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「仏教全般」問答(Q&A)一覧

2023/05/14

仏教はその目的の実践以外何もない(完)

有縁  (南伝 相応部経典 12.23. 縁)  前略  比丘たちよ、そのように、無明を条件として行がある。行を条件として識がある。(以下同書式)識→名色。名色→六処(中略)愛→取。取→生。生→苦。  (ここまでは十二支縁起と同じ)  (続けて)苦→信。信→悦。悦→喜。喜→軽安。軽安→楽。楽→三昧。三昧→如実知見。如実知見→厭離。厭離→離貪。離貪→解脱。解脱によって煩悩を滅尽したと知るのである。  後略 (私見)  ここでは解脱への縁起を示しています。  特に厭離→離貪。離貪→解脱が重要です。  ここから「厭離穢土 欣求浄土」が派出したのでしょうか?  特に「穢土」の認識が重要です。  生を享けたとき、その継続には空気、水、食料が最低必要です。  空気と水は、とりあえず容易に入手できますが、食料を得るのが至難です。  端的に言えば、他の動物と同じく誰もが一生食料を得るための生活に終始しているのです。  植物だけで生活している間は比較的平穏ですが、人口が増大して、安易な栄養摂取のため動物を摂取する知恵を知ると、醜い殺生が始まります。  特に人間は知恵が発達しているので、他人の食料を得る争いが始まり、人同士やがては国同士の殺生も加わります。  今まさに穢土です。  直接間接を問わず殺生なしに動物の食料は得られませんから、総てが「悪人」にならざるを得ません。  殺生を避けるために「精進料理」が工夫されたのでしょう。  動物の味を知った凡夫には「精進料理」だけでは到底耐えられません。  法華経に「現世安穏 後生善処」という言葉があるそうですから、私は不満を持たぬよう「安穏」を優先して、既に殺生を犯した悪人が今更と、来世の精進を願って目をつむっています。  現世が「穢土」であるという認識を持てば、先ずは前進ではないでしょうか?  以上が「滅びた釈迦仏教」の「真実の教え」てです。 (完)

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2023/05/07

仏教はその目的の実践以外何もない(3)

 城邑(南伝 相応部経典 12.65. 城邑)  前略  その時、世尊はかように仰せられた。  比丘たちよ、わたしは、まだ正覚をえなかった修行者であったころ、このように考えた。(この世間はまったく苦の中に陥っている。生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない。  まったく、どうしたならばこの老いと死の苦しみを出離することを知ることができようか)と。  後略  (私見)  釈尊の説教にしては珍しく、修行者であった過去の苦労を述懐しています。  輪廻転生は既に先達が確認しているので、終始その出離を模索していたことになります。  生があれば自然の摂理で老病死は免れず、仏教とて救うことは出来ません。  死後は苦が無くなるので、仏教は救う必要はありません。  再生を断ち切ることだけが、仏教の救いです。  仏教はその目的以外何もないのです。  「生」については、心が永続するとなれば誕生の仕組みが常識と大幅に変わります。  渡哲也の病状に関して、一時テレビに出演した臨死体験者の新堂のぶ子氏は、講演会で「親が子を生むのではなく、子が親を選択する。」と述べています。  また「子は授かりもの」とも言います。  またある宗教学者が、多分「大縁経(広縁経?)」に「意識が母胎に流れ込むことによって、そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に転生するありさまを説明した。」と伝えています。  このことから想像すると、総てが自分の意思で生まれたのだということになります。  親は唯この世で生きるために身体を作ってくれたのです。従って「生老病死」は自己責任です。   因みに、浄土宗ではお説教の初めに三帰衣文を唱和するそうですね?  その内容は「この身今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん」だそうですね。  「度する」は多分般若心経の結論である、「照見五蘊皆空 度一切苦厄」の「度」ですから 正に「仏教の目的」そのものです。

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2023/04/30

仏教はその目的の実践以外何もない(2)

 阿含経典 縁起 (南伝 相応部経典 12.3. 道跡) 前略  「比丘たちよ、正しからぬ道とは何であろうか。  比丘たちよ、無明によって行がある。(以下十二支縁縁起)受→愛。愛→取。取→有。有→生。生によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かくのごときが、このすべての苦の集積のよって起こるところである。  比丘たちよ、これを正しからぬ道というのである。  比丘たちよ、では正しい道とはなんであろうか。  無明を余すところなく滅することによって行は滅する。(以下十二支縁起)愛→取。取→有。有→生。生の滅することによって老死・愁・悲・苦・憂・悩が滅する。このすべての苦の集積のよって滅するところである。  比丘たちよ、これを正しい道というのである。」  (私見)  仏教を知らない人は、皆「無明」なのでしょう。だから縁起に従って生まれてきます。  それは正しい道ではないと警告しています。  生まれてきた人間にお前は正しくないと言われては、何とも救いがなく宗教にはなりません。  従って仏教は「真実の教え」であって生きている人間には救いもなく大変冷たいのです。  救いは次の「正しい道」だと教えています。  しかし無明を「有明」にするのであれば比較的易しいですが、無明を「滅する」となっていますので、とんでもない話です。比丘には「涅槃」を勧めています。いわゆる「心の死(エネルギー化)」ですね。   唯「目的」は「解脱」となっていますので、衆生には、浄土(天界?)へ行く「生まれ変わらない」道をを含んでいるようですので少しは安心です。

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2023/04/30

仏教≒物理学と言われたけれど?

 いつもお世話になっております。常々こちらで申し上げております 通り、私は、昨今の仏教情勢に強い危機感を感じています。この道に 関心や知識のない方からは、 「仏教は、非現実的で、拝めばどうにでもなると思っている偶像 主義・神秘主義で、拝んでいない奴は救われない、拝んでいる自分 たちは特別な存在だと思い込んでいて、現実的な考え方ができない 人たち」 という印象を持たれ、信者側には、 「拝んでいない連中は、貧乏暇なし。私たちは、拝んでいるから 努力しなくてもいい。神仏が何とかしてくれるから。全ては、 神仏の働きによって成り立っている。拝めばなんとかなる。 ○○寺は強い、××寺は弱い。だから○○寺のお守りを持って いれば、力を得られる」 などという、宗教ではなくオカルト的な認識が蔓延しています。 信者だけでなく、本山や有名寺院まで、オカルトビジネスで 儲けています。  私もそんな愚かな妄信者でしたが、こちらのお坊様のお話を 勉強させていただくうち、 「世の中でまことしやかにささやかれているオカルト的な考え方は、 本当の仏教じゃない。仏教は、とことん現実を見て、現実に存在 する事物を駆使して苦しみを除き、間違った論説に惑わされず、 冷静に生きていく教えなんだ」 と感得しました。  そこで私は、学生時代に大嫌いだった理科を学ぶことにいたしました。 基礎、有機、生化学の教科書が家にあります。白衣も、簡単な実験器具 もあります。  近所のお寺の住職様にこの考えを伝えたところ、 「化学もいいけど、物理が大事な気がするなあ」 と言われました。  しかし、物理は戸口が大変広い学問です。力学、電磁気学、量子論、 相対性理論、光学…身近な例だと、心霊写真は光学でしょう。霊感は、 精神疾患や劣悪な環境(カビ毒など)、低周波音が原因といわれる ので、化学なら生化学、物理なら音波…  色々調べているのですが、わかりません。大学に行けば、と言われ そうですが、私は持病があり、大学受験に割くことのできるエネルギー がありません。市民講座や、好きな科学者さんの実験ショーにはお邪魔 しようと考えていますが…  物理学の中では、何が一番仏教に通じていますでしょうか? ご高見を賜りたく存じます。よろしくお願い申し上げます。

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2023/04/23

仏教はその目的の実践以外何もない(1)

 「仏教の目的」とは「輪廻転生からの解脱」ですが、阿含経によれば、それだけと言う大変厳しい教えです。  従って、この説教は釈尊の予言通り、没後500年で滅亡したようです。  自己否定の説教では誰も就いていけなかったのでしょう。  現代の仏教は四苦ではなく多くは「老病死」の三苦となっていますが、滅亡した仏教では「生」が最大の問題です。  以下順を追って経典を眺めて見ます。 阿含経典 縁  (南伝 相応部経典 12.20. 縁 )  前略  「比丘たちよ、縁起とはなんであろうか。生によって老死がある、という。このことは如来が世に出ようとも、また出まいとも、定まっているものである。」(以下略)  (私見) ここで「縁起」とは「生老病死」の四苦を言い、しかもそれは仏教とは関係のない、自然の摂理であると断定しています。  自然の摂理ですから、仏教はそれを救うことは出来ないと言う意味に取れます。 生まれたら苦しみを逃れるにはひたすら死を待つだけです。死ねば四苦から解放されます。  死後が無ければ、それですべて解決しますが、身体(色)は死んでも心(受想行識)は同時には死なないようです。身体は構造が複雑ですから故障しがちですが、心はその構造もわからず、臨死体験から想像すると多分空気のように軽いでしょうから、死ぬ要素が無いのでしょう。だから仏教では「死」を死と言わず「往生」と言っています。  従って仏教の救いは死後にあると言いうことになりますが、四苦が無いですから、仏教の出番は無い筈です。  多分前世に残った欲の記憶が、再び生へのあこがれになるのでないかと思います。  これは人間に限らずすべての動物に共通の営みでしょう。  これ等を生前に理解して実践し、再び出生しないよう救うのが滅亡した仏教です。

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2023/03/05

言葉だけが存在して、実は実態のないもの。

私は、人間社会の中で飛び交っている言葉の多中には、人間の感覚の中にだけ存在していて、その言葉が示すような現象や物質的に存在する状態を持たない物があると思っています。 お化け、勝ち負け、善悪といった事も、 私にとっては言葉だけが有り、その言葉が示すような現象すら実存し無いのですが。 コレはおそらく、社会の中に立ち位置を見出だせなかった私にとって、上記したような解釈がなければ、今の自分自身を保っていられないという様な、いわば、劣等感の埋め合わせだとも思います。 人間の行動を突き詰めていくと、承認欲求を満たすために勝ち負けを作り出し、自分の生み出した結果を意義あるものに位置づける為に、 自分自身の過去を、その考えや結果を正義や善意で舗装して、社会全体にヒエラルキーを形成するための圧力、モラル、善意、マナー等が感覚的に人の意識内に生まれてゆくという仕組みが有るように思います。 「私が考えるから貴方は働きなさい」 要するにこれ以外の事は何も言わないのが全ての人間だと思います。 私はこの人間の状態に「酔い」という名前をつけ読んでいます。 仏教の教えの中に「シラフ」の状態、あるいはそのような錯覚は有りますか?

有り難し有り難し 9
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