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私の性格、どうすればいいですか

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私は、他人の悪い面を一度見てしまうととことんその人を嫌いになってしまいます。人には良い面と悪い面があることはわかっているのですが、一度悪い印象を抱いてしまうとそちらの方にばかり引き摺られてしまい、心の中でその人をどうしても排除しようとしてしまうのです。

このままだといけないということは重々承知しているのですが…。この性格が災いして、これまでの友好関係が崩れて孤立してしまうのではないかという不安に駆られています。

この性格、どうすればいいでしょうか。アドバイス願います。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ご縁の中で、ご縁のままに

たかりん様はじめまして、ご相談拝見しました。

拝読しまして、私はどうかな~と振り返ってみたのですが、どうも私にとって嫌な面がある人でも関係が続いている人もいますし、逆に特に嫌な面など記憶にない人でも関係が続いていない人は沢山いるなあと、このご質問のご縁によりあらためて感じたところです。

たかりん様はどうでしょうか?これまでの人生の中でたくさんの人間関係があったことと思います。嫌な面があった人との関係は一人残らず排除に成功してきたでしょうか?良い印象をもっている人とは良好な関係を継続してこれたでしょうか?おそらく、そうあてはまらいない方もいるのでは?と思います。

「つくべき縁あればともない、はなるるべき縁あれば、はなるることのある」歎異抄第6章

私の思いを超えて、ご縁の中で生かされているのではないでしょうか?人間関係もまた然り、好きな人とも嫌いな人ともご縁の中で生きていかねばならないのだと感じます。

しかしながらおっしゃる通り、せっかくいただいたご縁ならば大事にしたいところではありますね。
何か嫌なことを言われたりされた時、私はなぜこの人はこんなこと言うのだろう?なぜこんなことするのだろう?と考えます。
そしてもし私が相手と同じ立場、同じ境遇、同じ状況であったら果たしてそうはしなかっただろうか?とよくよく考えると、そんなことは絶対に絶対にしない!なんて言えない自分がいるんですよね。

つまり、私はご縁が調えばどんな振る舞いもする人間でありますので、できる限り許すというか、受け入れるというか、あきらめるというか、そんな感じで同じ人間なのだからという一点で嫌いな面がある方とも関係を保ちたいものだなあとは思います。

実は「思います」というところがポイントです。ええ、いますよね~許せない人間が。嫌いな人は嫌いです。私も聖人君子ではありませんのでそりゃあ正直いますよそういう人。

それでもやはりつくべき縁あればつかざるをえません。
嫌な人がいれば避ければよいでしょう。避けれるほどの嫌な人ならましなもんです。嫌なのに避けられない人の嫌さといったら…(以下省略

というわけで、これまでいただいたご縁の中で生きてきたたかりん様です。力むことなく共にこの嫌いな人とも出会わなければいけない世の中を生きていきましょう。

不安を和らげる回答にならなければ申し訳ありません。

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個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

ワタクシアプリをOFF

性格をより反応を変えましょう。物事を観た時の自分の過剰反応を改めればいいのです。
人間は自分より強大な者や、価値観の正義を揺るがすもの、自分の正しさを脅かすものに出逢った時などに過剰に反応します。
カチンとくる、許せない、ムカつく、イラつく…その根本、根底にあるものは何か。
あなたの大切な何かを壊されるような「気がする」のではないでしょうか。
この「気がする」というのがポイントです。
人間の好き嫌いはシュン時に行われます。
物事に出逢ってほんの0.01秒くらいで瞬時にカチンと来ます。
ですが、坐禅や瞑想、念仏、仏行をしていると、もっとその前に、気づく力が宿ります。
自分の好き嫌いというものは、第二番目に行われているからです。
本当に冷静な目、仏道の眼から物事を観ますと、例えば私が嫌いな柳原◉奈子がTVに出ていたとしても、出くわした最初の時点においては何の害も好き嫌いもなく、ただ柳原可奈子です。
出会い頭の時点では、渡◉直美かバービ◉か柳原加奈◉か分別がつかなかったこともあります。
そこが、あなたの性格、好き嫌いをなくす為の精神改革のポイントです。
今度嫌いなものでもじっくりじーっと見ていてください。
ただ、私見を交えずにじーっとみていると、本当に何でもなくなるのです。
穴が開くほどによーく観察してみてください。
人間の好き嫌い、思慮分別以前の感受のままになります。
私も柳◉可奈子さんが嫌いだったのは「私の中の」あるルールがあったから、私的に「自分にとって」という色眼鏡を優先してみていたのです。
その自分にとってという価値観、色眼鏡を外すと、そこにはタダのその人がその通りにあるだけになり、排除も好き嫌いも何もなくなってしまいました。現在全然へっちゃらになってしまった。
「自分にとって」というアプリが起動していますと、どうしても自分中心に物事を観ます。
「自分にとってキライ」な人だったら沢山いるはずです。
仏道修行、坐禅、念仏は「自分の、オレの、私の、私が」というアプリをOFFにしたものの眺めなのです。「ワタクシ」「ワタクシめにとって」というフィルター、色眼鏡なしに見てみてください。
明日さっそく実験してみてください。嫌うものが無くなるのが楽しみになりますよ。もし嫌いが出てきてしまったら、それはワタクシアプリがONになっているよ、という仏さまからのサインです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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