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仏教では自殺は悪いことではないというのは本当でしょうか。

回答数回答 4
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つい最近 「hasunoha」 をみつけて登録したものです。

早速ですが、
仏教では自殺を悪いことだとは言わないのでしょうか。

自分の肉体の生命を自分の意志で終わらせることを自殺であると定義したとき、仏教では、自殺はとがめられる行為ではないのでしょうか。

私は、キリスト教徒ではありませんが、自殺はしてはいけないとする意見に賛成するものですので、たとえば意識を失うほどの肉体の苦痛が私のところにやってきたとしても、その苦痛に忍耐するつもりで生きています。

そもそも、釈迦がいうところの「空」を素直に学べば、自殺は起こらないのではないでしょうか。

ご教示お願いいたします。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「死に際」「死に方」を問いません。

キリスト教では自殺は煉獄に落ちる大きな罪とされています。
自分で自分を殺すことは、宗教上「殺人」になるようです。
宗教的にいう「悪」だと位置づけされているのです。

あくまで、道徳的な観点でいう善悪ではなく、宗教的な観点で言う善悪だということを念頭に置いておかねばいけません。
自殺を悪い事だと言わないというのは、「悪行」「善行」という区分けの中に、死に方は含まれていないということです。

例えば、笑みをこぼしながら安らかに命終えたことを良い事と言って、苦しみながらもがきながら命終えることを悪い事だと言う人がいます。
それは私たちの勝手な見方、いわゆる道徳的観点によるものです。
どのような死に方をしようとも、仏様は善悪を問わないということです。

以前お寺のご門徒の娘様が自殺でいのち終えられました。
そのご両親は「自死はいけないことだ」という言葉を聞くたびに苦しくなるとおっしゃられていました。
「私の娘はいけないことをして死んでいったのでしょうか?ずっと悪者にされているようで悲しくてならない」とおっしゃるのです。

私たちは私たちの勝手な価値観で良し悪しを決めていきますが、それは大きな間違いです。
私たちは常に仏様の智慧から学ぶ必要があります。
仏様は死に方の善悪を問わないと聞かせて頂きましょう。

「悪いこと」と「悲しいこと」は分けて考えなくてはいけません。

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おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...
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本当、と言えなくもないですが…

一般人さま。
はじめまして、なごみ庵の浦上哲也と申します。
「自死・自殺に向き合う僧侶の会」という会に所属しており、お返事させて頂きたいと思いました。

結論から申し上げますと、「どんな場合・状況であっても、絶対的に悪いとは説いてない」です。
なぜそう言えるかというと、お釈迦さまの弟子でも何人か自ら命を絶っていて、お釈迦さまはそれに絶対否定の立場をとっていません。

時々「自死をすると地獄に落ちると言われました」といった相談がありますが、どの宗派の経典を調べても、自死=地獄とは説かれていませんでした。

ただ、自死について条件があります。
・悟りを開いた者が、その智慧をもって自死以外の選択がないと判断した時。
・「自死以外の選択がない」とは、病気やケガで耐えがたい苦痛があり、回復の可能性がない時。
だったと思います。

これはオランダなどで認められている、安楽死制度の条件と似ています。
http://753an.blog.so-net.ne.jp/2014-01-16-2

とは言っても、もちろん「否定していない」ことと「勧める」ことは全く意味が違います。仏教で自死を勧めることはありません。あらゆる手だてをもって、自死に至らないように努め、周囲もサポートしなければいけません。

よろしければ、「自死・自殺に向き合う僧侶の会」のHPもご覧下さい。
http://www.bouzsanga.org

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おきもち

浦上 哲也
横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗...
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善悪で判断することが疑問。

私は一般人さまに似た立場です。

自殺を正当化する教えが仏教だと勘違いされては困ります。
自分の感情を自分の細胞すべての意思と思うのも気が引けます。

何かの抗議のための自殺なら善なのか。
江戸時代のお侍さんの自害は善なのか。
仏性が育つ種を断ち切るから悪なのか。

娑婆にいるくらいなら死んだ方がマシと死を選ぶのは悪なのか。
残された人に恨みや悲しみを残すから悪なのか。

いろいろな立場があるかと思いますが、「善か悪か」を仏教だけで論じるのは矛盾が生じるような気がします。
自殺に至る原因は本人と周囲の関係性の中でそれぞれです。

人が死ぬ確立は100%
閻魔大王なら、娑婆の行いの善悪を審判するお役目かもしれません。

でもうちの本尊は善であろうが悪であろうが関係なくあらゆる衆生を救う立場の仏です。

自殺に至った苦しみがどんな形で報われるのか。
残された人々の悲しみや責めがあるならどうフォローするか。

自殺そのものの善悪論よりもその後のフォローの方を大切にしたいです。

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泰庵  一法
「変えるべきは自身ではなく歩む方向」「時間とお金の使い方」「向きが変われば...
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「空と縁起」

一般人様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

浦上様も既にご回答のように、仏教において自殺・自死を勧めるということはありません。

確かに釈尊の在世時において弟子たちが自殺されたということはございました。このことにつきましては、下記のページの内容をご参照下さい。

「仏教は自殺を本当に禁じているのか?」
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3138/suicide_buddhism.html

その上で、下記の問いにて拙見解を述べさせて頂いております。

問い「自殺してはいけない理由」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002970251.html

次に、『釈迦がいうところの「空」を素直に学べば、自殺は起こらないのではないでしょうか。』・・でございますが、「空」(無自性・無実体・無自相)という真理を理解することは、つまり、「縁起」を理解するということも大切となります。

問い「生きること、死ぬこと、どっちが辛いのか」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002992500.html

上記の拙回答にて述べさせて頂いておりますように、「空と縁起」の理解を進めることが迷い苦しみを超えていく上で非常に重要な鍵となります。

このことをここで詳しく扱いますと膨大な説明が必要となりますが、誤解を恐れずに簡単に述べさせて頂きますと、「空と縁起」を理解することは、因果の理をしっかりと理解することでもあり、悪因悪果、善因善果という中で、悪い結果となることが明らかであることを自らで行うことは無くなる、しないということにて、無明・煩悩による自殺・自死(悪業となる自殺・自死)などとてもできないということになります。

とにかく、私たちは、空の理解だけではなくて、縁起の理解も誤りなくに進めることも必要となります。

是非、これからも「空と縁起」の理解を深めて頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

(長くなりすぎたので書き直しましたが内容にちょっと不満を残したまま投稿させていただきます。)

和尚様 方方(尊敬語として)

早速のご回答ありがとうございます。

━アメリカで女性の尊厳死が話題になったばかりでした。私は、尊厳死もダメだと思う者です。━
紹介のサイトを拝見いたしました。生き生きと暮らすためには、自殺をくい止める必要を意識しての活動であると読みました。生と死のきわを彷徨っている人にとってはまず生きることが先決との解釈にいたりました。オランダのことは別の機会にと思います。

身内の人間の自殺による苦悩という課題があるのですが、その苦悩も乗り越えなければならない人生の課題なのだと思います。それが、身内、ということだと思います。さらに、身内の自殺を苦悩して、身内ではない人間の自殺を苦悩しないということがあるとしたら、それはどういうことなのでしょうか。きついけれど、こういう課題は常に突きつけられているのが現代社会だと思います。
とにかく、国家も地域社会も家族だって冷ややかな時代かもなという思いを抱く瞬間が私にはあります。

─ 修行と死 ─
人生は修行だ、と思っています。修行が楽しい、と言えるくらいになりたいと思っています。
単純にこう思います。
自分で死ぬのはダメと思います。肉体は自分の乗り物ではあっても所有物ではないとも感じています。「耐えられない程の苦痛は自殺で逃げてしまえ」と後の人たちに言い残すことにもなりえます。苦楽ですから、苦にも楽と同じ程度の積極的な意味があるのではないでしょうか。

自殺しないで苦に耐えることでその報いはどれほどのものになるだろうと発想するくらいのことを欲が深いとはいわないでね、とも思っています。

~書ききれないことを自覚しましたので切り上げます。~
ありがとうございました。
合掌

川口和尚 様

ありがとうございます。

目を通しました。私は書かれている内容に関しては抵抗なく理解できています。その上で、思いましたが、
仏教的な物の見方、という言い方がありますが、私は、そういう分け方に抵抗感があることに気がつきました。そして、たぶん、それだけのことかもしれません。生命が誕生、する。生命が死、する。すべてがこの中に収まるはずもなく、さりとて、多くの人間は外の記憶がなくなったまま生活していて、その為に迷っているということも、わかっているつもりです。 ━要はそういうことかもしれません。━ その上で、やはり、死はどのような形であれ自然にやってくるものだから、やってきたらその時は死、するのであって、自分の自由意志で選択できるような何ものかではない、という、原理原則が、魂の底からささやいているかいないかの違いは、大きすぎるのだなと思いました。ちなみに、現代社会ではほぼ空想になりますが、私が腹を切れば、百人の人間の命が助かる、そして私は死ぬ、というときは私はおきてを破って腹を切ります。が、助かった人たちもいつかは死にます。命という時間は空という縁によって起こり空という縁によって終わり、終わりという縁は即、起こるという縁を結ぶ。縁起は時間を食べて輪廻し、輪廻は輪廻をつかさどるものを見たことが無い。

ご教示、ありがとうございました。感謝いたします。
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