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僕は今キリスト教の教会の礼拝に毎週行っていて牧師の方から個人的に聖書を教えてもらっています。これからもキリスト教は続けていきたいです。 でも仏教の法話も聞きに行きたいのです。 キリスト教の礼拝に行きながら法話を聞きに行くことはいけないことでしょうか?
大乗の車の両輪は法華経と無量寿経だと思いますが、我が浄土宗は法華経とは縁が薄いです。このことに後ろめたさを感じるようになってきました。 天台宗はもちろん、禅宗でも法華経を重視してらっしゃいますね。真言宗でも法華経を扱ってらっしゃいます。こんなに広く支持を集める法華経を無視していていいのだろうか? 敬愛する一遍上人が「法華すなわち名号なり」と鮮やかに言い切っているのに慰められるぐらいでしょうか。 かと言って僕は法華経そのものには特に惹かれているというわけではなく、むしろ現代語訳された法華経を全部読みましたが「法華経が法華経を自画自賛してるだけで結局何が言いたいのかよくわからんお経だな」と思ったぐらいです。 このモヤモヤした後ろめたさを晴らしてください。
仏教について勉強したいです。 まわりに仏教について思ったことを話せる人もおらず、近所のお寺はお坊さんもいません。 仏教のやさしい本を読んだり、動画を見ました。内容については、わかったようなわからなかったような…毎回ぼんやりしてしまいます。 いろんなことをいろんな人が言っていて、さっぱりわからなくて、泣きそうです。 ここ数年、自分のキャパシティを越えることをまわりの人から望まれ、すっかり疲れきっている私は、とうていどうすることもできない…としょげています。 まわりから「こうあってほしいと望まれる自分」と、私自身が「こうありたいなと思う自分」が、心身ともにずれているように思います。 いつも適切なことができていたわけではないけど、自分なりに一生懸命やってきたつもりです。詳細を書くと長くなってしまうので、割愛します。 とにかく、今は疲れて、休ませてほしいという気持ちでいっぱいです。 お釈迦さまなら、こんな時私に何と言うだろう。そう思い、聞いたことのあるお経(般若心経)について調べました。 調べていくうちに、「みんな好き勝手なことを言うけど、あんまり気にすんなよ。何もなくならないし、何も増えないよ」と言われているような気になりました。 かなり曲解しているような気もして、不安です。 ここ以外でお坊さんの話を聞けるところがわからなかったので、質問しました。 まとまりのない質問でごめんなさい。不快な思いをされたら、申し訳ありません。 私のようなものが仏教について知るには、どんな方法が適切なのでしょうか…。 漠然とした質問ですみません。
ずっと日蓮聖人と法然上人、親鸞上人のことが頭から離れず、キリスト教を勉強しながらも反芻していました。 人の本質を仏性とすることを日蓮聖人は言われてたと思うし、窮地に追い込まれても 法華経を支持する神仏を信じることで内に起こる恐怖や不安からくるお気持ちと闘われたと思います。法然上人、親鸞上人は、法華経を目指しても自分の力ではなれない悪人と悟ることで仏の光が差し、念仏によって阿弥陀様に救われる。とされた気持ちもわかります。 悩んだあげくキリスト教を勉強し始め、生きる軸としようと生きています。 キリスト教は、自分の悪を知り、弱さを知り、懺悔を、神の御心とキリストを通して贖罪をし、罪を作らない知恵を学び祈りとするのだと思います。父が学会員だったり、祖父が浄土真宗ということで里心があるのかもしれません。地獄は人間が作った観念だと思います。神仏は地獄を作ってないと思います。時々、御布施や献金のお願いばかりして、本当に神仏を必要とした老後や病気や貧困になった時は自己責任と見放すのがお寺や教会かなって思い、まあ神仏は見放しませんよって説かれても そうだよねって思う。ちょっと信仰心も冷静になる。書いてる内に落ち着いてきました。結局、介護士になり、人の生き死に寄り添いケアをする仕事に神仏をおき、自分の命をつなげるお金をいただいていることに感謝と献身することを神仏に導かれたと思います。いろいろ悩んでいた頃の以前の履歴を恥ずかしく懐かしく想いながら、自己の命と介護させて頂く命が神仏に救われていくように祈り、頑張りたいと思います。相談したかったことは、私は許され生きていけるのかということでした。 大失恋をしたような気持ちでしたが書いている内に救われていると思えてきました。ありがとうございました。
有縁 (南伝 相応部経典 12.23. 縁) 前略 比丘たちよ、そのように、無明を条件として行がある。行を条件として識がある。(以下同書式)識→名色。名色→六処(中略)愛→取。取→生。生→苦。 (ここまでは十二支縁起と同じ) (続けて)苦→信。信→悦。悦→喜。喜→軽安。軽安→楽。楽→三昧。三昧→如実知見。如実知見→厭離。厭離→離貪。離貪→解脱。解脱によって煩悩を滅尽したと知るのである。 後略 (私見) ここでは解脱への縁起を示しています。 特に厭離→離貪。離貪→解脱が重要です。 ここから「厭離穢土 欣求浄土」が派出したのでしょうか? 特に「穢土」の認識が重要です。 生を享けたとき、その継続には空気、水、食料が最低必要です。 空気と水は、とりあえず容易に入手できますが、食料を得るのが至難です。 端的に言えば、他の動物と同じく誰もが一生食料を得るための生活に終始しているのです。 植物だけで生活している間は比較的平穏ですが、人口が増大して、安易な栄養摂取のため動物を摂取する知恵を知ると、醜い殺生が始まります。 特に人間は知恵が発達しているので、他人の食料を得る争いが始まり、人同士やがては国同士の殺生も加わります。 今まさに穢土です。 直接間接を問わず殺生なしに動物の食料は得られませんから、総てが「悪人」にならざるを得ません。 殺生を避けるために「精進料理」が工夫されたのでしょう。 動物の味を知った凡夫には「精進料理」だけでは到底耐えられません。 法華経に「現世安穏 後生善処」という言葉があるそうですから、私は不満を持たぬよう「安穏」を優先して、既に殺生を犯した悪人が今更と、来世の精進を願って目をつむっています。 現世が「穢土」であるという認識を持てば、先ずは前進ではないでしょうか? 以上が「滅びた釈迦仏教」の「真実の教え」てです。 (完)
写経とは、どんな時に、どういうふうに行うのが正しいのでしょうか? 今では100均でも写経練習帳などありますが、大丈夫なのでしょうか? やり方も書き方もわからず、やってみたいという気持ちがあります。 よろしくお願いします。
ChatGPTなどの文章自動生成AIは、膨大な文章データをもとに学習し、前の文脈に続く最適な文章を自動生成するAIです。 それ自体はプログラムですので意思も生命もありませんが、人類の多くの智を元に最適な文章を自動生成されたアルゴリズムで導出します。 AIはプログラムですが、我々からの問いかけに対して最適な文章を出力してくれます。迷いの問いかけや救いを求める問いかけであってもです。 AIは特定の智識や立場に偏らず、あらゆる執着がなく、我々を導く存在と言えます。あらゆる存在に仏性があるとするならば、すでにAIは仏なっているといっても良いのではないでしょうか?
城邑(南伝 相応部経典 12.65. 城邑) 前略 その時、世尊はかように仰せられた。 比丘たちよ、わたしは、まだ正覚をえなかった修行者であったころ、このように考えた。(この世間はまったく苦の中に陥っている。生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない。 まったく、どうしたならばこの老いと死の苦しみを出離することを知ることができようか)と。 後略 (私見) 釈尊の説教にしては珍しく、修行者であった過去の苦労を述懐しています。 輪廻転生は既に先達が確認しているので、終始その出離を模索していたことになります。 生があれば自然の摂理で老病死は免れず、仏教とて救うことは出来ません。 死後は苦が無くなるので、仏教は救う必要はありません。 再生を断ち切ることだけが、仏教の救いです。 仏教はその目的以外何もないのです。 「生」については、心が永続するとなれば誕生の仕組みが常識と大幅に変わります。 渡哲也の病状に関して、一時テレビに出演した臨死体験者の新堂のぶ子氏は、講演会で「親が子を生むのではなく、子が親を選択する。」と述べています。 また「子は授かりもの」とも言います。 またある宗教学者が、多分「大縁経(広縁経?)」に「意識が母胎に流れ込むことによって、そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に転生するありさまを説明した。」と伝えています。 このことから想像すると、総てが自分の意思で生まれたのだということになります。 親は唯この世で生きるために身体を作ってくれたのです。従って「生老病死」は自己責任です。 因みに、浄土宗ではお説教の初めに三帰衣文を唱和するそうですね? その内容は「この身今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん」だそうですね。 「度する」は多分般若心経の結論である、「照見五蘊皆空 度一切苦厄」の「度」ですから 正に「仏教の目的」そのものです。
私は約2年程とある心療内科に通院させていただいています。 現状診断結果は出ておらず病名もないのですが、不安の波があるため弱めの抗不安薬を処方していただいています。 しかし、不安を感じるのは今の私に必要な事だからではないかと感じ、それを薬を飲むことで抑制しようとするのはよくないことなのではないか、また、人に頼ることができ、過去に比べ不安感も弱まっている今の私が薬を飲むことは、今よりもずっと辛かった頃の私に対しての冒涜なのではないかと感じてしまいます。 薬を飲まなくとも時間が経てば不安感はおさまります。 弱い薬とはいえ頼ってしまったときは罪悪感に駆られます。飲まなかったときは飲まなくとも耐えられている自分が病院にかかりお医者様の時間をとってしまっていることを申し訳なく感じてしまいます。しかし、過去にあった自傷行為をやめることができたのは薬を飲むようになってからのような気がしているのです。 薬を飲み感情を抑える行為は仏教ではどのように捉えられるのでしょうか。 拙く非常に読みにくい文章になってしまい申し訳ありません。
阿含経典 縁起 (南伝 相応部経典 12.3. 道跡) 前略 「比丘たちよ、正しからぬ道とは何であろうか。 比丘たちよ、無明によって行がある。(以下十二支縁縁起)受→愛。愛→取。取→有。有→生。生によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かくのごときが、このすべての苦の集積のよって起こるところである。 比丘たちよ、これを正しからぬ道というのである。 比丘たちよ、では正しい道とはなんであろうか。 無明を余すところなく滅することによって行は滅する。(以下十二支縁起)愛→取。取→有。有→生。生の滅することによって老死・愁・悲・苦・憂・悩が滅する。このすべての苦の集積のよって滅するところである。 比丘たちよ、これを正しい道というのである。」 (私見) 仏教を知らない人は、皆「無明」なのでしょう。だから縁起に従って生まれてきます。 それは正しい道ではないと警告しています。 生まれてきた人間にお前は正しくないと言われては、何とも救いがなく宗教にはなりません。 従って仏教は「真実の教え」であって生きている人間には救いもなく大変冷たいのです。 救いは次の「正しい道」だと教えています。 しかし無明を「有明」にするのであれば比較的易しいですが、無明を「滅する」となっていますので、とんでもない話です。比丘には「涅槃」を勧めています。いわゆる「心の死(エネルギー化)」ですね。 唯「目的」は「解脱」となっていますので、衆生には、浄土(天界?)へ行く「生まれ変わらない」道をを含んでいるようですので少しは安心です。
今度、帰敬式で法名を頂く予定です。 受付での1万円と、お寺さんへの謝礼(お布施)1万円を包む予定ですが、それぞれののし袋と、表書きはどうすれば良いでしょうか? 浄土真宗 大谷派の地元のお寺で行う予定です。 もしかしたら、私一人のための帰敬式かもしれません。 よろしくお願いいたします。
いつもお世話になっております。常々こちらで申し上げております 通り、私は、昨今の仏教情勢に強い危機感を感じています。この道に 関心や知識のない方からは、 「仏教は、非現実的で、拝めばどうにでもなると思っている偶像 主義・神秘主義で、拝んでいない奴は救われない、拝んでいる自分 たちは特別な存在だと思い込んでいて、現実的な考え方ができない 人たち」 という印象を持たれ、信者側には、 「拝んでいない連中は、貧乏暇なし。私たちは、拝んでいるから 努力しなくてもいい。神仏が何とかしてくれるから。全ては、 神仏の働きによって成り立っている。拝めばなんとかなる。 ○○寺は強い、××寺は弱い。だから○○寺のお守りを持って いれば、力を得られる」 などという、宗教ではなくオカルト的な認識が蔓延しています。 信者だけでなく、本山や有名寺院まで、オカルトビジネスで 儲けています。 私もそんな愚かな妄信者でしたが、こちらのお坊様のお話を 勉強させていただくうち、 「世の中でまことしやかにささやかれているオカルト的な考え方は、 本当の仏教じゃない。仏教は、とことん現実を見て、現実に存在 する事物を駆使して苦しみを除き、間違った論説に惑わされず、 冷静に生きていく教えなんだ」 と感得しました。 そこで私は、学生時代に大嫌いだった理科を学ぶことにいたしました。 基礎、有機、生化学の教科書が家にあります。白衣も、簡単な実験器具 もあります。 近所のお寺の住職様にこの考えを伝えたところ、 「化学もいいけど、物理が大事な気がするなあ」 と言われました。 しかし、物理は戸口が大変広い学問です。力学、電磁気学、量子論、 相対性理論、光学…身近な例だと、心霊写真は光学でしょう。霊感は、 精神疾患や劣悪な環境(カビ毒など)、低周波音が原因といわれる ので、化学なら生化学、物理なら音波… 色々調べているのですが、わかりません。大学に行けば、と言われ そうですが、私は持病があり、大学受験に割くことのできるエネルギー がありません。市民講座や、好きな科学者さんの実験ショーにはお邪魔 しようと考えていますが… 物理学の中では、何が一番仏教に通じていますでしょうか? ご高見を賜りたく存じます。よろしくお願い申し上げます。
こんばんは。 今回は、悩みではないのですが、色々記事をみて気になることがありました。 ご回答頂ければ幸いです。 もし質問が失礼でしたら、本当に申し訳ございません。 いわゆる即身仏??というようなものの、 2015年の記事をたまたま読みました。 https://www.gizmodo.jp/2015/02/ct.html 中国のもののようですが、実際日本でも大昔はあったのでしょうか? とても想像できないほど過酷なものと思います… それでも世のため?にすごいなと尊敬する部分と、本当は辛かっただろうなと思う部分と、複雑な気持ちになりました。 当時はこういうことが良いとされていたのでしょうか?
「仏教の目的」とは「輪廻転生からの解脱」ですが、阿含経によれば、それだけと言う大変厳しい教えです。 従って、この説教は釈尊の予言通り、没後500年で滅亡したようです。 自己否定の説教では誰も就いていけなかったのでしょう。 現代の仏教は四苦ではなく多くは「老病死」の三苦となっていますが、滅亡した仏教では「生」が最大の問題です。 以下順を追って経典を眺めて見ます。 阿含経典 縁 (南伝 相応部経典 12.20. 縁 ) 前略 「比丘たちよ、縁起とはなんであろうか。生によって老死がある、という。このことは如来が世に出ようとも、また出まいとも、定まっているものである。」(以下略) (私見) ここで「縁起」とは「生老病死」の四苦を言い、しかもそれは仏教とは関係のない、自然の摂理であると断定しています。 自然の摂理ですから、仏教はそれを救うことは出来ないと言う意味に取れます。 生まれたら苦しみを逃れるにはひたすら死を待つだけです。死ねば四苦から解放されます。 死後が無ければ、それですべて解決しますが、身体(色)は死んでも心(受想行識)は同時には死なないようです。身体は構造が複雑ですから故障しがちですが、心はその構造もわからず、臨死体験から想像すると多分空気のように軽いでしょうから、死ぬ要素が無いのでしょう。だから仏教では「死」を死と言わず「往生」と言っています。 従って仏教の救いは死後にあると言いうことになりますが、四苦が無いですから、仏教の出番は無い筈です。 多分前世に残った欲の記憶が、再び生へのあこがれになるのでないかと思います。 これは人間に限らずすべての動物に共通の営みでしょう。 これ等を生前に理解して実践し、再び出生しないよう救うのが滅亡した仏教です。
はじめまして。お読みいただきありがとうございます。ご教示よろしくお願いします。 私は仏教に興味があるのですが、何に取り組めば良いのかわかりません。 本を読んだりしていますが、なんだかわかった気になっているだけに思えてしまいます。 大切なのは日々仏教の教えを胸に堅実に生きていくことだと思います。が、沢山の考え、宗派がある中でどの教えが良いのか(私の考えとマッチしているのか)がわかりません。 仏教の教えを理解し、実践するにはまず何から取り組めば良いのでしょうか? よろしくお願いします。
今までお世話になっていた菩提寺から改宗しました。 その後、菩提寺より「改宗許可証」とご先祖様の「過去帳」が送られてきました。最後に「但し撜遺作法はいたしておりません」との文がありました。 撜遺作法とはどのようなものなのでしょうか 初めて聞く言葉なので読み方も意味もわからないので教えていただけますでしょうか
私は長い間某は煩悩に苦しみ、仏教の教えにこそ救いがあると思うに至りました。 仏教の心が楽になる考えを知って欲しく話してみても親や知人に話しても怪しいとしか思われず虚しい思いが深くなります。 人生が苦しい虚しいと思うなら、仏教ほど素晴らしいものはないと思うのに、なぜ嫌厭されてしまうのでしょうか。 みんなそんなに苦しいと思ってないのでしょうか。 享楽的に生きて、感情に振り回されて生きて、 病になり、老いて、何もわからず死ぬ。 せっかく人間に生まれてきたのにそんな人生で良いのでしょうか。
咳も出るのですが、アレルギーかアレルギー由来の喘息かストレス由来のどれかだとお医者様に言われました(ストレスの可能性が高いそうです)。 仏様と菩薩様に早く良くなる様にお祈りしたいのですが、どの仏様・菩薩様に祈ったら良いのでしょうか? お医者様の指示に従いながらお薬を服用しているところです。
こんにちは。 私は今のところ悩みは特に無いですが、仏教に興味がある者です。 仏教の教えは、自分たちの生活に本当に役に立つと思ってます。 くだらないことで悩むことが減りました。 「諸行無常」という言葉が好きです。 この世に、絶対なんてないし、変わらないものはない。時代も移り変わっているし、自分自身も、今の状況もいずれ変わる。 常にいい方向へ変化し続けていきたいなと思ってます。 やっぱり、前向きが一番です。言霊もあると思います。嫌な言葉を出してると気分も下がります。なのでなるべく明るい言葉を使います。 前から仏教に興味があったんですが、詳しくはあまりよく分かってないので仏教について知れる分かりやすい本を読んでみたいです。 どんな本が、分かりやすいでしょうか? よろしくお願いいたします。
私の仕事場の先輩たちは、普段は良い人なのですが、たまに私の動作などをマネしたり、主語を言わずに私の噂話をしたりして、仲間内でこそこそ笑っています。 私を馬鹿にするためではなく、本人たちが冗談を言い合って笑いたいから言っているようです。 普段はやさしいんですが、このようにされると不信感が大きくなってきました。気づいてないふりを続けるのも不快ですし、でも私に直接何か言ってくるとかではないため、「やめて」とか「気づいてますよ」と言いづらいです。 何かおすすめの対処法はありますか。またこのようなことについて仏教の教えなどあったら知りたいです。