「自分」というものに縛られる「苦しみ」を自覚しながら、ものを食べ・働き・子を生み育て・喜び・悲しみ「心安らかに生きて」いってください。

2014年12月9日 10:42
{{count}}
有り難し
おきもち

平松理薫(釈理薫)
真宗大谷派(東本願寺)僧侶 東京品川 日夜山正徳寺 住職 主な活動...

私的見解があなたを苦しめている事に気づこう

引用回答にて。
Q仏教は「諦めるしかないよ」と言ってる?
A⇒良い質問ですねぇ。違います。
お釈迦様のいう「苦」とは★この世というものが、こちらの願いや要求とはまるで無縁なありかたとして存在しているから人間の私的感情の介入できない世界であるよ、ということです。
これを漢字で表すと「苦」という言葉が一番近いであろうから中國や日本では❝苦❞という一字で示しているだけで、OH、この世はクルシィぜ、というチープな教えではありません。
その法則の川の流れの中であらがうような行為=物事を※「自分の都合を立てて取り扱うことを止めよ」という教えであって「諦めろ」じゃありません。自分の都合を立てるべきではない、ということです。

親は加害者、子供のは被害者か?
⇒そういう悲しい被害者的なものの見方を持っている=この世をそのように※私的に自己解釈で枉げて観ている姿では?。幸せに生きて親に感謝して生きている人もワンサカいますでしょうに。
どんな不運な中でも元気に生きる人もいる。
どんなに恵まれた環境の中でも不幸に沈む人もいる。要は自分。
問題は環境、親の方ではなく、それに対してどういう思い・見解を人生の主人公であるあなたが起こすか。それこそを、あなた自身が養い、成長させてゆくべき人間性なのです。
その人間性をより良く変えていくことが、あらゆる人間の使命と言えます。
そうすることによって誰でも幸せになれるのですから。

Qこの考え~間違っている?
Aうん、もうちょっと幸せ幸せになれるものの見方があることを知るきっかけになったね
Q間違っているなら、どう違ってる?
A現にアナタ、モヤモヤしてるでしょ?あなたがもし教祖サマだとしてそんな矛盾や苦しみの教えを世間の人が聴いても誰も救われないでしょうに。
Q正しいなら、なぜ人間は子どもを産むのか
A正しい・間違いというのは禅では「是非の見を起こす」というボンノーです。
たとえばネットは良いか悪いか?
ネットがあるから便利、あなたも成長できる、使い方が悪ければ人を狂気に導く。
⇒ものの方に善悪があるのではなく、使うあなたが正邪を超えて、良いものとして使える力を持っているかどうか、でしょ?
物事に対する、私的見解、コメント、悪く思うことが自分を苦しめるということがありますから、まずは、そこに気づいてみましょう。

2014年12月16日 10:09
{{count}}
有り難し
おきもち

丹下覚元(たんげかくげん)
☎お悩み相談 📞08020659278 坐禅会 法話・提唱会 毎週...

とても的を得ていますが、人間に生まれたことは大チャンスです。

「苦」とは単純にいう苦しみではありません。
「苦」とは思い通りにならないという意味です。
私達は思い通りにならない人生を思い通りにしたいと願っています。
「こうすれば思い通りになりますよ」という宗教はたくさんありますが、それは仏教の教えではありません。
仏教とは仏になる教えです。
端的に言えば、仏になれば「苦」はなくなるとお釈迦様はおっしゃるのです。

お釈迦様のおっしゃるに、私達は前世があって、その前世にはそのまた前世があって・・・と、遥か遠い過去から輪廻を繰り返してきたいのちなのです。
『天』『人間』『地獄』『餓鬼』『畜生』『修羅』の6種類のいのちの有り様を経巡っていのちを繰り返してきたのだとおっしゃるのです。
これを六道輪廻と言います。
お釈迦様はこの六道を迷いながら生まれ変わり死に変わりしている様も含めて「苦」と表現してくださるのです。

今はその六道の一つ「人間」だということです。
しかし、人間として生まれてきたことには大きなチャンスがあるのです。
それは仏法を聞くことができるという最大のチャンスなのです。
仏になるチャンスが今あるということです。
確かに人生は苦しくて思い通りにできません。
しかし、人間に生まれるということは仏になるチャンスがあるので、この機会を逃してはいけません。
人間に生まれることは極めて稀なことです。
そしてその人間に生まれて仏教に出遭うことは、これまた極めて稀なことなのです。

人間に生まれ仏法にであう確立を例えた話で「盲亀浮木」という例え話が雑阿含経というお経に説かれています。
大海の底に住む盲目の亀いて、その亀は百年に一度海面に浮き上がるのだそうです。
その亀が百年に一度浮き上がった時、たまたまそこに漂う穴の開いた流木があり、その浮木に開いている穴に頭がすっぽり入る確率。
この確立が人間に生まれ仏教に出遭う確立だとおっしゃるのです。

浄土真宗の蓮如上人は、人間に生まれたのに仏法を聞かない事を「宝の山に入りて手を空しくして帰る」とお示しくださいます。

人間に生まれてきたことはとても尊いのです。
是非、このいのちで仏法を聞かせて頂きましょう。

2014年12月23日 1:14
{{count}}
有り難し
おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...

質問者からのお礼

ありがとうございます。ご回答を読みながら心がポカポカしてきた気がします。いただいた言葉を心に刻み、これからも頑張ろうと思います。

「仏教全般」問答一覧

仏教をもっと学ぶ方法は?

こんにちは。 以前Googleで自分の悩みを検索したところ検索結果にこのサイトが出てきたことがあり、それ以来hasunohaを毎晩のように拝見しています。お気に入りのお坊さんをブックマークしているほどです。 生まれた時から仏教徒で、お盆やお参りなど特に考えずそのマナーに従って生きてきましたが、一方で神や仏、また心霊などの類は一切信じないたちです。 しかしながら倫理哲学の勉強は非常に好きで、現在もっとも興味があります。 きっかけは数年前心身共にとても傷つく出来事があり、以来リラクゼーションやアロマ、音楽など、私生活で自己を労る環境を整えていきました。しかしそれらは頭の中、つまり思想の面では自分を疲労から救ってはくれず、そのとき仏教が自分にとって非常に重要なものではないかと気づきました。(軽率な発言続いており誠に恐れ入ります。。) hasunohaをみているうち、信じるか信じないか、お祈りが届くか届かないか、極楽浄土に行けるか行けないか以前に、自分で自分を生きやすい方向に調整していく、大変学びの多い学問でもあることを理解しました。 長くなりましたが質問したかったことは、仏教を学ぶ上でビギナーの私におすすめできる学習方法を教えていただけませんでしょうか。 下記何でも構いませんので、回答いただけると嬉しいです。 ・おすすめの著書(専門用語が多すぎない、噛み砕いてある、原版の理解にふさわしい) ・近所のお寺に通うことも考えたが、用もないのに門を叩いて説法してもらうことなどはできるのか? ・合宿のような形式で学ぶ方法はあるか。どうすれば受けられるか。ある場合、実家は曹洞宗だが宗派を超えても学習はさせてもらえるか ・↑に似ているが、短期的に修行を受けることはできるか。どのお寺でもできるのか?できるお寺はどうやって探すのか ・その他いい方法があれば 可能ならば僧の方に直に毎日少しずつお話を受ける形式が望ましいですが、自分の周りでそう言った人は見かけないし難しいのでしょうか... よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 38
回答数回答 4

どちらの宗派、教えを信じれば良いのか

初めて質問を投稿いたします。 るると申します。 私は学生時代うつ病を患い、生きていくことのつらさ苦しさと死への恐怖に悩み、救いとなる教えを求めて父方の宗派のお寺である東本願寺へ参りました。 そこで、どのような人間であってもすくい取ってくださる阿弥陀様の教えを聞き、何があっても必ず助けてくださる存在があるということに強い安心安堵感を得ることができ、その後は真宗の教えを聞く機会を定期的に作り心の支えとしてきました。 数年後、大学は無事卒業し就職すると私は非常に忙しい部署に配属され、激務と過労で再びうつ病の兆候が出てきて頭の中があらゆる雑音でいっぱいになっているような感覚に陥りました。 その時心の支えとなる教えをまた求めてお寺に行こうと決心したのですが、何故か今回はいつもとは異なる直感のような感覚で母方の宗派のお寺である永平寺に参りました。 永平寺で禅の一端を体験し、その後禅に関する本を読む中で、あるがままを冷静に見つめ自らの内の欲や煩悩を統御する教えを学び深く感動し、禅の教えをこれから生きていく中で実践したいと思いました。 前置きが大変長くなりましたが、二つの宗派の教えと出会いわたしは今どちらを信じたら良いのか迷っております。 煩悩を否定せず阿弥陀様が必ず救うとする真宗か、煩悩を統御し坐禅を通して自ら悟りを目指す禅宗か、全く異なる教えに触れどちらも捨てられないと悩んでいます。 両方を信じる道もあるのでしょうか。 拙い文章になりましたが、僧侶の皆様から何か教えをいただけたらと思います。 何卒よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 41
回答数回答 3

関連する問答

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る