回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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最小のなにかを務める
夢も希望も叶ったらまたそこでも終わりです。
夢や希望はかなわないから尊い。小生はそう思います。
生きること。
答えは誰かに与えられるものではないと存じます。
苦しんで苦しんで、時に喜んで、時に楽しんで、時に憂いて、
ふっとした瞬間に垣間見えるものであると思います。
小生は、尊敬する師の「人生とは物語のページをめくること」という
言葉を抱きながら生きています。
死もまた、そのページをめくることなのです。
いま、なにか目標となるものを見失ったのだとしたら、
いま、自分に出来る最小のことを、懸命に務めることです。
掃除、洗濯、散歩、それもできないなら、
笑ったり、泣いたり、変な顔してみたり、
こうして考えたり、それを懸命にするのです。
「懸命に務めるものは、不死の者である。」
つまり「いま、あなたは生きているのだ」と、おしゃかさまは
わたしたちひとりひとりに指さし伝えておられます。
どうか、あなた様が安らかに、さいわいとならんことを
わたしも出来る祈りのなかで務めます。
さちあれさちあれ。合掌
安楽、安穏になるのが修行。苦しみは修行ではない。
何かの為に生きる と いう事をやめてみませんか。
人間知らず知らずのうちに考えに考えを塗り重ねて本来の自分を見失っているものです。
「なぜ」「なんのために」「なにの価値があろうか」
そういう考えの上に考えというファブ〇ーズを塗り固めても、考えの上塗りです。
哲学者や文学者で自ら命を絶ってしまった人たちはみな知の限界に行きついて、死を選択してしまうのです。
仏道とは、一言で他の角度から申し上げれば、
・考えから離れる事
・自分のものの見方から、仏の見方になる事
・考える以前、思考以前
・考えペダルではなく、事実のペダルをこぐこと
なのです。(一言じゃねーじゃん(-_-;))
あなたはおそらく望ましくないことが連発、頻発してしまったのかもしれません。
その事に心を留めて、悪しき考えを上塗りしているのではないでしょうか。
もし、それをして楽になれるようであれば、誰もがそれを選択します。
それでは救われない、とハッキリした方がお釈迦様や祖師方です。
知の洞穴から抜け出し、知の暴風雨の届かぬ所に処し、知に知を上塗り、重ね塗るそのハケを手放すことが修行なのです。
あなたの思う修行は、修行ではありません。苦行です。
修行とは、こころが楽になる、心の在り方を実践することです。
心で以って、心をみて、心をより良くするこころを培いましょう。
心で以って思いの正体を見破り、思いから自由になりましょう。
愛知でしたら、静岡の掛川、少林寺様の参禅会がおススメです。
仏法を聞きませんか?
仏教は仏になる教えです。
仏になることが最終目的であり、仏教にそれ以上の目的はありません。
言うなれば、「夢=仏になること」であり、「希望=仏になることができる可能性がある」ということです。
>夢と希望がなくなり
>生きる望みがなくなった時
>人は死を選ぶべきでしょうか
仏になることが決まればいつ死んでもいいです。
仏教はキリスト教と違い自殺を悪いことだと言いませんので、自由に死を選んだらいいのです。
ただ死んだその先が地獄であるならば、それはただの死に損です。
来世で仏になれることが確定したなら、いつ死んでも安心です。
逆に好きなだけ生きていたらいいとも言えます。
>生きるとはなんですか
「生きる」とは、仏に向かって歩むこと。
浄土真宗では「生かされている」とよく言います。
それは仏様の方から私に向かって来てくれたことを喜んでいるからです。
「私が生きる」ではなく「私が生かされている」と言うのが、私の人生です。
「生きる意味がわからない」というのは、ある意味当然です。
仏法を聞かないと自分のいのちの有り様はわかりません。
私のいのちには、過去世があって今があって来世があるんだと知らないと、今の人生が何かなんてわかりません。
朝NHKの連ドラの一話だけみて、「このドラマの意味がわからない」と言っているのと同じです。
中国の故事に「蟪蛄(ケイコ)春秋を知らず 」という言葉があります。
中国の高僧のお書物にも引用されている有名な言葉です。
蟪蛄とはセミのことで、セミは春も秋も知らないという意味です。
夏に生まれ夏に死ぬセミは、春も秋も知らず、生まれた時が夏であることも知らないのです。
私たち人間もこのセミと同じで何も知らないのです。
だから知っている仏様に教えてもらわないと、人生の意味が分かるはずがないのです。
カノンさん、是非仏法を聞いてみてください。
仏様はとても大きな支えになってくださいます。