私は神様仏様は宗教関わらず存在していると考えています。 どれか1つの神様仏様を信奉している訳ではありません。 日本には八百万の神という言葉がある通りどの宗教の神様も実際に存在していて、お寺、神社、教会等それぞれ神様仏様へ対してのマナーが違う場所だと考えていました。 それを友人に話したところ、変だと言われました。 お願い事はどうするの?と聞かれたので、そもそも神様仏様のお家に行っていきなりお願い事叶えて下さいは、人間でもされたら嫌な事神様仏様にしない。 お邪魔してますくらいの挨拶しかしてないと言ったら偽善的と言われてしまいました。 そんなに私の考え方はおかしいでしょうか?
…疲れた。訪問看護師さんが言うには、「頑張りすぎ」だそうです。 夏風邪がまだ万全じゃないのに、「熱下がったから平気!」と イキってデイケアの訓練行った。いつもの倍ピリついて頓服 飲みまくった。次の日動けなかった。 その1週間後の診察。家と病院間、所要時間2時間。往路は 電車で行けたけど、復路で体調最悪。タクシー呼んだ。 その夜。日向灘地震。そんな体を引き摺って、アパートの 入居者さんの食料三日分を買いに、その辺の店をヘルメット 被って走り回った。 さらに次の日、私が住む東京は震度3。震源は南海トラフ 近く。夜通し消火器の場所を探して歩いた。 また次の日。電池やら懐中電灯やらランタンやらでかい 鞄やら、重い物資を買って回った。翌日寝込んだ。 1日寝たから大丈夫かな~って過信して、やっぱり片道2時間 かかるお寺に行って、30分護摩でお経あげた。疲労は確かに蓄積 しており気分変調障害発生。寝込むことに。 きょう、寝込んで五日目です。ご飯をしっかり食べて、寝て います。早く元気になりたい。 私は、祈願寺のお不動様の画像をスクショ、また、お不動様の 木札を括り付けた手足付き抱き枕(作った)に抱かれながら 寝っぱなし。 私は将来、自分の力でアパート経営の経費を稼ぐことを目指して います。A型という働き方で就労しようとしています。これは、 同僚が全員精神や知的の障害者で、現場監督が福祉資格者さんという 職場です。 でも、私は障害者が苦手です。怖いし、一緒にいると彼らの 「波長」に飲み込まれイライラしたりするのです。 でも、働きたければ慣れなければいけない。 私は浄土宗なので、阿弥陀様を本尊としています。 浄土信仰のほかにも、不動尊信仰も持っています。私の夢は、 人間界でこんな体のため子供を育てられない分、極楽往生して 浄土で修行して清らかな体になったらお不動様に嫁ぎ、お不動様の 子供を産み、強い眷属に育てることです。 それほど強い信仰を持っています。 でも…お不動様は、阿弥陀様は、こんな弱い私をどう思ってる んだろう?弱いだけでなく、他の障害者が嫌い!と言って威嚇したり する(最近は深呼吸したり薬飲んだり努力して抑制している)私を どう思って浄土から、宮殿から見てるんだろう? 私は受戒者として、念仏行者として、どうなんだろう?
どの宗派にもご本尊様はいらっしゃいますが、そのご本尊様方の仏像を自宅にお迎えする際、魂入れをして頂かないとなんの意味もなさないとよく伺います。確かにそうなのかもしれませんが、信仰心を持ってして、帰依する一心でご本尊様をお迎えすることにも意味はなさないと思われますか?(魂入れをしないまま という意味です。)現在私は居住環境により仏像なくしてお念仏を申しておりますが、ご本尊様のお姿を日頃より身近に感じ感謝とともに供養させて頂きたいと思っているのです。
ご縁があって天照大神の坐像(木製)が 手元にございます。お祀りしたいと考えておりますがお仏像なので仏式でお祀りしても良いのか、それとも神として神式でお祀りしないといけないのかが判らず困っております。 ご意見、ご指導よろしくお願い申し上げます。
神仏への信仰心がとても篤かった医療人のお話です。 その人は幼き時に難病で視力を失い、家督を譲って琵琶法師と鍼師のどちらかを選ぶときに医の道を選んだそうです。親には「二度と家の敷居をまたぐでないぞ」と突き出され、入門先の師匠は「素足に埃が付いたら掃除やり直し」覚えも良くなく、ある日鍼を持たせてもらった時には、患者さんが痛さで悲鳴と怒号のクレーム続出…ことごとく破門。 後がなく生死をかけ岩屋に篭もって断食修行、無我の境地で空腹に転び手にした松葉(鍼のような)と、くるまった落葉を元に、のちの管鍼法を発案。「これなら患者さんも痛がらずに下手な自分でも施せる」心の清らかな和一さん、あれよあれよと出世し果ては将軍の病まで治癒。「よくやった和一よ、褒美を与える。何でも申せ」と将軍、ところが見返りを求めなかった和一先生、儲けは要らんと一旦断るも、当時の上下関係では言語道断。お互いにプライドがゆるさず譲り合わなかった末(流石の将軍もこれで諦めるであろうと、盲目の自分に)「ひとつ、目が欲しゅうございます」と頓智を効かせたところ「わかった」と将軍は引き下がり、しばらくして江戸の一ツ目という地名の土地に、「盲目と老体が遠方まで行かずともお参りできるように」と江ノ島の弁財天様を勧請、老いても尚熱心に参詣を怠らぬ和一検校を自分のケアスタッフとして「そばに置いておきたかった」のもあり、治療院のみならず弟子の養成所と神社まで併設、そして今も残るそうです ハンデがあっても自立して生きていける術を磨く、世界初の視覚障害者用職業養成機関は、実は江戸時代に「盲目となり家を出され、師弟関係も破門され…住むところもお金もなく、仕事のセンスにも恵まれず…只管に神仏に手を合わせ続けた」信仰篤き偉人の苦労の先に日本で生まれた逸話、私は大好きです! 話が長くなりましたが、私も勉強をし指圧師となって施術をしたいと毎日仕事に明け暮れています。元ヤン僧侶さんは「目標が半端ねぇ。もっと効率的にガッツリ考えろ」と喝を入れてくださいました(笑)息を吸うように朝日が昇れば仕事が入ってきて、6月は休みなしで母の日から連勤達成更新中です。今の仕事も好きですが、やっぱり指圧を専門学校で学びたい。 先日お寺でふと仏様から「前へ。只管に進みなさい」と声が聴こえた氣が…私の指圧を喜んでくれた母の為にも入学が叶うようエールをいただけますか。
これまでの人生の苦しみは、自分自身の内面の愚かさが原因であると思うようになりました。 自分の悪い業を滅罪するには、書籍などを参考にすれば、不動明王様を信仰すれば良いような印象を受けますが、観音様を一心に念じれば、必ず助けてくれる。お地蔵様は、どんなダメな人でも救ってくれる。毘沙門天王様を信仰すれば福徳を授けてくれる。どの尊を信仰すれば、自分の悪い業を滅することができるのか迷ってしまいます。どの尊を信仰すべきか教えてください。観音様、お不動様、毘沙門様、お地蔵様、全部信仰した方がいいのでしょうか?
仏教のことについて、著作権法では私的利用の範囲なら 著作者に許可を取らなくても画像を保存するなどが許可されていて、権利者が無断での転載.使用などを禁止している場合でも法律的には問題ないそうです。 ですが、仏教ではこれが偸盗に当てはまる様な気がします 権利者が保存などを明確に許可していない場合(無断での転載や使用を禁止している場合も含む)また、無許可で作者がXなどで公開している作品の画像を保存するのは、私的利用でも偸盗として罪に当てはまるのでしょうか?過去に違反してしまったことがあったので、罪なのかどうかが気になりました
いつもお世話になってます。実は友人にクリスチャンの人がいるのですが、カトリック、プロテスタントも仲が悪いし、プロテスタント内でも色々な教派がありお互いに仲が悪いそうです。それに比べ、仏教は宗派に別れていても昔はともかく現在は仲がよくいい関係みたいに見える、うらやましいと言ってました。そこで質問なのですが宗派間でお話し合いとか協定?とかされているのでしょうか?
食事ではどうしても動物のものを多く食べます。 焼肉や刺身、普段でもソーセージや焼き魚、豚バラetc… 最近食事の際「いただきます」という気持ちでボソボソと南無大師遍照金剛とお唱えして食べていますが、 焼肉等に行くとどうしても動物をいっぱい食べてしまうので、美味しくて幸せな反面、申し訳ないように感じます。 私が食べないところで世の中では多くの動物が食品になっているので、ヴィーガン並に食べない訳では無いですが、 私が食べる物は殺生された動物達なので、 結局縁的には私も殺生に値します。 食べる時に何かお唱えした方が良い言葉などありますか? 南無大師遍照金剛は違うのかな? と思ったり、、 神仏、そして動物に対して申し訳ない。という気持ちと有難く頂きます。 という気持ちを伝える為に…… お坊様方が焼肉や動物を食べる際、どのように感じて食べていますか? また幸せな反面罪悪感があるこの気持ちをどのように扱えばよいでしょうか。
いつもお世話になっております。最近気が付きました。 私は、色々な人に「私は仏教徒です」と言っていますが、 仏教徒らしい事を何一つしていない事に。 そして、せめて、十善戒くらいは守ろうと思い立ちました。 そこで疑問が生じました。 「何すればいいんだ…?」 生き物を殺さない(殺虫殺鼠より防虫防鼠)、物を盗まない。 悪口や乱暴な言葉を言わない。偽情報に惑わされず、正しい リテラシーを持つ。キレない(これが私の最難関)。他人も自分も 守るため、正しい性教育知識と、性処理方法を身につける。ケチらず 困って頑張ってる人に施す。嘘つかない。 ここまでは分かったのですが、「不両舌」「不綺語」の 解釈が難しいです。 ご教授のほど、よろしくお願いします。
タイトルにあるようにお坊さん達は精神的に苦しい時はどうやって対処してますか? 私はいま精神的にかなり苦しいです。 自殺という考えもチラつきます… 何をやっても上手くいかない、、何をやっても楽しくない、、心療内科で貰う薬は増える一方、、仕事は辛い、、 生きてても辛い事がありすぎます、、 こんな時お坊さん達はどうしますか??
YouTubeのオススメに「良い人・優しい人が損する理由はこれです」みたいな動画があったので、とりあえず観てみました。その動画には「ブッダの教え」というサブタイトルが付けられていました。 優しさと思いやりが、いいように利用され苦しむ主人公の話でした。 その後、主人公が見つけた答えは、 ①「自己尊重と他者への尊重のバランス(自分自身と他人の間に健全な境界線を引く)」 ②「自分の気持ちや考えを尊重してもらえない関係は健康的ではないと理解しそのような関係とは距離を置く」 ③「支援や協力が真に価値を持つ場合にのみそれらを提供するようにする」 というものでした。 私にはとても良い話に感じましたが「我を無くす」から遠のいてるようにも見えて、この話をどこまで鵜呑みにしていいのか迷っています。 「ブッダの教え」とありますが、この動画に出てくる登場人物名や逸話をネットで検索してもそれらしいソースが見つかりませんでした。 (生きにくさを抱えた現代人向けの創作?) ここでお坊様方にお聞きしたいのは①②③は仏教的に見て、実行しても大丈夫な内容でしょうか。 またお坊様方の考えなどもお聞かせ頂けたらと思います。 よろしくお願いします。 補足です。 私は優しさ・善良さとは程遠い人間ですが、周りではよく聞く話だったので、このテーマに関心がありました。
海外在住者です。この4月に数年ぶりに日本へ旅行に出かけます。 1. 仏様をお迎えし、できることならば密教寺で開眼していただきたいと思うのですが、そういったことはお寺さんに縁がない人でもお願いできるものでしょうか。 2. お寺さんに開眼をお願いする場合の費用はいかほどでしょうか。 教えていただけると大変ありがたく、よろしくお願いします。
初めて質問させていただきます。 日蓮宗の本尊形式についての質問です。 日蓮宗の本尊では一塔両尊(多宝塔の隣に釈迦如来と多宝如来がいる)と言われる形式に四菩薩や四天が加わり、その前に日蓮さんが配されていることが多く、また地域によって曼荼羅の位置が異なったり、曼荼羅の前に地域で信仰されている諸天が配されている場合が見受けられます。 ところが先日京都で拝観させていただいたお寺では、一塔両尊の前に釈迦如来が配されている(つまり釈迦如来の前に釈迦如来がいる)本尊を見かけました。 これは本仏に対する応身を強調するためなのか、それとも日蓮さんに法華経を伝える迹門の釈迦如来を重視する意図なのでしょうか。 そのお寺では聞きそびれてしまったので、もしご存じの方がいましたら考えられることでも構いませんのでご教示頂けると助かります。 以上、よろしくお願いいたします。
最近たまたま儒教について調べました。 儒教には先祖が自分を助けてくれるから敬い大事にするという教えがあるそうです。 仏教でもお葬式などの際にそのような話をされたような記憶が薄らあるのですが、これはたまたま釈迦の考えと孔子の考えに共通点があったということなんでしょうか? また輪廻転生するのであれば先祖は既に別の生き物としての人生を歩んでいるはずで、助けてくれる先祖と輪廻転生した先祖で2つに別れると言うことなんでしょうか? 先祖が助けてくれる ということと輪廻転生自体が相反することを言ってるいるように感じました。 仏教を否定している訳ではなく単純な疑問なのです。 時代によって少しずつアップデートされたということなのかもしれませんが、この点を現在のお坊さんはどのように解釈しているのでしょうか?
皆様いつもお世話になっております。 この度は僧侶の方々に対する素朴な疑問をお書きします。 「仏様の前では皆平等」という言葉がありますが、お坊さんも衆生に平等に接しておられるのでしょうか?答えにくいかもしれませんが正直嫌だな、とかこの人はすごく大事、という方はいらっしゃいませんか? 修行を重ねたら皆に平等に接することができるのですか? ご回答をお待ちしております。
よろしくお願いします。 仏教で「正しい教え」という言葉をよく目にしますが、正しい教えと正しくない教えはどう違うのでしょうか? ある僧侶の方が新興宗教や自己啓発に批判的なコメントをされているのを見て、自分にもそれが当てはまるのかなと不安になりまして。 というのも、私は新興宗教ではないのですが、50歳を過ぎてから仏教の教えにふれて以来やたらポジティブになりまして、仏教の教えを調べたり、実践して気付きを得られるのがとても楽しいのです。 この楽しさや気付きを私は勝手に「仏様からのご褒美」だと受け止めていたのですが、こういうのって仏教本来の教えから見て大丈夫なんでしょうか。 念持仏を開眼して頂いたお寺の護摩行にたまに参加して皆さんと一緒に読経したりご真言をお唱えするのがとても楽しいです。声を出すのでスッキリします。 良いことばかり過ぎて、ひょっとしたら私は仏教の教えを誤解しつつあるのではと不安になってきました。 ※正しい教えをもっと学びたいので将来は灌頂も考えています。
僕は寺息子で、よく「苦しいこの世から抜け出すために仏に祈ろう。そうすれば来世で救われる」と父親が説いていました。しかし、子供の頃、「じゃあ家族と旅行したりしてる時も苦しいの?」と聞くと、親はなんとも言えない表情を浮かべていました。どうにもならない苦しみが多かった昔とは異なり、今の世の中ではある程度の幸せは保証されています。ならば、来世に期待したり人のせいにしたりするのではなく、自分に原因を見出し、現世をいかに楽しめるかを考える方が良いのではないでしょうか。また、恐らくそういった「今を大事に」といったような仏教概念は存在していると思われますが、そもそもの仏教の存在意義と矛盾してはいないでしょうか。重ねての質問申し訳ございません。よろしくお願いいたします。
歴史に登場する人物のwikiなどを読んでますと「仏教に帰依した」みたいな記述をたまに見かけますが、そこで質問です。 「帰依する」とはどの段階からを言うのでしょうか。 出家とか特別な修行を経る事で「帰依する」になるのでしょうか。 それとも、普通の人でも仏教の教えに従い生きていれば「帰依する」になるのでしょうか。 このへんを教えていただけたらと思います。 よろしくお願いします。