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頭の中がぐちゃぐちゃです

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はじめまして。

ここ数ヵ月のことなのですが、頭の中の思考回路がぐちゃぐちゃで、いつも脳みそが熱をもったような感覚です。
思考の糸がからまりにからまりあって、どうしようもなくこんがらがってしまった状態といいますか…
以前はそのからまりを少しずつほぐし、落ち着くこともできたのですが、どうしてか今はそれができません。

頭の中が落ち着かないので、
たとえば小説の文章を追いながら、情景を考えるだとか、
洋画を見ながら字幕を追うとか、
そういった、二つの思考を同時にこなすことができなくなりました。

パンクしそうな頭の中も、特定のなにかを考えているわけではなく、
例えるなら雑踏の中で多くの人が好き勝手話しているような感じで、
ただごちゃごちゃと煩雑で身のない状態です。
そんな風に頭の中が騒がしいので、集中力の衰えも実感しています。
創作を生業としていますが、仕事のために物語を筋道立てて考えることも、途中で脳がはち切れそうに熱くなり、考えが続きません。
今この文章を書くことも、頭がじりじりとしています。

これは老いなのか、とはいえまだ今年でようやく25歳になる身、いくらなんでもまだ…と考えては
自分の現状に焦り、苛立ちます。
その焦りで余計頭に熱がこもります。

これは自分の問題なのだからと自力で解決しようとも思いましたが、
どうしても上手くいかず、長く悩み続けることになってしまい、
もう自分ではどうしようもないのかと、こうして筆をとらせていただきませた。

漠然とした質問で、非常に申し訳ございませんが、
このこんがらがってしまった思考回路をほぐせるような考え方や、
頭の熱にとらわれないような気の持ち方は、どうすれば得られるでしょうか。
ご回答をお待ちしております。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それを厭い嫌う心が問題

人間は本当は一つ時に一つことしかできないものです。
テレビみながら書道をすればテキトーな寺になるでしょう。
現代人は器用なもので友達同士合いながら食事しながらスマホでラインやゲーム、ネット閲覧もしています。ある意味大道芸人ですね。
大道芸人で川原彰さんというとても面白い方がおられます。
大道芸人さんは同時に沢山の事をこなしますね。
ですが、それを観ている私たち側は「ひとつこと」が映じられているのです。
同時に沢山のことを瞬時瞬時に観ることもできますが、究極的には一つ事一つ事なのです。
この文字にしたって、真剣に文字を追っている時は他のことは疎かになっているものです。
本当に一つの事だけを瞬時瞬時に専一に行われていることが誰もの本来の様子です。
ところが質問者さんは、その「ひとつこと」を映じている、聞いている時に、余分な字幕、テロップ機能がONになってしまっているのです。それ、OFFにしましょう。
もくもくとコメントなしに今向っている事、触れていることと「ひとつこと」になってみてください。
たとえ癌であっても、そのガンに対して、あれこれ取り扱う余分な字幕、テロップ機能が働いていない時は癌でもうつでも私のようなボンビーでもブチャイクでもデブでも何でもないものです。
これぞ、シャレではないですが知らぬがホットケさまです。(シャレだろが)
私は今、ある病にかかっていますが、だからと言ってどうしようもありません。
そこに余分なはからいとなる、インナー字幕、脳内コメントをオフにしています(仏道修行)から、何の障りもありません。興味があったら日曜の坐禅瞑想会までお越しやす。
坐禅とは、それがそれであって、その事に対してそのままにしておくことで、そこに私が介入してどうのこうのすることをしないことです。
今も、何か不自由があるにしても、私が述べましたように病気であっても、体の異変があっても、まず、そこに過剰反応せず、そっとしておいてみてください。
胃カメラを上手に飲む人がいるそうです。
何が入ってきても、心身ともに静かにしていることです。
分りにくい喩えかもしれませんが、同じように心しずかにやり過ごして、事のなりゆきをただ、じっと見届けてみてください。自分が黙ると問題はなくなるものです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

坐禅をしましょう!

こんにちは、春駒さん。頭がオーバーヒートと言う事ですね。お昼にカレーライスを食べて、夜はそのお皿に焼きそばを載せて食べたらカレーの味が混じりますよね。思考・心も同じです。思考・心の洗濯には坐禅がいいと思います。東京には坐禅が出来る有名なお寺があると思います。肝心な事は・腹式呼吸と数息観を学ぶことです。先ずはネットで調べてみてください。出来たらお寺で手ほどきを受けられたらいいと思います。参考にしてください。

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有り難し
おきもち

青年の自立支援(生活改善・病後の静養・引きこもり等)

質問者からのお礼

早速のお返事をありがとうございます!
恥ずかしながら坐禅には漠然としたイメージしか抱いていなかったのですが、肝心なポイントも教えていただけて、とても嬉しいです。
やり方もお寺も、早速調べてみようと思います。

丹下 覚元様
お返事ありがとうございます!
メッセージのタイトルにはっとしました…。
現状に焦ることで更に悪化するループに陥ってしまっていましたので、それを絶ちきるためにも自分の在り方を改めてみたいと思います。
ご丁寧にありがとうございました。

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