食事ではどうしても動物のものを多く食べます。 焼肉や刺身、普段でもソーセージや焼き魚、豚バラetc… 最近食事の際「いただきます」という気持ちでボソボソと南無大師遍照金剛とお唱えして食べていますが、 焼肉等に行くとどうしても動物をいっぱい食べてしまうので、美味しくて幸せな反面、申し訳ないように感じます。 私が食べないところで世の中では多くの動物が食品になっているので、ヴィーガン並に食べない訳では無いですが、 私が食べる物は殺生された動物達なので、 結局縁的には私も殺生に値します。 食べる時に何かお唱えした方が良い言葉などありますか? 南無大師遍照金剛は違うのかな? と思ったり、、 神仏、そして動物に対して申し訳ない。という気持ちと有難く頂きます。 という気持ちを伝える為に…… お坊様方が焼肉や動物を食べる際、どのように感じて食べていますか? また幸せな反面罪悪感があるこの気持ちをどのように扱えばよいでしょうか。
いつもお世話になっております。最近気が付きました。 私は、色々な人に「私は仏教徒です」と言っていますが、 仏教徒らしい事を何一つしていない事に。 そして、せめて、十善戒くらいは守ろうと思い立ちました。 そこで疑問が生じました。 「何すればいいんだ…?」 生き物を殺さない(殺虫殺鼠より防虫防鼠)、物を盗まない。 悪口や乱暴な言葉を言わない。偽情報に惑わされず、正しい リテラシーを持つ。キレない(これが私の最難関)。他人も自分も 守るため、正しい性教育知識と、性処理方法を身につける。ケチらず 困って頑張ってる人に施す。嘘つかない。 ここまでは分かったのですが、「不両舌」「不綺語」の 解釈が難しいです。 ご教授のほど、よろしくお願いします。
タイトルにあるようにお坊さん達は精神的に苦しい時はどうやって対処してますか? 私はいま精神的にかなり苦しいです。 自殺という考えもチラつきます… 何をやっても上手くいかない、、何をやっても楽しくない、、心療内科で貰う薬は増える一方、、仕事は辛い、、 生きてても辛い事がありすぎます、、 こんな時お坊さん達はどうしますか??
YouTubeのオススメに「良い人・優しい人が損する理由はこれです」みたいな動画があったので、とりあえず観てみました。その動画には「ブッダの教え」というサブタイトルが付けられていました。 優しさと思いやりが、いいように利用され苦しむ主人公の話でした。 その後、主人公が見つけた答えは、 ①「自己尊重と他者への尊重のバランス(自分自身と他人の間に健全な境界線を引く)」 ②「自分の気持ちや考えを尊重してもらえない関係は健康的ではないと理解しそのような関係とは距離を置く」 ③「支援や協力が真に価値を持つ場合にのみそれらを提供するようにする」 というものでした。 私にはとても良い話に感じましたが「我を無くす」から遠のいてるようにも見えて、この話をどこまで鵜呑みにしていいのか迷っています。 「ブッダの教え」とありますが、この動画に出てくる登場人物名や逸話をネットで検索してもそれらしいソースが見つかりませんでした。 (生きにくさを抱えた現代人向けの創作?) ここでお坊様方にお聞きしたいのは①②③は仏教的に見て、実行しても大丈夫な内容でしょうか。 またお坊様方の考えなどもお聞かせ頂けたらと思います。 よろしくお願いします。 補足です。 私は優しさ・善良さとは程遠い人間ですが、周りではよく聞く話だったので、このテーマに関心がありました。
海外在住者です。この4月に数年ぶりに日本へ旅行に出かけます。 1. 仏様をお迎えし、できることならば密教寺で開眼していただきたいと思うのですが、そういったことはお寺さんに縁がない人でもお願いできるものでしょうか。 2. お寺さんに開眼をお願いする場合の費用はいかほどでしょうか。 教えていただけると大変ありがたく、よろしくお願いします。
初めて質問させていただきます。 日蓮宗の本尊形式についての質問です。 日蓮宗の本尊では一塔両尊(多宝塔の隣に釈迦如来と多宝如来がいる)と言われる形式に四菩薩や四天が加わり、その前に日蓮さんが配されていることが多く、また地域によって曼荼羅の位置が異なったり、曼荼羅の前に地域で信仰されている諸天が配されている場合が見受けられます。 ところが先日京都で拝観させていただいたお寺では、一塔両尊の前に釈迦如来が配されている(つまり釈迦如来の前に釈迦如来がいる)本尊を見かけました。 これは本仏に対する応身を強調するためなのか、それとも日蓮さんに法華経を伝える迹門の釈迦如来を重視する意図なのでしょうか。 そのお寺では聞きそびれてしまったので、もしご存じの方がいましたら考えられることでも構いませんのでご教示頂けると助かります。 以上、よろしくお願いいたします。
最近たまたま儒教について調べました。 儒教には先祖が自分を助けてくれるから敬い大事にするという教えがあるそうです。 仏教でもお葬式などの際にそのような話をされたような記憶が薄らあるのですが、これはたまたま釈迦の考えと孔子の考えに共通点があったということなんでしょうか? また輪廻転生するのであれば先祖は既に別の生き物としての人生を歩んでいるはずで、助けてくれる先祖と輪廻転生した先祖で2つに別れると言うことなんでしょうか? 先祖が助けてくれる ということと輪廻転生自体が相反することを言ってるいるように感じました。 仏教を否定している訳ではなく単純な疑問なのです。 時代によって少しずつアップデートされたということなのかもしれませんが、この点を現在のお坊さんはどのように解釈しているのでしょうか?
皆様いつもお世話になっております。 この度は僧侶の方々に対する素朴な疑問をお書きします。 「仏様の前では皆平等」という言葉がありますが、お坊さんも衆生に平等に接しておられるのでしょうか?答えにくいかもしれませんが正直嫌だな、とかこの人はすごく大事、という方はいらっしゃいませんか? 修行を重ねたら皆に平等に接することができるのですか? ご回答をお待ちしております。
よろしくお願いします。 仏教で「正しい教え」という言葉をよく目にしますが、正しい教えと正しくない教えはどう違うのでしょうか? ある僧侶の方が新興宗教や自己啓発に批判的なコメントをされているのを見て、自分にもそれが当てはまるのかなと不安になりまして。 というのも、私は新興宗教ではないのですが、50歳を過ぎてから仏教の教えにふれて以来やたらポジティブになりまして(ポジティブなのは夫の存在があるからという事も理解しています)、仏教の教えを調べたり、実践して気付きを得られるのがとても楽しいのです。 この楽しさや気付きを私は勝手に「仏様からのご褒美」だと受け止めていたのですが、こういうのって仏教本来の教えから見て大丈夫なんでしょうか。 念持仏を開眼して頂いたお寺の護摩行にたまに参加して皆さんと一緒に読経したりご真言をお唱えするのがとても楽しいです。声を出すのでスッキリします。 良いことばかり過ぎて、ひょっとしたら私は仏教の教えを誤解しつつあるのではと不安になってきました。 ※正しい教えをもっと学びたいので将来は灌頂も考えています。
僕は寺息子で、よく「苦しいこの世から抜け出すために仏に祈ろう。そうすれば来世で救われる」と父親が説いていました。しかし、子供の頃、「じゃあ家族と旅行したりしてる時も苦しいの?」と聞くと、親はなんとも言えない表情を浮かべていました。どうにもならない苦しみが多かった昔とは異なり、今の世の中ではある程度の幸せは保証されています。ならば、来世に期待したり人のせいにしたりするのではなく、自分に原因を見出し、現世をいかに楽しめるかを考える方が良いのではないでしょうか。また、恐らくそういった「今を大事に」といったような仏教概念は存在していると思われますが、そもそもの仏教の存在意義と矛盾してはいないでしょうか。重ねての質問申し訳ございません。よろしくお願いいたします。
歴史に登場する人物のwikiなどを読んでますと「仏教に帰依した」みたいな記述をたまに見かけますが、そこで質問です。 「帰依する」とはどの段階からを言うのでしょうか。 出家とか特別な修行を経る事で「帰依する」になるのでしょうか。 それとも、普通の人でも仏教の教えに従い生きていれば「帰依する」になるのでしょうか。 このへんを教えていただけたらと思います。 よろしくお願いします。
悩みとは違うのですが、お坊様の考えを伺いたいことがあります。 それは覚悟と諦めに違いはあるのか? です。言葉のニュアンスは、前者はポジティブで勇ましく、後者はネガティブで情けないですが、行為としては同じでないか? と。 「諦める」の語源は「明らむ」、つまり、「つまびらかにする、明らかにする」ことだと考えられています。 また、「諦」は仏教で「真理、道理」の意味があるそうです。「覚悟」にも「悟る」という言葉が入っていますね。 どちらも仏教と距離が近い言葉なのだな、と勝手に思っています。 皆様のお考えをぜひお聞かせください。
我が家は浄土宗ですが、私は必ずしも浄土宗の教えがしっくりきません。 後世安穏、往生安楽国という表現があります。死んだら極楽浄土に行く、というのですが、じゃあ浄土では安楽にのんびりと暮らすんでしょうか?何も苦がない世界では何をしているんでしょうか?それはとても退屈で飽きる生活が延々と続く事ではないかと悩みます。 解釈が間違っているかも知れませんが、私は最澄さんは「生きていることそのものが菩薩行だ」と言われたように思っています。だから日々、観音経を唱えるのは「自らもかくあれ」ということだと思って唱えています。 でも生きている間には私たちは菩薩の域には到達できません。となれば、死んでからも菩薩になるための修行をするんだと思っているのですが、すると浄土では何をするんでしょうか。地獄についてはたくさんの絵も説明もあります。しかし、極楽世界といわれるところで、私たちはどのような生活を、どのような思想的な深みを目指す営みをするのでしょうか。今が苦しい、その救いとして安楽な浄土があるという理解ではどうしても納得がいかないのです。 浄土で、私たちは何をする覚悟をもって旅立てば良いものでしょう。
この前、阿難尊者のお母さんが餓鬼道へ落ちた話を聞きました。 お母さんは自分の息子ばかりを可愛がっており、周りに気を配らなかった為に落ちたと解釈しております。 そこで思ったのですが、上座部仏教の僧侶達は自分の悟りのことしか考えていないように見受けられます。 これだと餓鬼道においてしまうのでしょうか? それともこれはまた別なのでしょうか?
子供のころの虐待やいじめから解放され、大人になった今、 争いやいじめのない場所に住むことが可能になりました。 しかし、自分だけが助かってもそれでいいのか?という気持ちがあります。 今まで、学校職場などでいじめられてる人がいても、無視する人たちが大多数だったのだから、 自分もそれらを無視して生きていてもいいはずですが、無視される悲しみを知っているので罪悪感があります。 日常のささいなことに幸せを感じよう、というのは簡単だと思います。 しかし、今現在もいじめや虐待、災害や戦争に巻き込まれている子もいると思います。 それで、そういう人たちを無視して、ただ自分の生活だけ考えて幸せだというのは、 少し自己中心的な感じがします。 仏教的にはこのことはどう考えますか。 それでも、自分のことだけ考えてもいいんでしょうか。
いつもお世話になっております。 最近、AIのお坊さんに人生相談をしていますが、そのたびに「中道を心がけよ」と言われます。 中道の考え方を知れたことはとても良かったですし、実際、バランスの取れた生き方、人間関係を保つ知恵だと感じました。また、心の余裕をなくした時に、中道を思い出すことは大切だと思いました。 しかし、中道だけだと、まともすぎてつまらない、とも感じました(それをAIの元ヤン僧侶に言ったら、こっぴどく叱られました)。 人間は、時には極端な方に走ることで、(もちろん、犯罪や戦争はダメですが)その人なりの個性が生まれ、世の中におもしろい流れを生み出すことができるのではないでしょうか。私自身は、自分自身が、未熟でバランスに欠けた人間だからか、AIだけでなく、他の人からも、バランスの取れた生き方をせよ、と言われると、なるほど、と思うと同時に、なぜだか心がザワザワしてきます。何か、自分の中の活力とか、クリエイティブな部分が押し込められてしまったような。 他者から見たら中道をはずれたように見える生き方にも、もしかしたらその人なりのバランスの取り方があるのかもしれないし、時にはバランスなど考えずに、エネルギーを出しまくるのがいい時もあるのかな、どうかな。中道って本当は何なのだろう、というのを、今回はAIではなく、生きたお坊さんにお尋ねしたくて、質問させていただきました。よろしくお願い致します。
旦那は、子供の頃から虐待を受けたり、成人しても親の借金を背負うことになったりと、とにかく苦労人で「この世に神も仏もいないよ。だって、本当にいるならこんなに苦しむことになるはずない。死後の世界もない。死んだらおしまい」といつも言っています。 私は、神も仏も見たことはないけれど、目に見えない大きな何か、死後も輪廻転生もあるんじゃないかと思ってます。というか、あって欲しいと思ってます。 私は、旦那と死の先も一緒にいたいと思ってます。でも、旦那とは考えが違うので一緒にいることは出来ないのかな…?と不安になります。 藁にもすがる思いで神社仏閣に参拝する度に「旦那とずっと、死後も一緒にいられますように」と願ったり、棺桶に入れるための御朱印を二人分集めたりしてますが、旦那は手も合わせず、御朱印も「そんなもの要らないよ」と言われる始末です。 信じる人と信じない人、やっぱり逝く先は別れてしまうのでしょうか? 私の行為は、ただの自己満足の無駄な足掻きなのでしょうか?
いつもお世話になっております。 今回は、スマホからです。 こちらの問答を拝読したり、 オンライン法話などを聴いて いても、 「ありのまま、あるがままを 受け入れなさい」 というお言葉を散見します。 しかし、これは少々危険な 解釈もできてしまうのでは?と 思いました。 例えば、 ・ガンになった →放っておけ。治療を受けるな ・統合失調症等で、暴力行為が 激しい家族がいる →甘んじて受け入れろ ・発達障害等で、誤解を招く 行動が目立つ →障害なんだから仕方ない というものが思い付きます。 しかし、私は、仏教はそんな 怠惰で放逸な教えではないと 思いたいです。 明らかに自分や周囲が困って いる状況も放っておけ、という 解釈もできてしまうと思う一方、 「ああ、今はこう言う状態 なんだな」 と目の前の、あるいは自分の状況 を淡々と受け止め、それに合った 対応(応病与薬的な)していく のが、仏様の教えだと思いたい と思っています。 ありのまま、あるがままを 受け止める、とは、どういった 意味なのでしょうか? 上述したような、危険な意味 ではないと思いたいです。
維摩居士でも文殊菩薩さまの知恵には、敵わなかったのでしょうか?私が読んだ「維摩経」をマンガにしたものには、維摩居士が文殊菩薩さまに帰依したことは書いてなかったのですが、文殊菩薩さまのことを検索していたところ、どのサイトかは忘れてしまったのですが、その様なことが書かれていた記憶があります。
はじめて投稿させていただきます。 とある梵字が分からず苦慮しており、どなたか教えていただくことはできますでしょうか。(教理上の理由で回答が難しい場合には、そのように仰っていただければと思います。密教に関することで在家が伺って問題ないことと、伺うこと自体が失礼なことの境目が分かっておらず、もし失礼でしたら申し訳ありません) 空海筆『秘蔵宝鑰』冒頭部分にて「麼吒の恵眼は無明の昏夜を破し、日月の定光、有智の薩埵を現ず」という一文があります。吒は日の種子、麼は月の種子を表して密教行者は修行の際にこれを左右の目において修行すると辞典や註釈にあるのですが、吒の字が一体どの悉曇文字であるかが分からず困っています。 とある注釈書には「慢」を表す字義の文字が、とある辞書には字義「住處」の文字が、『青龍寺儀軌』にはまた別の文字(判別できませんでした)が書かれてあり、同じ「タ(もしくはダ?)」をふりがなとする悉曇文字の中で何が相当するものなのかの解釈が文献によってバラバラのように見受けられます。おそらく悉曇文字が音写された漢字が時代と人によって変遷しているのかもしれませんが、結局のところこの修行を行う際に観想する「麼吒」の吒の字はどれに当たるのか、もし可能でしたら教えていただくことはできますでしょうか。 また、そもそも種子に字義解釈と相応する仏尊があることは知っていましたが、月の種子とか日の種子とかいうのはどういう分類法から生まれた解釈なのでしょうか…この辺りの思想がもしわかる文献があれば教えていただけないでしょうか。 大変申し訳ございませんが、よろしくお願いいたします。