皆、多かれ少なかれ、悩みを抱えながら生活していると思います。 人生の課題や魂磨きの側面でそれぞれが課題・困難を抱える中で、歯を食いしばって頑張って乗り越える人がいる一方、度を越えた負荷で過労死や自殺といった悲しい結末になってしまわれる方もいます。 悩みは自ら生み出すもの。あるのは事実のみ。自分の捉え方で変わる。 と思いつつも、そう簡単にいきません。 できれば皆、目の前の困難・課題を順に乗り越えていければ良いですが、自分らしさや価値を見失ったり、メンタル疾患や三大疾病のような心身に影響が出たのであれば、一旦立ち止まったり内省して歩む道を変えたり、(言葉は悪いですが)現状から逃げるのも必要かと思いますが。 仏教では、こうした悩みにどう答えるのでしょうか? どのような心構え、正しいものの見方、考え方が必要でしょうか?
私は仏教は漢字が難しいし、漢文も書き下し文もろくに読めず、仏教用語を知らないので、よく分かりません。古典の現代訳を読んで学んできました。「上善は水の如し」「和を以て貴しとなす」「戦わずして勝つ」などの言葉に感銘を受け、主にこの3つの言葉を、生きる指標にしております。この言葉は仏教の精神にも通じるものでしょうか?ご相談を受けておられている先生方はどう思いますか?
いつもお世話になっております。先日ツイッターを見ていたら、 「私が信仰を辞めた理由は、アメリカに住んでいたとき、宗教の 違う信者10数名に対し『もし、神が、人を殺せと命令してきたら、 あなたは人を殺すか』と尋ねたら、全員が『殺す』と答えたから」 「『もし、ここで誰かが、『神はそんな事を命令なさらない』と 答えていたら、私も信仰を続けた」 「彼らは、皆生活や対人面で問題を抱えている。宗教は、人を 救えていない」 と言っている方がいました。 それに対し、 「シューキョーなんてそんなもの。シューキョーをやってる奴ら のことは、狂人だと思って扱えばいい」 と言っている人がいて、その発言には19もの「いいね」がついて いました。 私は、あくまで、この10数名に問題があると思いたいのですが、 実際、私は色々なお寺で問題のある僧侶や信者をたくさん見てきて います。 既婚なのにヤリ目ナンパする者。友だちになるふりをして 近づいてきて、他の信者をいじめる者。宗教をオカルトと勘違い している者。境内に女がいると、後をつけたり見つめる者(お寺 を発展場と思っているのでしょうか)。 あげく、「慈悲殺生」など、荒唐無稽な論を唱える僧侶もいれば、 「他の宗派はろくでもない」などと宣ったり、大きなお寺はお守り やおみくじなど、霊感商法まがいの事を平然としています。 戦国時代には、徳川家康の軍勢が、のぼり旗に念仏を書いていたり、 今も、外国では仏教僧団が中心となってイスラム教徒さんを弾圧 しているそうです。これじゃ、誤解されるよな。と思います。 しかし、本当の仏様の教えには、 「体を切られても怒るな」 「恨みに恨みで返すな」 という平和的な教えがあることを知っています。ですが、これを 知っているのは一握りの仏教徒でしょう。 私はお寺の山門をくぐるとき、周りに人がいないことを確かめて からくぐるようになりました。また、出るときに人と鉢合わせして しまった際は、その人に頭を下げるようにしています。 「私たちはが欲の塊ではないぞ」 とアピールするためです。 仏さまは、「人を殺せ」なんて命令しませんよね?あくまで、 その人たちが愚かだっただけですよね?混乱しています。
なにかにすがりたいです。 仏像フィギュアを買おうか迷っています。 仏像フィギュアを身近に置くことで、癒やされたいと思っています。 私は、徳の高い人間になりたいです。そういうグループ(会社)に属したいと、転職活動してましたが、面接官に【貴方は周りを許すことが出来れば、問題ない。少し、神経質だね】と、不合格になりました。 私は、なにか、大きな存在に、寄り掛かりたいです。仏像フィギュアを身近に置くことで、そういう悩みは解消出来ますか?また、御詠歌をやってみたいと思っています。 でも、なんとなく、住職さんに、ふにゃふにゃするんじゃないとか、叱られそうで怖いです。 芯のある人間になりたいです。 ヒントを頂けますか?よろしくお願いします。
いつもお世話になっています。 前にヨガを少ししていたのですが、ヨガは仏教と関係があると知り、私がヨガをしてもよいものかと迷いが出て、しなくなりました。 というのも、私は以前より、仏様に対し繰り返し酷いことを考えたり、そのことに対し反省ができなかったり、ちゃんと感謝の気持ちが持てずにいます。ここまで仏教の教えに反することをしている私がヨガをするのは良くないですよね。 ヨガの中でも、合掌や太陽礼拝のポーズ、手のひらを上にして親指と人差し指で円を作るポーズなどは特にこわいです。酷いことを考えてしまうことが目に見えています。 また、仏教に関連することをジャージを着たまましても良いのか?など考えています。 ですが、またヨガをしたいと思ってしまっています。ご意見お願いします。
質問を開いていただき、誠にありがとうございます 美しいもの、この世にたくさんあると思います わかりませんが…一般的には花とか?優しさとか? そこでお聞きしたいのですが、仏教で「最も美しい」とされているものはあったりするのでしょうか? ない場合、最も美しいものは何だと思いますか? 是非教えていただきたいです ちなみにですが、今のところ自分は影が一番美しいと思っております
浄土宗を信仰している僕ですが、どうしても叶えたい願いがあって、高野山の愛染明王さまに祈祷をしてもらいました。 仏さまが願いを叶えてくださるのはその現世利益によって仏の力の偉大さを実感させて信仰に導くためだと思うのですが、そうすると僕は真言密教を信仰しなければならなくなるでしょうか。 法然上人は称名とそれ以外の諸行を廃立していますが、法然上人が廃した諸行というのは往生・成仏のための行のことであって現世利益目的の祈りまでは廃していないのかどうか?(一枚起請文にも「往生極楽のためには」とわざわざ書いているので、現世利益を祈るのはセーフのような気がしますが) もし現世利益の祈りまでも廃されているのだとしたら、例えば称名をメインとしながら密教・禅的色彩も濃いと言われている時宗を信仰すれば良いのか?(実は法然上人、親鸞聖人の教えでは納得できなかった部分が一遍上人の解釈なら納得できるという体験を何度もしているので、僕は潜在的にはすでに時宗かもしれません) そんなことをグルグルと考えていたら、専修念仏の「専修」の部分がなんとも重たく思えてきて、専修じゃなかったら良かったのになどという思いもわいて、自分が何を信仰しているのかわからなくなってきました。本当に迷っています。助けてください。
初めまして、未熟者ですが質問させていただきます。 当方10代の女で、家族は神道系の新興宗教(他宗教への信仰は許可していないはずのものです)を信仰しつつも、臨済宗と曹洞宗の仏壇が家にあるという状況です。しかもその仏壇には神道系宗教の教祖の写真が飾られていたり、人形がありましたりと謎が多いです。そんな中その神道系宗教への信仰に疑問が生じ、様々な宗教について調べ始めましたところ、仏教と出会いました。まだまだ知らぬことの方が多いですが、仏教の考えにとても惹かれました。 そこで、私も自分の生活に仏教の考えを取り入れ、お祈りしたいと思い始めました。そこで勉強不足で申し訳ないのですが、仏教徒になるにはどのように入信(?)したり、生活していけばよいのでしょうか?お経を唱えたりなどがあると思いますがどのように実践すれば良いのか分かりません。自分としては宗派にこだわりはなく、強いて言うのであればご縁がある禅宗を信仰したいと考えています。 また、家族は現在の仏壇に対して私が仏教の拝み方をするのを許さないと思うので自分で仏壇を用意して祈りたいと思っているのですが、それは問題ないのでしょうか?自分で用意するとなると先祖のお位牌もないですし、変になってしまいますか? 長文になってしまいましたが、これから仏教について学んでいきたいです。どうかよろしくお願いします。
最近命の重さについて考えることが多くなりました。 考えても考えてもぐるぐる回って答えにたどり着くことができません。 お坊様なら答えやヒントをお持ちだと思い質問させていただきます。 命の重さに違いはあるのでしょうか。 私は勝手なもので、命は大事とか、粗末にしたらダメと言われ育ち、本当にそうだと心から思って生きているつもりです。 この「命」という言葉の範囲がとても自分勝手に設定されているようで、目の前に蚊が飛んでいれば反射的に殺します。 時には追いかけて殺します。 蚊にも立派な命があります。それをこの手で奪うのです。 それはいけないこと。命は大事。そう思っていても、また目の前に蚊が現れれば殺すのです。 蚊だから殺したのか。 血を吸われるし痒くなるから。私に害を及ぼすから殺した。 そうやって理由を付けることはできます。 しかし、私は犬に噛まれたことがありますが、その犬を殺してやろうなんて思ったことはありません。 むしろ噛む程びっくりさせて申し訳ない、噛ませて申し訳ないと思ったくらいです。 哺乳類じゃないから?温かくないから?赤い血が通ってないから? そんなつもりがなくても、私の根本では蚊の命は軽いと思っているのでしょうか。 ぐるぐると考えてるうちに、自分の心が汚く思えてきます。 なにかヒントを頂けると嬉しいです。 よろしくお願いします。
初めまして、質問させて頂きます 私は熱心な仏教徒という訳ではないのですが、最近気になる事があり質問させていただきます。 仏教において、性行為は夫婦間であっても悪、良くない行いだとされているとを知りました。 確かに、性行為を行う動機には性欲というものがあるため欲である事は理解できます。 しかし、人間である以上その欲自体がない人間はいないと思います。例えば、食欲であれば食べ過ぎはいけないけれども食べないことは体にとって悪になるように性欲も相手との関係によっては許されるものではないのでしょうか? それとも、誰かと関係を持っていると天国にはいけない、仏の道から外れてしまうのでしょうか? 私には心から愛する人がいるのですが、それが悪い行いなのか、果たして性欲からくるものなのかと最近考えることが多くなりました。 例え悪い事だと言われても、お互いが望んで相手との幸せに繋がるのであれば構わないと私は考えています。 しかし、ふと考えては良くないことなのかと悩んでしまいます。 このまま悩んだままでは、彼女に対してもとても失礼だと思い質問させて頂きました。 お坊様はどのようにお考えなのか、教えて頂けると幸いです。 よろしくお願いします
致知出版社『1日1話、読めば心が熱くなる365人の生き方の教科書』の 11月22日にある「成長する会社の共通点 野村順男」(人事アドバイザー・日本電産元取締役)の最後に書かれている 雅性を磨くには、仏教の教えにある【無財の土地】を徹底することでしょう。 という意味がわかりません。 【無財の土地】というのは何のことでしょうか?
自ら死を選ぶ人間を仏様は許してくれるでしょうか? それだけが心配なのです。 沢山悪いこともしてきました。ですが、死後は心地よい風に当たり何も考えず空を仰いでぼうっとしていたいのです。 わがままなのはわかります。 許して欲しいのです。家族を助けた後は私は一人になります。どうしてもその選択しか出来ないことを許してください。 死後も辛いのは嫌なのです。 ごめんなさい。どうか許してください。 仏様はこんな私を笑って包み込んでくれますか?
はじめまして。 30代、男性です。 10代の頃から漠然とした 生きる不安感があり、それを希求する上でたくさんの宗教学やカウンセリングの勉強などをしてきて現在に至るのですが、この『道』だと言う手応えがないです。 実際に一つの教えを研鑽していけば通ずる道は同じだと思うのですが、語っている方に違和感がでてきてしまいます。 たくさんの宗教家やその筋の方(一般的なカウンセラーやスピリチュアリスト)などにお会いしてきましたが、凄く懐疑的になってしまう自分がいます。 それでいて信仰心のようなものは非常に強く、唯一の趣味は神社などに一人で行ってその土地の空気感などを感じることです。 もちろん、信仰や信心などは他と共有したりするものではないですが、どこかしら独学的に勉強している部分もあり他人と共有したり する必要性があるのかなと感じてしまいす。 何かアドバイス頂けたらありがたいです。 宜しくお願いいたします。
商業施設や繁華街の店舗外で、お遍路さんを見かけることがあります。 近所の商業施設で何度も見る顔もあり、お遍路さんの格好をした、偽遍路ではないかと疑うこともあります。 (休日を利用して回る方もいるので、決して全員を疑うわけではありません。) 人の善意(施し)だけ受け取る人たちは、どういう心持ちでいるのでしょうか。いつか罰が当たると思います。
ここ最近仏教に関する書籍などを読み漁っていますが、仏教を知る上での重要な要素の一つであろう「空」についてわかりそうでわからない状態が続いています。 空は無ではない、空は増えも減りもしない、空は関係性によって成り立つ。 わかりそうでわかりません。。。 考える上でのヒント等ご教示いただけないでしょうか。
仏教では「目的」をどう捉えているのかを知りたいです。 ・目的を持つとはどういう状態なのか? ・目的を持つメリット ・目的意識を持つには? ・「目的」の解像度を高めるには? などを、仏教的な観点から知りたいです。 しかし「仏教 目的」といった検索をすると「仏教が目指す最終的な目的とは」などの解説が多く… 仏教では「目的」や「目的意識」を、違った言葉で表現するのでしょうか?
仏教の本を読んでいると、「仏教は魂(アートマン)の存在を否定している」という趣旨の記述を見かけます。 しかし、そうだとすると、輪廻転成する主体は一体何なんでしょう。輪廻転成の考えと両立するのでしょうか。
例えば目の前で罪のない大切な人がナイフや銃をつきつけられ殺されようとするときどうしたらいいのですか? 自分や大切な人の命を守るため対象を殺すことは正当化できるものなのですか? そのようなことが起きてしまうこと自体悲しいことですが、 仏教ではどのように落とし所をつけていますか。 自分がどうあるかを決めることが答えでしょうか。それを乗り越えるためのなにかが仏教にあるのでしょうか。 これという回答がなければ そのヒントになる本などあれば教えて欲しいです。
いつもお世話になっております。 私は、教会に通っております。他宗教の教えも勉強して みたくなった、また、正しい知識を身に着けて、カルト 宗教から自分や身近な人を守りたいと思ったからです。 教会に生きていらっしゃる皆様は、素敵な方ばかり です。私が見てきた、お寺に集う人たちとは大違い。 比べるのも失礼かと思うほどです。 牧師さんも大変博識で、聖書の内容を、いかに実生活に 活かせるか考えてお説教をされているご様子です。 私も、しっかり、自分の宗教の教えを勉強しようと思い ました。他宗教者の姿勢を見て襟を正したくなるなど、 皮肉なものですね。 ちょうど、自宅の本棚から、中村元先生の、 「真理のことば・感興のことば」という本が出てきました。 パラパラと読んでみると、素敵な事がたくさん書いて あります。仏教版聖書のようです。 そこで、私は、ダンマパダを勉強したい、身に着けたいと 思いました。 しかし、教会のように毎週お説教を開いているお寺は、 貴重です。開いていたとしても、他の宗派をけなしたり、 宗派の本尊以外の仏様を馬鹿にしたり、神秘主義に 走って、免罪符売りのようなことをしていたり… 信者も驕りに凝り固まっている人が多い印象です。 また、歴史上の偉人の名言などを、悪い言葉で言えば パクって話をしていて、教会のようにお経の解説をし、 お経の考えを実生活に生かすよう促しているようなお寺は、 皆無といった印象です。 ダンマパダは、とりあえず、「一組ずつ」、「汚れ」、 「怒り」、「はげみ」、「悪」、「心」から手を付ける つもりです。 しかし、一節一節の意味をこちらでお尋ねするのは、 こちらのシステム上、なんとなくはばかられます。 1週間も待てません。もどかしくて。 魔境状態に陥らずダンマパダを解釈するには、どうすれば よろしいでしょうか? ご高見を賜りたく存じます。
タイトルの件ですが、仏教を学ぶことでどのように生活が変化するのでしょうか。 とんでもなく大雑把な質問で、申し訳ございませんが単純に気になっておりまして。 気持ちの持ちようであったり、考え方の違いであったりを教えていただけますでしょうか。