最近命の重さについて考えることが多くなりました。 考えても考えてもぐるぐる回って答えにたどり着くことができません。 お坊様なら答えやヒントをお持ちだと思い質問させていただきます。 命の重さに違いはあるのでしょうか。 私は勝手なもので、命は大事とか、粗末にしたらダメと言われ育ち、本当にそうだと心から思って生きているつもりです。 この「命」という言葉の範囲がとても自分勝手に設定されているようで、目の前に蚊が飛んでいれば反射的に殺します。 時には追いかけて殺します。 蚊にも立派な命があります。それをこの手で奪うのです。 それはいけないこと。命は大事。そう思っていても、また目の前に蚊が現れれば殺すのです。 蚊だから殺したのか。 血を吸われるし痒くなるから。私に害を及ぼすから殺した。 そうやって理由を付けることはできます。 しかし、私は犬に噛まれたことがありますが、その犬を殺してやろうなんて思ったことはありません。 むしろ噛む程びっくりさせて申し訳ない、噛ませて申し訳ないと思ったくらいです。 哺乳類じゃないから?温かくないから?赤い血が通ってないから? そんなつもりがなくても、私の根本では蚊の命は軽いと思っているのでしょうか。 ぐるぐると考えてるうちに、自分の心が汚く思えてきます。 なにかヒントを頂けると嬉しいです。 よろしくお願いします。
初めまして、質問させて頂きます 私は熱心な仏教徒という訳ではないのですが、最近気になる事があり質問させていただきます。 仏教において、性行為は夫婦間であっても悪、良くない行いだとされているとを知りました。 確かに、性行為を行う動機には性欲というものがあるため欲である事は理解できます。 しかし、人間である以上その欲自体がない人間はいないと思います。例えば、食欲であれば食べ過ぎはいけないけれども食べないことは体にとって悪になるように性欲も相手との関係によっては許されるものではないのでしょうか? それとも、誰かと関係を持っていると天国にはいけない、仏の道から外れてしまうのでしょうか? 私には心から愛する人がいるのですが、それが悪い行いなのか、果たして性欲からくるものなのかと最近考えることが多くなりました。 例え悪い事だと言われても、お互いが望んで相手との幸せに繋がるのであれば構わないと私は考えています。 しかし、ふと考えては良くないことなのかと悩んでしまいます。 このまま悩んだままでは、彼女に対してもとても失礼だと思い質問させて頂きました。 お坊様はどのようにお考えなのか、教えて頂けると幸いです。 よろしくお願いします
致知出版社『1日1話、読めば心が熱くなる365人の生き方の教科書』の 11月22日にある「成長する会社の共通点 野村順男」(人事アドバイザー・日本電産元取締役)の最後に書かれている 雅性を磨くには、仏教の教えにある【無財の土地】を徹底することでしょう。 という意味がわかりません。 【無財の土地】というのは何のことでしょうか?
自ら死を選ぶ人間を仏様は許してくれるでしょうか? それだけが心配なのです。 沢山悪いこともしてきました。ですが、死後は心地よい風に当たり何も考えず空を仰いでぼうっとしていたいのです。 わがままなのはわかります。 許して欲しいのです。家族を助けた後は私は一人になります。どうしてもその選択しか出来ないことを許してください。 死後も辛いのは嫌なのです。 ごめんなさい。どうか許してください。 仏様はこんな私を笑って包み込んでくれますか?
はじめまして。 30代、男性です。 10代の頃から漠然とした 生きる不安感があり、それを希求する上でたくさんの宗教学やカウンセリングの勉強などをしてきて現在に至るのですが、この『道』だと言う手応えがないです。 実際に一つの教えを研鑽していけば通ずる道は同じだと思うのですが、語っている方に違和感がでてきてしまいます。 たくさんの宗教家やその筋の方(一般的なカウンセラーやスピリチュアリスト)などにお会いしてきましたが、凄く懐疑的になってしまう自分がいます。 それでいて信仰心のようなものは非常に強く、唯一の趣味は神社などに一人で行ってその土地の空気感などを感じることです。 もちろん、信仰や信心などは他と共有したりするものではないですが、どこかしら独学的に勉強している部分もあり他人と共有したり する必要性があるのかなと感じてしまいす。 何かアドバイス頂けたらありがたいです。 宜しくお願いいたします。
商業施設や繁華街の店舗外で、お遍路さんを見かけることがあります。 近所の商業施設で何度も見る顔もあり、お遍路さんの格好をした、偽遍路ではないかと疑うこともあります。 (休日を利用して回る方もいるので、決して全員を疑うわけではありません。) 人の善意(施し)だけ受け取る人たちは、どういう心持ちでいるのでしょうか。いつか罰が当たると思います。
ここ最近仏教に関する書籍などを読み漁っていますが、仏教を知る上での重要な要素の一つであろう「空」についてわかりそうでわからない状態が続いています。 空は無ではない、空は増えも減りもしない、空は関係性によって成り立つ。 わかりそうでわかりません。。。 考える上でのヒント等ご教示いただけないでしょうか。
仏教では「目的」をどう捉えているのかを知りたいです。 ・目的を持つとはどういう状態なのか? ・目的を持つメリット ・目的意識を持つには? ・「目的」の解像度を高めるには? などを、仏教的な観点から知りたいです。 しかし「仏教 目的」といった検索をすると「仏教が目指す最終的な目的とは」などの解説が多く… 仏教では「目的」や「目的意識」を、違った言葉で表現するのでしょうか?
仏教の本を読んでいると、「仏教は魂(アートマン)の存在を否定している」という趣旨の記述を見かけます。 しかし、そうだとすると、輪廻転成する主体は一体何なんでしょう。輪廻転成の考えと両立するのでしょうか。
例えば目の前で罪のない大切な人がナイフや銃をつきつけられ殺されようとするときどうしたらいいのですか? 自分や大切な人の命を守るため対象を殺すことは正当化できるものなのですか? そのようなことが起きてしまうこと自体悲しいことですが、 仏教ではどのように落とし所をつけていますか。 自分がどうあるかを決めることが答えでしょうか。それを乗り越えるためのなにかが仏教にあるのでしょうか。 これという回答がなければ そのヒントになる本などあれば教えて欲しいです。
いつもお世話になっております。 私は、教会に通っております。他宗教の教えも勉強して みたくなった、また、正しい知識を身に着けて、カルト 宗教から自分や身近な人を守りたいと思ったからです。 教会に生きていらっしゃる皆様は、素敵な方ばかり です。私が見てきた、お寺に集う人たちとは大違い。 比べるのも失礼かと思うほどです。 牧師さんも大変博識で、聖書の内容を、いかに実生活に 活かせるか考えてお説教をされているご様子です。 私も、しっかり、自分の宗教の教えを勉強しようと思い ました。他宗教者の姿勢を見て襟を正したくなるなど、 皮肉なものですね。 ちょうど、自宅の本棚から、中村元先生の、 「真理のことば・感興のことば」という本が出てきました。 パラパラと読んでみると、素敵な事がたくさん書いて あります。仏教版聖書のようです。 そこで、私は、ダンマパダを勉強したい、身に着けたいと 思いました。 しかし、教会のように毎週お説教を開いているお寺は、 貴重です。開いていたとしても、他の宗派をけなしたり、 宗派の本尊以外の仏様を馬鹿にしたり、神秘主義に 走って、免罪符売りのようなことをしていたり… 信者も驕りに凝り固まっている人が多い印象です。 また、歴史上の偉人の名言などを、悪い言葉で言えば パクって話をしていて、教会のようにお経の解説をし、 お経の考えを実生活に生かすよう促しているようなお寺は、 皆無といった印象です。 ダンマパダは、とりあえず、「一組ずつ」、「汚れ」、 「怒り」、「はげみ」、「悪」、「心」から手を付ける つもりです。 しかし、一節一節の意味をこちらでお尋ねするのは、 こちらのシステム上、なんとなくはばかられます。 1週間も待てません。もどかしくて。 魔境状態に陥らずダンマパダを解釈するには、どうすれば よろしいでしょうか? ご高見を賜りたく存じます。
タイトルの件ですが、仏教を学ぶことでどのように生活が変化するのでしょうか。 とんでもなく大雑把な質問で、申し訳ございませんが単純に気になっておりまして。 気持ちの持ちようであったり、考え方の違いであったりを教えていただけますでしょうか。
僕は今キリスト教の教会の礼拝に毎週行っていて牧師の方から個人的に聖書を教えてもらっています。これからもキリスト教は続けていきたいです。 でも仏教の法話も聞きに行きたいのです。 キリスト教の礼拝に行きながら法話を聞きに行くことはいけないことでしょうか?
大乗の車の両輪は法華経と無量寿経だと思いますが、我が浄土宗は法華経とは縁が薄いです。このことに後ろめたさを感じるようになってきました。 天台宗はもちろん、禅宗でも法華経を重視してらっしゃいますね。真言宗でも法華経を扱ってらっしゃいます。こんなに広く支持を集める法華経を無視していていいのだろうか? 敬愛する一遍上人が「法華すなわち名号なり」と鮮やかに言い切っているのに慰められるぐらいでしょうか。 かと言って僕は法華経そのものには特に惹かれているというわけではなく、むしろ現代語訳された法華経を全部読みましたが「法華経が法華経を自画自賛してるだけで結局何が言いたいのかよくわからんお経だな」と思ったぐらいです。 このモヤモヤした後ろめたさを晴らしてください。
仏教について勉強したいです。 まわりに仏教について思ったことを話せる人もおらず、近所のお寺はお坊さんもいません。 仏教のやさしい本を読んだり、動画を見ました。内容については、わかったようなわからなかったような…毎回ぼんやりしてしまいます。 いろんなことをいろんな人が言っていて、さっぱりわからなくて、泣きそうです。 ここ数年、自分のキャパシティを越えることをまわりの人から望まれ、すっかり疲れきっている私は、とうていどうすることもできない…としょげています。 まわりから「こうあってほしいと望まれる自分」と、私自身が「こうありたいなと思う自分」が、心身ともにずれているように思います。 いつも適切なことができていたわけではないけど、自分なりに一生懸命やってきたつもりです。詳細を書くと長くなってしまうので、割愛します。 とにかく、今は疲れて、休ませてほしいという気持ちでいっぱいです。 お釈迦さまなら、こんな時私に何と言うだろう。そう思い、聞いたことのあるお経(般若心経)について調べました。 調べていくうちに、「みんな好き勝手なことを言うけど、あんまり気にすんなよ。何もなくならないし、何も増えないよ」と言われているような気になりました。 かなり曲解しているような気もして、不安です。 ここ以外でお坊さんの話を聞けるところがわからなかったので、質問しました。 まとまりのない質問でごめんなさい。不快な思いをされたら、申し訳ありません。 私のようなものが仏教について知るには、どんな方法が適切なのでしょうか…。 漠然とした質問ですみません。
ずっと日蓮聖人と法然上人、親鸞上人のことが頭から離れず、キリスト教を勉強しながらも反芻していました。 人の本質を仏性とすることを日蓮聖人は言われてたと思うし、窮地に追い込まれても 法華経を支持する神仏を信じることで内に起こる恐怖や不安からくるお気持ちと闘われたと思います。法然上人、親鸞上人は、法華経を目指しても自分の力ではなれない悪人と悟ることで仏の光が差し、念仏によって阿弥陀様に救われる。とされた気持ちもわかります。 悩んだあげくキリスト教を勉強し始め、生きる軸としようと生きています。 キリスト教は、自分の悪を知り、弱さを知り、懺悔を、神の御心とキリストを通して贖罪をし、罪を作らない知恵を学び祈りとするのだと思います。父が学会員だったり、祖父が浄土真宗ということで里心があるのかもしれません。地獄は人間が作った観念だと思います。神仏は地獄を作ってないと思います。時々、御布施や献金のお願いばかりして、本当に神仏を必要とした老後や病気や貧困になった時は自己責任と見放すのがお寺や教会かなって思い、まあ神仏は見放しませんよって説かれても そうだよねって思う。ちょっと信仰心も冷静になる。書いてる内に落ち着いてきました。結局、介護士になり、人の生き死に寄り添いケアをする仕事に神仏をおき、自分の命をつなげるお金をいただいていることに感謝と献身することを神仏に導かれたと思います。いろいろ悩んでいた頃の以前の履歴を恥ずかしく懐かしく想いながら、自己の命と介護させて頂く命が神仏に救われていくように祈り、頑張りたいと思います。相談したかったことは、私は許され生きていけるのかということでした。 大失恋をしたような気持ちでしたが書いている内に救われていると思えてきました。ありがとうございました。
有縁 (南伝 相応部経典 12.23. 縁) 前略 比丘たちよ、そのように、無明を条件として行がある。行を条件として識がある。(以下同書式)識→名色。名色→六処(中略)愛→取。取→生。生→苦。 (ここまでは十二支縁起と同じ) (続けて)苦→信。信→悦。悦→喜。喜→軽安。軽安→楽。楽→三昧。三昧→如実知見。如実知見→厭離。厭離→離貪。離貪→解脱。解脱によって煩悩を滅尽したと知るのである。 後略 (私見) ここでは解脱への縁起を示しています。 特に厭離→離貪。離貪→解脱が重要です。 ここから「厭離穢土 欣求浄土」が派出したのでしょうか? 特に「穢土」の認識が重要です。 生を享けたとき、その継続には空気、水、食料が最低必要です。 空気と水は、とりあえず容易に入手できますが、食料を得るのが至難です。 端的に言えば、他の動物と同じく誰もが一生食料を得るための生活に終始しているのです。 植物だけで生活している間は比較的平穏ですが、人口が増大して、安易な栄養摂取のため動物を摂取する知恵を知ると、醜い殺生が始まります。 特に人間は知恵が発達しているので、他人の食料を得る争いが始まり、人同士やがては国同士の殺生も加わります。 今まさに穢土です。 直接間接を問わず殺生なしに動物の食料は得られませんから、総てが「悪人」にならざるを得ません。 殺生を避けるために「精進料理」が工夫されたのでしょう。 動物の味を知った凡夫には「精進料理」だけでは到底耐えられません。 法華経に「現世安穏 後生善処」という言葉があるそうですから、私は不満を持たぬよう「安穏」を優先して、既に殺生を犯した悪人が今更と、来世の精進を願って目をつむっています。 現世が「穢土」であるという認識を持てば、先ずは前進ではないでしょうか? 以上が「滅びた釈迦仏教」の「真実の教え」てです。 (完)
写経とは、どんな時に、どういうふうに行うのが正しいのでしょうか? 今では100均でも写経練習帳などありますが、大丈夫なのでしょうか? やり方も書き方もわからず、やってみたいという気持ちがあります。 よろしくお願いします。
城邑(南伝 相応部経典 12.65. 城邑) 前略 その時、世尊はかように仰せられた。 比丘たちよ、わたしは、まだ正覚をえなかった修行者であったころ、このように考えた。(この世間はまったく苦の中に陥っている。生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない。 まったく、どうしたならばこの老いと死の苦しみを出離することを知ることができようか)と。 後略 (私見) 釈尊の説教にしては珍しく、修行者であった過去の苦労を述懐しています。 輪廻転生は既に先達が確認しているので、終始その出離を模索していたことになります。 生があれば自然の摂理で老病死は免れず、仏教とて救うことは出来ません。 死後は苦が無くなるので、仏教は救う必要はありません。 再生を断ち切ることだけが、仏教の救いです。 仏教はその目的以外何もないのです。 「生」については、心が永続するとなれば誕生の仕組みが常識と大幅に変わります。 渡哲也の病状に関して、一時テレビに出演した臨死体験者の新堂のぶ子氏は、講演会で「親が子を生むのではなく、子が親を選択する。」と述べています。 また「子は授かりもの」とも言います。 またある宗教学者が、多分「大縁経(広縁経?)」に「意識が母胎に流れ込むことによって、そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に転生するありさまを説明した。」と伝えています。 このことから想像すると、総てが自分の意思で生まれたのだということになります。 親は唯この世で生きるために身体を作ってくれたのです。従って「生老病死」は自己責任です。 因みに、浄土宗ではお説教の初めに三帰衣文を唱和するそうですね? その内容は「この身今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん」だそうですね。 「度する」は多分般若心経の結論である、「照見五蘊皆空 度一切苦厄」の「度」ですから 正に「仏教の目的」そのものです。
私は約2年程とある心療内科に通院させていただいています。 現状診断結果は出ておらず病名もないのですが、不安の波があるため弱めの抗不安薬を処方していただいています。 しかし、不安を感じるのは今の私に必要な事だからではないかと感じ、それを薬を飲むことで抑制しようとするのはよくないことなのではないか、また、人に頼ることができ、過去に比べ不安感も弱まっている今の私が薬を飲むことは、今よりもずっと辛かった頃の私に対しての冒涜なのではないかと感じてしまいます。 薬を飲まなくとも時間が経てば不安感はおさまります。 弱い薬とはいえ頼ってしまったときは罪悪感に駆られます。飲まなかったときは飲まなくとも耐えられている自分が病院にかかりお医者様の時間をとってしまっていることを申し訳なく感じてしまいます。しかし、過去にあった自傷行為をやめることができたのは薬を飲むようになってからのような気がしているのです。 薬を飲み感情を抑える行為は仏教ではどのように捉えられるのでしょうか。 拙く非常に読みにくい文章になってしまい申し訳ありません。