善悪について
寝ているときは、不安や心配がありません。
すなわち、起きているときに存在する私という感覚(自我)は、不安や心配そのものであると言えるでしょう。
また、自我は問題の生じるところにしか存在せず、問題は善悪を裁く部分にのみ存在すると感じます。
言い換えれば、善悪を裁くことがなくなれば、自我による不安、心配から開放されそうです。
そこで、善悪とは何なのか、何によって生じるのか、仏教においての善悪の解釈を教えて頂けませんでしょうか?
今まで善悪についてあまり考えず、周りに流されてきた気がしています。
よろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
理屈を気にせず、経験から体感して積んでください。
たにしさん、こんにちは。
善悪のことを考えるようになってきたのですね。
素晴らしいです。
でも善悪の価値は人によって違います。人生経験の中で積み上げていくもののように感じます。
あなたはまだ若い。理屈も大切ですが、どんどんいろんなものにチャレンジして、人生経験の厚みを作ってくださいね。
さて、
よく仏教の話で、「善因善果、悪因悪果」という言葉が出てきます。でもこれ仏教だけでなく、社会での道徳律に近いものです。すると良いことをしたのにぜんぜん良い結果が生まれないと悩まれる方がいるのです。本当は仏教は「善因楽果 悪因苦果」が正解です。自分が良いことをしたという自身があればその結果はどんな結果でも、自身の喜びになるのです。たとえば、スポーツで勝つために一所懸命練習しても負けることはいくらでもあります。善果になっていのです。でも一所懸命した努力は残ります。自分に悔いがなければ、苦しみではなく、人生の充実になります。すると負けたことよりもそこに喜びを感じるのです。それが楽果です。一方、どんなに良い結果があっても自分の心が卑しいと苦しみの結果になるものです。たとえば、宝くじで1億あたった結果をもらっても、それで心が緩んで人生を誤ってすべてをなくしたという話はよく聞きます。自分の心ができていないと、どんな幸せなことでも苦しみになるのです。
つまり仏教では、自分の心が充実できるものが善であり、苦しみと受け止めてしまうものが悪となるので、善悪というものの一方的な価値で判断することができなくなります。
だから人生経験が必要なのです。
合掌。
無分別の智慧
たにしさん
はじめまして、釋慧心と申します。
素晴らしい着眼点ですね。
善悪を判断しているのは何でしょうか。
我々が人間の世界で正しい判断をする際に必要な基準。
法律や道徳を守る為の基準と言っても良いかも知れません。
つまり、善いか悪いかを決める作業の為のもの。
それは、分別ですね。
人間の私が、この人間の世界を生きていく際に生じる善悪は、この分別から生じています。
ではこの分別は何から生じているのか。
知恵です。
私達人間のもつ能力の一つ。
人間の知恵は分別の下に、素晴らしいもの、医療や科学技術、また工業製品、
国や法律を生み出しているのも、この知恵であり分別です。
我々人間の生活には欠かせないものです。
しかし、分別は同時に差別や優劣を生じさせます。
元々違いのない人間という存在に、差や優劣をつけて、違いを生じさせているのもまた分別です。
分別を言い換えますと、色眼鏡と言うても良いでしょう。
また、私の物差しとも言えます。
この分別があることによって、我々はものの姿をそのままに見られません。
まさに、善いか悪いかを区別しております。
仏さまの基準に照らし合わせますと、灯りが無く、どっちに行ったら良いか分からないような状態、無明の状態。
無明、つまり迷いの状態にするのは、分別が悪さをしております。
それは、広い意味で悪と言えます。
悪とは、煩悩に満ち満ちた私の姿そのものです。
中でも、地獄、餓鬼道、畜生道という3つの悪の境界があります。
三悪道(さんまくどう)と呼んでおります。
私というのは、無明煩悩がこの身に満ち満ちており、欲も多く、怒り、腹立ち、妬み、嫉む心も多く、
それらは死ぬまで消えることも途切れることも絶えることもありません。
これらが悪の正体と言えるでしょう。
その反対が善と言えますが、そもそもその善を決めているのが、私の物差しであり、色眼鏡なのですから、
本当の意味での、善行は我々煩悩に満ちた人間には成すことが難しいものです。
よくよく、仏さまのお声に耳を傾けなければなりません。
仏さまにはこの分別が無いのです。
無分別と言います。
無分別の智慧を無分別智(むふんべっち)と言うております。
無分別の智慧に出遇いますと、私の分別の知恵がどういうものなのかを知らせて頂けます。
仏さまの智慧を素直に聴くことが、非常に大切です。
なぜhasunohaで回答するか?自分のためだから
仏教の善悪はキリスト教的な正義・邪悪とは根本的に異なります。悟り(心の平穏)に近付くものが善、迷い(苦)を増幅させるものが悪です。
苦とはどこから生まれるか?それは3つの煩悩から生じます。第一に無明(むみょう)、苦楽の原因と結果の道理を知らないこと、すなわち仏教に暗いことです。第二に渇愛、もっと欲しいもっと欲しいと望んで止まないこと。あるいはその裏返しでもう嫌だ少しも欲しく無いと拒絶する心。それらのもっともっとや、もう、少しもにあたる際限のない心が渇愛です。第三に取(しゅ)、物事に評価をつけたり、好き嫌いを判断する心です。
これら無明、渇愛、取の3つが煩悩であり、苦の原因です。
電車で向かいのおねーちゃんの短いスカートが眼に入りました。それはお目々が光情報をキャッチしてお仕事しただけ。お目々のお仕事に文句はいえません。おねーちゃんのとこだけフォトショで切り取ってから脳みそに伝達してネなんて無茶振りです。お目々は私という自我から独立しています。脳みそに届いてから「ウホッ!イイ女!もっと見てぇ!」あるいは「下品だなぁ…いなくなって欲しい」という渇愛や、「肌の露出度は公序良俗としていかにあるべきであろうか。どこまでが善でどこからが悪か」という取を持ち込んだ時点で自我が発生します。
それがなければ社会は動けませんが、過度に濫用して「思い通りにならない」と思い煩うのは自分ですよーという話です。
じゃあ何も感じない、何も考えない植物人間になれば良いか?確かにそれで悪は止められるかもしれません。しかし、それでは善を行うことは決してできません。それでは解決しないのです。
じゃあとは善とは何か?長くなるので過去の回答を貼らせていただきます。
http://hasunoha.jp/questions/3597
我が家に敷地があるように、自分の身体の行い、言葉の行い、心の行いのにも範囲があります。その範囲に善を敷き詰めれば敷き詰めた分だけ、不安が生じる余地は減るでしょう。リアルタイムで変化するそのバランスを、賢く調えながら生きましょうというのが仏道です。
さぁ、自分の心の家の中でグダグダくっちゃべってないで、お外の世界で他者と触れ合うのです。
「二諦」について
たにし様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
誠にモノ・コトの本質的なことにつきましてのご質問であるのではないかと存じます。
まず、自我も善悪も、実体としては無い「空」なるものがその本質となります。
もちろん、それらは、何も無いという虚無・絶無ではなく、他に依存すること、つまり、「縁って起こっているもの」として「縁起」にて成り立っているものであると説明することにはなります。
ですので、自我も善悪も一応、「縁起」的には成立しているものと考えることができます。
しかし、問題は、では、「縁起」的には成立しているものであるとしても、正しくそのモノ・コトのありようを措定するにあたっては、「無明」(根本的な無知)の対治において、「ある」ものを「ない」としてしまっている錯誤、「ない」ものを「ある」としてしまっている錯誤について、いったい、何を否定して、何を肯定するべきであるのか、あるいは、何を否定するにしてもどこまでとなるのか、何を肯定するにしてもどこまでになるのか、そのことを論理的、合理的に明確にしていかなければならないのでございます。
では、その正しいモノ・コトのありようを措定するために必要となる仏教の基準が何であるかと申しますと、「二諦」という考え方となります。
それは、最高の究極的な真理を示す教えとしての「勝義諦」(しょうぎたい)と、世間世俗の真理に留めて説かれている教え、方便としてお説きになられている教えとしての「世俗諦」(せぞくたい)という、二つの真理のありようを正しく理解することによって、一切のモノ・コトについても、正しく設定することが可能になるというものでございます。
その「二諦」の基準についての詳細をここで述べるには制限字数の関係や煩雑な説明に陥る恐れがあるため、避けさせて頂きますが、是非、これから仏教を学び修されていかれるに際しては、この「二諦」についても意識して修習なされて頂けましたら有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
染川様
回答ありがとうございます
善悪の判断があって、心の充実や悩み苦しみ
が生じるものと思っていましたが、
仏教では、善悪の定義が心のあり方によるのですね。
一般的な善悪は人によって違い、経験によって培っていくものだと受け取りました。
歳をとって、色々な経験をしないとわからない
善悪は、あんま考えてもしょうがないですね。
困りました。若いと不利ですね。
一時的なものであれ、幻想であれ苦しみは味わいたくなく、その苦しみは、善悪の判断からくると思っていましたから、苦しみを味わわないと、善悪は判断できない、苦しみは悪そのものなのですね。
苦しみはどこからやってくるのでしょう。。。
釋慧心様
ご回答ありがとうございます。
分別からくる。なんとなくわかる気がします。
良いがあるから、悪いがある。
陰陽は片方のみでは存在しえません。
無分別智について調べ、考えてみます。
不二一元論とは違うものでしょうか?
この世の中で生きていく限り分別からは逃れられず、分別することで世界(幻想)が成り立っているの気がします。言葉とは分別そのものですね。
煩悩に満ちた私の姿=悪=欲や怒り不安は、理想と現実のギャップからくるものな気がします。
理想を持たないことこが苦しみをなくすということな気はしますが、しかし理想はやはり善悪から生まれる気もします。。。
苦しみは善悪の分別から生まれ、善悪の分別は理想から生まれる。理想は善悪から生まれる?
混乱してきました。。。
大慈様
回答ありがとうございます。
3つの煩悩が苦の原因になりそうな気がします。
自我がなければ社会は動かない。
自我を過度に思い煩えば潰れてしまう。
何も感じない、考えないは悪ではないが、善でもないと。悪ではなければ善だろうと思っていましたが、そうでもないともいえますねたしかに。
自我とうまくつきあうバランスを賢くととのえて行くとのこと、なくそうとするのではないのですね。お釈迦様は自我(苦)をなくそうとしていたものと思っていました。
また、他者はいるんですかね?
川口 英俊様
ご回答ありがとうございます。
錯誤について、明確にしていかなければならないこと、理解できます。
二諦が求めていることに近い気がします。
ありがとうございます。
真理のありようを理解することで、モノ・コトを『正しく設定』できるのですね。
真理のありようを学んでみます。