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過ち

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有り難し有り難し 19

はじめまして
現在学生の女です、質問させて頂きます。
よろしくお願いいたします。

私は過去に親友を裏切りました、
小学生の頃の話です。

クラスの何人かに親友が私の悪口を言っていると言われました、私はそれを真に受けて親友を徹底的に無視したり睨んだりしつこく何度も謝れと詰問してしまいました。
当時は裏切られたと思って激しく怒りました。

親友に問い詰めたときに、言ってないと言われたにも関わらず信じてやれませんでした。

今は言った言ってないなんてどうでもいいです、ただ自分が親友を信じてやれなかったこと、傷つけたこと、大変後悔しています。

親友のお母さんが私の家に文句(適切な言い方がわかりません)を言いにきてくれてそれがきっかけで謝ることは出来ました、しかし当時はなんで私が謝らなきゃいけないのだろう、私が被害者なのに、そんな気持ちが心にあり、ちゃんとした気持ちで謝ってはいません。

結局、中学の3年間、相手は私を見ると走って逃げていました。そしてそのまま別れました。

因果応報か、そのあと自分も全く同じような体験をしました。そのときに今までの自分の行動を省みました、私は人としてどうかしてました。

他にも過去を省みたとき自分は自分さえよければよく人を大切にしてませんでした。

過去にいじめられたこともあります、それを弱虫の私はいじめた本人ではなく関係ない人にぶつけたこともあります。

こんな悪行ばかりしてきた私はどのように罪を償ったらよろしいでしょうか。

ご助言いただけたら幸いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

誠実さ、誠意ある、まことの言葉を添えた手紙。

どんなに関係がこじれてもちゃんとお互いに意志表明さえできれば仲は修復されるものです。
あなたが何故、ブチ切れる程に相手に詰め寄ってしまったのか。
そこに向き合えば答えは明瞭です。
恥ずかしいでしょうがちゃーんと向き合って、向き合ってそこをあなたが一人の人間として、彼女に友情もあったからこそ、強く責めてしまった事を伝えるべきです。
お二方のコミュニケーションは不完全のままです。
灯油ストーブもある程度の所にまで回しませんと、不完全燃焼で二酸化炭素がモクモクです。
昨年の冬に私は本堂をモクモクにさせました。
もう少し…、お互いの関係の灯油ストーブのツマミを全開まで回して完全燃焼してみませんか。(ナンダこの昭和な喩え)
私だったらその友達は大切ですから、こう手紙を書きます。
「あの時は本当にごめんなさい。実は、私は当時あなたの事がとっても大切な友達であると思っていたので、◉◌さんから、あなたがわたしの事を悪く言っていたと聞いた時、とても悲しくて、本当はあなたを友達だと思っていたのに、あなたを失うわれたことがとっても悲しくて、悔しくて、とても怒って傷つけてしまいました。でもそれは私のバカで愚かな間違いでした。あの時は正直、親まで来るとは思わず怖くて素直になれなくてちゃんと謝れなかったけど、あなたが私の姿を見て逃げて行ってしまった時にものすごく、大切な友達を失ってしまった事に気づきました。とっても後悔しています。逢いたいです。昔みたいに仲良くなりたいです。直接会っておわびをさせてもらえないでしょうか。連絡先…◉∇◆ どうか赦してください。無理でなければ、ご返信をお待ちしています。」
こんな感じで、これでで相手が拒絶してしまったら、自分の若気の至りを反省して、二度と同じ失敗を繰り返さない様にキモに銘じます。相手がどうであれ、あなたも相手を傷つけてしまった事は確かですから、本当に素直になればアナタが謝るべきことであることは分かるはずです。
情報は情報。真実は真実。
あなたがもし、手紙を書いてポストに投函する勇気があれば今後の人生は大きく変わるはずです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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