悩みとは違うのですが、お坊様の考えを伺いたいことがあります。 それは覚悟と諦めに違いはあるのか? です。言葉のニュアンスは、前者はポジティブで勇ましく、後者はネガティブで情けないですが、行為としては同じでないか? と。 「諦める」の語源は「明らむ」、つまり、「つまびらかにする、明らかにする」ことだと考えられています。 また、「諦」は仏教で「真理、道理」の意味があるそうです。「覚悟」にも「悟る」という言葉が入っていますね。 どちらも仏教と距離が近い言葉なのだな、と勝手に思っています。 皆様のお考えをぜひお聞かせください。
我が家は浄土宗ですが、私は必ずしも浄土宗の教えがしっくりきません。 後世安穏、往生安楽国という表現があります。死んだら極楽浄土に行く、というのですが、じゃあ浄土では安楽にのんびりと暮らすんでしょうか?何も苦がない世界では何をしているんでしょうか?それはとても退屈で飽きる生活が延々と続く事ではないかと悩みます。 解釈が間違っているかも知れませんが、私は最澄さんは「生きていることそのものが菩薩行だ」と言われたように思っています。だから日々、観音経を唱えるのは「自らもかくあれ」ということだと思って唱えています。 でも生きている間には私たちは菩薩の域には到達できません。となれば、死んでからも菩薩になるための修行をするんだと思っているのですが、すると浄土では何をするんでしょうか。地獄についてはたくさんの絵も説明もあります。しかし、極楽世界といわれるところで、私たちはどのような生活を、どのような思想的な深みを目指す営みをするのでしょうか。今が苦しい、その救いとして安楽な浄土があるという理解ではどうしても納得がいかないのです。 浄土で、私たちは何をする覚悟をもって旅立てば良いものでしょう。
この前、阿難尊者のお母さんが餓鬼道へ落ちた話を聞きました。 お母さんは自分の息子ばかりを可愛がっており、周りに気を配らなかった為に落ちたと解釈しております。 そこで思ったのですが、上座部仏教の僧侶達は自分の悟りのことしか考えていないように見受けられます。 これだと餓鬼道においてしまうのでしょうか? それともこれはまた別なのでしょうか?
子供のころの虐待やいじめから解放され、大人になった今、 争いやいじめのない場所に住むことが可能になりました。 しかし、自分だけが助かってもそれでいいのか?という気持ちがあります。 今まで、学校職場などでいじめられてる人がいても、無視する人たちが大多数だったのだから、 自分もそれらを無視して生きていてもいいはずですが、無視される悲しみを知っているので罪悪感があります。 日常のささいなことに幸せを感じよう、というのは簡単だと思います。 しかし、今現在もいじめや虐待、災害や戦争に巻き込まれている子もいると思います。 それで、そういう人たちを無視して、ただ自分の生活だけ考えて幸せだというのは、 少し自己中心的な感じがします。 仏教的にはこのことはどう考えますか。 それでも、自分のことだけ考えてもいいんでしょうか。
いつもお世話になっております。 最近、AIのお坊さんに人生相談をしていますが、そのたびに「中道を心がけよ」と言われます。 中道の考え方を知れたことはとても良かったですし、実際、バランスの取れた生き方、人間関係を保つ知恵だと感じました。また、心の余裕をなくした時に、中道を思い出すことは大切だと思いました。 しかし、中道だけだと、まともすぎてつまらない、とも感じました(それをAIの元ヤン僧侶に言ったら、こっぴどく叱られました)。 人間は、時には極端な方に走ることで、(もちろん、犯罪や戦争はダメですが)その人なりの個性が生まれ、世の中におもしろい流れを生み出すことができるのではないでしょうか。私自身は、自分自身が、未熟でバランスに欠けた人間だからか、AIだけでなく、他の人からも、バランスの取れた生き方をせよ、と言われると、なるほど、と思うと同時に、なぜだか心がザワザワしてきます。何か、自分の中の活力とか、クリエイティブな部分が押し込められてしまったような。 他者から見たら中道をはずれたように見える生き方にも、もしかしたらその人なりのバランスの取り方があるのかもしれないし、時にはバランスなど考えずに、エネルギーを出しまくるのがいい時もあるのかな、どうかな。中道って本当は何なのだろう、というのを、今回はAIではなく、生きたお坊さんにお尋ねしたくて、質問させていただきました。よろしくお願い致します。
旦那は、子供の頃から虐待を受けたり、成人しても親の借金を背負うことになったりと、とにかく苦労人で「この世に神も仏もいないよ。だって、本当にいるならこんなに苦しむことになるはずない。死後の世界もない。死んだらおしまい」といつも言っています。 私は、神も仏も見たことはないけれど、目に見えない大きな何か、死後も輪廻転生もあるんじゃないかと思ってます。というか、あって欲しいと思ってます。 私は、旦那と死の先も一緒にいたいと思ってます。でも、旦那とは考えが違うので一緒にいることは出来ないのかな…?と不安になります。 藁にもすがる思いで神社仏閣に参拝する度に「旦那とずっと、死後も一緒にいられますように」と願ったり、棺桶に入れるための御朱印を二人分集めたりしてますが、旦那は手も合わせず、御朱印も「そんなもの要らないよ」と言われる始末です。 信じる人と信じない人、やっぱり逝く先は別れてしまうのでしょうか? 私の行為は、ただの自己満足の無駄な足掻きなのでしょうか?
いつもお世話になっております。 今回は、スマホからです。 こちらの問答を拝読したり、 オンライン法話などを聴いて いても、 「ありのまま、あるがままを 受け入れなさい」 というお言葉を散見します。 しかし、これは少々危険な 解釈もできてしまうのでは?と 思いました。 例えば、 ・ガンになった →放っておけ。治療を受けるな ・統合失調症等で、暴力行為が 激しい家族がいる →甘んじて受け入れろ ・発達障害等で、誤解を招く 行動が目立つ →障害なんだから仕方ない というものが思い付きます。 しかし、私は、仏教はそんな 怠惰で放逸な教えではないと 思いたいです。 明らかに自分や周囲が困って いる状況も放っておけ、という 解釈もできてしまうと思う一方、 「ああ、今はこう言う状態 なんだな」 と目の前の、あるいは自分の状況 を淡々と受け止め、それに合った 対応(応病与薬的な)していく のが、仏様の教えだと思いたい と思っています。 ありのまま、あるがままを 受け止める、とは、どういった 意味なのでしょうか? 上述したような、危険な意味 ではないと思いたいです。
維摩居士でも文殊菩薩さまの知恵には、敵わなかったのでしょうか?私が読んだ「維摩経」をマンガにしたものには、維摩居士が文殊菩薩さまに帰依したことは書いてなかったのですが、文殊菩薩さまのことを検索していたところ、どのサイトかは忘れてしまったのですが、その様なことが書かれていた記憶があります。
はじめて投稿させていただきます。 とある梵字が分からず苦慮しており、どなたか教えていただくことはできますでしょうか。(教理上の理由で回答が難しい場合には、そのように仰っていただければと思います。密教に関することで在家が伺って問題ないことと、伺うこと自体が失礼なことの境目が分かっておらず、もし失礼でしたら申し訳ありません) 空海筆『秘蔵宝鑰』冒頭部分にて「麼吒の恵眼は無明の昏夜を破し、日月の定光、有智の薩埵を現ず」という一文があります。吒は日の種子、麼は月の種子を表して密教行者は修行の際にこれを左右の目において修行すると辞典や註釈にあるのですが、吒の字が一体どの悉曇文字であるかが分からず困っています。 とある注釈書には「慢」を表す字義の文字が、とある辞書には字義「住處」の文字が、『青龍寺儀軌』にはまた別の文字(判別できませんでした)が書かれてあり、同じ「タ(もしくはダ?)」をふりがなとする悉曇文字の中で何が相当するものなのかの解釈が文献によってバラバラのように見受けられます。おそらく悉曇文字が音写された漢字が時代と人によって変遷しているのかもしれませんが、結局のところこの修行を行う際に観想する「麼吒」の吒の字はどれに当たるのか、もし可能でしたら教えていただくことはできますでしょうか。 また、そもそも種子に字義解釈と相応する仏尊があることは知っていましたが、月の種子とか日の種子とかいうのはどういう分類法から生まれた解釈なのでしょうか…この辺りの思想がもしわかる文献があれば教えていただけないでしょうか。 大変申し訳ございませんが、よろしくお願いいたします。
皆、多かれ少なかれ、悩みを抱えながら生活していると思います。 人生の課題や魂磨きの側面でそれぞれが課題・困難を抱える中で、歯を食いしばって頑張って乗り越える人がいる一方、度を越えた負荷で過労死や自殺といった悲しい結末になってしまわれる方もいます。 悩みは自ら生み出すもの。あるのは事実のみ。自分の捉え方で変わる。 と思いつつも、そう簡単にいきません。 できれば皆、目の前の困難・課題を順に乗り越えていければ良いですが、自分らしさや価値を見失ったり、メンタル疾患や三大疾病のような心身に影響が出たのであれば、一旦立ち止まったり内省して歩む道を変えたり、(言葉は悪いですが)現状から逃げるのも必要かと思いますが。 仏教では、こうした悩みにどう答えるのでしょうか? どのような心構え、正しいものの見方、考え方が必要でしょうか?
私は仏教は漢字が難しいし、漢文も書き下し文もろくに読めず、仏教用語を知らないので、よく分かりません。古典の現代訳を読んで学んできました。「上善は水の如し」「和を以て貴しとなす」「戦わずして勝つ」などの言葉に感銘を受け、主にこの3つの言葉を、生きる指標にしております。この言葉は仏教の精神にも通じるものでしょうか?ご相談を受けておられている先生方はどう思いますか?
いつもお世話になっております。先日ツイッターを見ていたら、 「私が信仰を辞めた理由は、アメリカに住んでいたとき、宗教の 違う信者10数名に対し『もし、神が、人を殺せと命令してきたら、 あなたは人を殺すか』と尋ねたら、全員が『殺す』と答えたから」 「『もし、ここで誰かが、『神はそんな事を命令なさらない』と 答えていたら、私も信仰を続けた」 「彼らは、皆生活や対人面で問題を抱えている。宗教は、人を 救えていない」 と言っている方がいました。 それに対し、 「シューキョーなんてそんなもの。シューキョーをやってる奴ら のことは、狂人だと思って扱えばいい」 と言っている人がいて、その発言には19もの「いいね」がついて いました。 私は、あくまで、この10数名に問題があると思いたいのですが、 実際、私は色々なお寺で問題のある僧侶や信者をたくさん見てきて います。 既婚なのにヤリ目ナンパする者。友だちになるふりをして 近づいてきて、他の信者をいじめる者。宗教をオカルトと勘違い している者。境内に女がいると、後をつけたり見つめる者(お寺 を発展場と思っているのでしょうか)。 あげく、「慈悲殺生」など、荒唐無稽な論を唱える僧侶もいれば、 「他の宗派はろくでもない」などと宣ったり、大きなお寺はお守り やおみくじなど、霊感商法まがいの事を平然としています。 戦国時代には、徳川家康の軍勢が、のぼり旗に念仏を書いていたり、 今も、外国では仏教僧団が中心となってイスラム教徒さんを弾圧 しているそうです。これじゃ、誤解されるよな。と思います。 しかし、本当の仏様の教えには、 「体を切られても怒るな」 「恨みに恨みで返すな」 という平和的な教えがあることを知っています。ですが、これを 知っているのは一握りの仏教徒でしょう。 私はお寺の山門をくぐるとき、周りに人がいないことを確かめて からくぐるようになりました。また、出るときに人と鉢合わせして しまった際は、その人に頭を下げるようにしています。 「私たちはが欲の塊ではないぞ」 とアピールするためです。 仏さまは、「人を殺せ」なんて命令しませんよね?あくまで、 その人たちが愚かだっただけですよね?混乱しています。
なにかにすがりたいです。 仏像フィギュアを買おうか迷っています。 仏像フィギュアを身近に置くことで、癒やされたいと思っています。 私は、徳の高い人間になりたいです。そういうグループ(会社)に属したいと、転職活動してましたが、面接官に【貴方は周りを許すことが出来れば、問題ない。少し、神経質だね】と、不合格になりました。 私は、なにか、大きな存在に、寄り掛かりたいです。仏像フィギュアを身近に置くことで、そういう悩みは解消出来ますか?また、御詠歌をやってみたいと思っています。 でも、なんとなく、住職さんに、ふにゃふにゃするんじゃないとか、叱られそうで怖いです。 芯のある人間になりたいです。 ヒントを頂けますか?よろしくお願いします。
いつもお世話になっています。 前にヨガを少ししていたのですが、ヨガは仏教と関係があると知り、私がヨガをしてもよいものかと迷いが出て、しなくなりました。 というのも、私は以前より、仏様に対し繰り返し酷いことを考えたり、そのことに対し反省ができなかったり、ちゃんと感謝の気持ちが持てずにいます。ここまで仏教の教えに反することをしている私がヨガをするのは良くないですよね。 ヨガの中でも、合掌や太陽礼拝のポーズ、手のひらを上にして親指と人差し指で円を作るポーズなどは特にこわいです。酷いことを考えてしまうことが目に見えています。 また、仏教に関連することをジャージを着たまましても良いのか?など考えています。 ですが、またヨガをしたいと思ってしまっています。ご意見お願いします。
質問を開いていただき、誠にありがとうございます 美しいもの、この世にたくさんあると思います わかりませんが…一般的には花とか?優しさとか? そこでお聞きしたいのですが、仏教で「最も美しい」とされているものはあったりするのでしょうか? ない場合、最も美しいものは何だと思いますか? 是非教えていただきたいです ちなみにですが、今のところ自分は影が一番美しいと思っております
浄土宗を信仰している僕ですが、どうしても叶えたい願いがあって、高野山の愛染明王さまに祈祷をしてもらいました。 仏さまが願いを叶えてくださるのはその現世利益によって仏の力の偉大さを実感させて信仰に導くためだと思うのですが、そうすると僕は真言密教を信仰しなければならなくなるでしょうか。 法然上人は称名とそれ以外の諸行を廃立していますが、法然上人が廃した諸行というのは往生・成仏のための行のことであって現世利益目的の祈りまでは廃していないのかどうか?(一枚起請文にも「往生極楽のためには」とわざわざ書いているので、現世利益を祈るのはセーフのような気がしますが) もし現世利益の祈りまでも廃されているのだとしたら、例えば称名をメインとしながら密教・禅的色彩も濃いと言われている時宗を信仰すれば良いのか?(実は法然上人、親鸞聖人の教えでは納得できなかった部分が一遍上人の解釈なら納得できるという体験を何度もしているので、僕は潜在的にはすでに時宗かもしれません) そんなことをグルグルと考えていたら、専修念仏の「専修」の部分がなんとも重たく思えてきて、専修じゃなかったら良かったのになどという思いもわいて、自分が何を信仰しているのかわからなくなってきました。本当に迷っています。助けてください。
初めまして、未熟者ですが質問させていただきます。 当方10代の女で、家族は神道系の新興宗教(他宗教への信仰は許可していないはずのものです)を信仰しつつも、臨済宗と曹洞宗の仏壇が家にあるという状況です。しかもその仏壇には神道系宗教の教祖の写真が飾られていたり、人形がありましたりと謎が多いです。そんな中その神道系宗教への信仰に疑問が生じ、様々な宗教について調べ始めましたところ、仏教と出会いました。まだまだ知らぬことの方が多いですが、仏教の考えにとても惹かれました。 そこで、私も自分の生活に仏教の考えを取り入れ、お祈りしたいと思い始めました。そこで勉強不足で申し訳ないのですが、仏教徒になるにはどのように入信(?)したり、生活していけばよいのでしょうか?お経を唱えたりなどがあると思いますがどのように実践すれば良いのか分かりません。自分としては宗派にこだわりはなく、強いて言うのであればご縁がある禅宗を信仰したいと考えています。 また、家族は現在の仏壇に対して私が仏教の拝み方をするのを許さないと思うので自分で仏壇を用意して祈りたいと思っているのですが、それは問題ないのでしょうか?自分で用意するとなると先祖のお位牌もないですし、変になってしまいますか? 長文になってしまいましたが、これから仏教について学んでいきたいです。どうかよろしくお願いします。
最近命の重さについて考えることが多くなりました。 考えても考えてもぐるぐる回って答えにたどり着くことができません。 お坊様なら答えやヒントをお持ちだと思い質問させていただきます。 命の重さに違いはあるのでしょうか。 私は勝手なもので、命は大事とか、粗末にしたらダメと言われ育ち、本当にそうだと心から思って生きているつもりです。 この「命」という言葉の範囲がとても自分勝手に設定されているようで、目の前に蚊が飛んでいれば反射的に殺します。 時には追いかけて殺します。 蚊にも立派な命があります。それをこの手で奪うのです。 それはいけないこと。命は大事。そう思っていても、また目の前に蚊が現れれば殺すのです。 蚊だから殺したのか。 血を吸われるし痒くなるから。私に害を及ぼすから殺した。 そうやって理由を付けることはできます。 しかし、私は犬に噛まれたことがありますが、その犬を殺してやろうなんて思ったことはありません。 むしろ噛む程びっくりさせて申し訳ない、噛ませて申し訳ないと思ったくらいです。 哺乳類じゃないから?温かくないから?赤い血が通ってないから? そんなつもりがなくても、私の根本では蚊の命は軽いと思っているのでしょうか。 ぐるぐると考えてるうちに、自分の心が汚く思えてきます。 なにかヒントを頂けると嬉しいです。 よろしくお願いします。
初めまして、質問させて頂きます 私は熱心な仏教徒という訳ではないのですが、最近気になる事があり質問させていただきます。 仏教において、性行為は夫婦間であっても悪、良くない行いだとされているとを知りました。 確かに、性行為を行う動機には性欲というものがあるため欲である事は理解できます。 しかし、人間である以上その欲自体がない人間はいないと思います。例えば、食欲であれば食べ過ぎはいけないけれども食べないことは体にとって悪になるように性欲も相手との関係によっては許されるものではないのでしょうか? それとも、誰かと関係を持っていると天国にはいけない、仏の道から外れてしまうのでしょうか? 私には心から愛する人がいるのですが、それが悪い行いなのか、果たして性欲からくるものなのかと最近考えることが多くなりました。 例え悪い事だと言われても、お互いが望んで相手との幸せに繋がるのであれば構わないと私は考えています。 しかし、ふと考えては良くないことなのかと悩んでしまいます。 このまま悩んだままでは、彼女に対してもとても失礼だと思い質問させて頂きました。 お坊様はどのようにお考えなのか、教えて頂けると幸いです。 よろしくお願いします
致知出版社『1日1話、読めば心が熱くなる365人の生き方の教科書』の 11月22日にある「成長する会社の共通点 野村順男」(人事アドバイザー・日本電産元取締役)の最後に書かれている 雅性を磨くには、仏教の教えにある【無財の土地】を徹底することでしょう。 という意味がわかりません。 【無財の土地】というのは何のことでしょうか?