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「仏教全般」問答(Q&A)一覧

2023/02/10

チベットのダライ・ラマ法王の話は本当?

今まで来世・霊魂・輪廻転生について質問しました ご丁寧な回答ありがとうございます 回答を頂いた内容だけでなく、他の質問に対する回答も読むようにしております。 そこで新たに知りたいことが出てきたので 日本になじみのないチベット仏教について質問します。 【質問 その1】 チベットのダライ・ラマ法王とは日本の僧侶から見てどんな立場の方なのでしょうか? ①日本に存在するカトリック教会から見たローマ法王のように頂点に立つ人物である認識ですか? ②日本の仏教界から疎遠にみられているのでしょうか? ③昔の院政をしていた皇族(白河法皇など)のように高貴な身分の人と言う認識でしょうか? (②ならば キリスト教における カトリックとプロテスタントの関係、イスラム教のスンニ派とシーア派の関係のようなもの) (③ならば人の道を説く宗教家と言うより権謀術数を駆使した政治家) 【質問 その2】 チベットの ダライ・ラマで検索すると 以下のような話が出てきました https://diamond.jp/articles/-/34724?page=2 上記サイトから転載  輪廻転生、前世の存在については、現在まで多数の文献等に報告されています。  また、チベットのダライ・ラマ法王は何度も転生を繰り返しているとされ、その位の継承は、代々転生者(生まれ変わり)を探し出すことでなされています。法王が亡くなると、次に生まれ変わってくる方角などが予言され、数年後、それにあてはまる幼児を探し出すと、先代の遺品を選ばせたり、先代の身近にいた人物を見分けさせるなどして前世の記憶を試すのです。現法王も幼少時に、先代ダライ・ラマ13世の愛用していた数珠を見分け、側近の名を迷わず言い当てたと言います。 この話は信憑性の高い話なのでしょうか? 【質問 その3】  上のURLは 東大病院で責任のある地位にいた医師が書いたものです。 ここでは 前世の記憶がある人の話が出たり、 霊媒師を通して自分の亡母と会話をした話が出ています  Yahoo 知恵袋ではこのようなQ&Aもありました https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14270511814 これを読んで お坊様はどのような感想を持たれますでしょうか?

有り難し有り難し 12
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2023/01/25

離檀について

私の実家の菩提寺との関係にについてご相談です。 昨年末に実父が亡くなり葬儀を行いましたが、お布施の金額や住職の振る舞いが納得できるものではなく、離檀を考えております。 お布施の金額についてお伺いをたてたところ、60万円。お車代2万円×2人分を請求されました。お布施とは、そもそもお気持ちであり、金額を提示されるものなのでしょうか、また葬儀は30人ほどの小規模のものでしたが、脇導師もいらっしゃいました。菩提寺ではない近隣の寺からいらしたようです。2人必要なのでしょか? 戒名は一番下のランクで葬儀社の方も驚いていました。実家周辺の同じ宗派の寺の中でもかなり高額とのことです。 今までにも、年期法要など毎回、かなり多くのお布施を要求されています。お布施をお渡ししたときに私たちの目の前で、お布施の中身を数え確かめたこともありました。 住職として信頼できないこと、菩提寺には墓がないこと(自宅近くの公共の墓地に墓はあります)今後、これからもかかるであろう高額な費用を捻出することも難しいので離檀を考えています。 離檀の際にお気持ちはお支払いしますが、離檀料として30万円もの金額を支払う必要はありますか? (先日、49日の相談をした際に〝今後のお付き合〟と書かれた用紙を渡され)盆暮れの付け届け○〇円、年季法要お布施〇〇円 等と書かれている用紙に離檀料25~30万円との記載がありました。 嫁ぎ先もたまたま同じ宗派ですが、もっとこちらの話に耳を傾けてくださいます。地域が違えば色々と違ってくるとは思うのですが、どうなのでしょうか

有り難し有り難し 33
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2023/01/24

成長し苦しみを滅することができるのか

仏教の本を読んでいたら次のような一節がありました。 若い人たちに授戒して騒ぎになり、授戒した僧を叱るお釈迦様の言葉だったと思います。 “二十歳に満たないものは、暑さ、寒さ、飢え、渇き、虫刺されと痛み、風と太陽、地を這う動物との接触、厳しくそっけない言葉に耐えられない。彼は、死に至るまでのあらゆる身体的不快や苦痛を、我慢できない。だが、二十歳になればそれができる。このことは、いまだ我々に信頼を寄せていない人々に信頼を抱かせることも、すでに信頼を寄せている人々の信頼を強めることもできない” 最後の一文はどういう意味でしょうか?本筋と異なりますが、もしよろしければ、あわせてご教示いただければ幸いです。 私は二十歳を超えていますが、これらのことに耐えることができません。本当に毎日つらくてたまらなく感じます。さらに年をとるとますますつらくなるのかと思うと、怖いです。 "二十歳になればそれができる"、とありますが、大抵の人は耐えられるのでしょうか。私は人生で、努力をしてこなかったから、苦しいのでしょうか?成長し損ねたのでしょうか?40になって今からどうしていけばいいのかと思います。 苦しい状態がずっと続いています。 お言葉をいただければ、幸いです。

有り難し有り難し 11
回答数回答 1
2023/01/07

病弱でもボランティアがしたい

私は病弱で、精神も患っていますし体も患っています。臓器もボロボロで、28歳でそこそこ若いのに身体能力はもう老人のそれです。いや、下手をすれば健康な老人の方がもっと体力があるかもしれません。けれど、そんな自分でも人助けがしたかった。そして私はある結論に辿り着きました。 それは、今の現代を支配している「ゲーム」という文化を使ったものです。自動演算(わかる人に言えば連射コントローラー)をしてくれる機械(ちゃんとアマゾンでも発売されている正当な品でゲーマーなら愛用者も多く、違法性のものではありません)を使い、寝ている間にオートで作業を行ってもらい、長い作業時間に対して確率1%を下回るレアアイテムを入手したら、それをSNSを使って無償で誰かに配布する行為です。 これならば「自分の得」を削って誰かに譲ることそのものをボランティアにしているため、体力を使わなくて済みます。つまり、私は人に譲るためだけにこの作業を黙々と続けているのです。人を喜ばせることに、何か自分の魂の行き先に必要性を感じ、それを行うことに自分も喜びを感じているからです。 これは仏教的に言ってなんらかの「行」にちゃんとあてはまっているでしょうか。また、己の中の仏をちゃんと育てることができているでしょうか。なまじ、ゲームというエンターテイメントを使ったものなのでこの質問をすること自体に対して不安はありますが、よろしくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 4
回答数回答 1
2023/01/07

運動に執着していいか

釈尊は自己の体は虚しいものだし生老病死は必ず来るものですし執着する価値がないといってるように解釈しております。 また私は今1日8時間程度用事を作ったりして意識的に体を動かすなどをしています。 釈尊がいっているように執着で運動したところでいつかは病気になるんだし無意味だとしても出来るだけ医学が推奨するように執着的な健康な行動(ウォーキングや食事、プログラム的に体を動かす)などをしていったほうが単純に得ではないでしょうか。 お坊様方のような清い心を持っていれば運動も食事も自然に健康的になるとおもいますが、今!人格的に未熟で運動ができないため、執着的な運動をしてでも奇病や早期的病気や腰痛足痛などを予防することを釈尊は実際どう仰っていますでしょうか。 人格が未熟で運動できないのが原因で病気になったとしても気にとめないということでしょうか。 ブッダの言葉(どこかの記事でブッダの言葉で体を動かすことにかまけないことと見たことがあります。)や一部動画ででてるような説法を聞いてもいまいち理解できていない状況です。 そもそもの私の解釈の違いなどがあればぜひともお教え頂ければと思います。よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 7
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2022/12/20

奉仕活動で解脱を目指すこと

私はバガヴァッド・ギーターというインドの聖典が大好きで、その中に「奉仕活動によって解脱ができる。それは行よりも有効な手段」という記述があります。私の夢は解脱とみんなが幸せな世界であり、そのためにボランティア、人助け、世界のためになる選択肢を選ぶことが大好きです。 しかし、達磨大師はこう言われました。功徳(つまり私でいう、解脱を目的としていること)のために寺を建築したり写経したりしても新たな煩悩を生むだけであり無功徳であると。これは、解脱という利己的な目的を持って人を助けたり救ったところで自分は何も得られるものがない、ということなのでしょうか。 奉仕活動によって解脱を目指すというのはシク教やヒンドゥー教的な考え方のはずで、確かに私は若い頃にいっぱい罪を犯したためその分、誰かを助けたり誰かの役に立ったりよりよい世界を作るために努力することは損得を抜きとして心から大好きです。しかし、その先で自分も解脱したいという利己的な抱きがあるのもまた事実です。 私のしていることは、解脱を目指す上で無駄なのでしょうか? 私の行いで誰かが喜びを味わったり救われたりしているので、それは決して無駄なことではないのは確かなはずです。しかし、やはり達磨大師のおっしゃられたことにも一理あるので、そこがずっと引っかかっているのです。例え自分に得が無くとも、奉仕活動自体は好きなのでそのスタンスは崩さないつもりです。 私はちゃんと正しい方向へ進めているでしょうか? よろしくお願いいたします

有り難し有り難し 34
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