不躾なお話になりますが、お許しください 私は単身者もうすぐ40になります。 福祉の仕事で、専門職として働いておりました。 10数年勤めておりました。やりがいはもちろんあるのですが、お役所仕事と言いますか、毎日の大人同士の人間関係を大切にしてその日を過ごす。そのような雰囲気があります。 ここ最近は無気力な気持ちに苛む事が多くなりました。これについては私生活における大きな悩みも要因でした。少しメンタルの不調が続いています。 今はまたチャンスを頂き、同業他社で働く予定で仕事開始を控えております。 経済的な事もあり、求人を読み漁ってました。その中でこれがやりたいという気持ちも一切湧かず、前職と比べたら給与も安く肉体労働系の仕事など今より条件が悪くなるものばかりです。 働く事は生活のためであるのだから自分の考えでは甘いと思います。 物事を思い詰めてしまうところがあり、何事も見通しが持てないと不安が強くなる特性もあります。 今までの仕事での充足感や必要とされていた感覚を捨てて、異業種に行く怖さがとても強くあります。 そんな中ここ数年、YouTubeなどでお坊さんの話を聴く機会を多く持ってました。 そして生まれ育った環境の影響もあり、真言宗僧侶に興味関心を持っております。 なぜ興味を持ったのかというのも正直なところ、仏教の先人達の教えを学び、自分の人生をより豊かにしていきたい。というのが大きな理由になります。僧侶になれば自分の精神的な弱さも含めて救われるのではないか?と考えました。人のために役立つ事は苦にならないのですが、反面人付き合いが得意ではありません。人間関係の疲れ、俗世から脱出したいというのもあります。 僧侶といっても宿坊へ就職する感じになります。 お坊様からこのような考えについて何かご意見頂きたかった事。 男性社会であるお寺(宿坊)での実際の業務や修行の話を伺いたく相談いたしました 私の勝手な想像ですが、お寺(宿坊)が僧侶としての道を支援して頂ける。これは一生仕える気持ちでそのお寺に就職という事を相手様も希望している。生半可な気持ちでは来て頂きたくない。というのが本音ではないかと思っております 次の内定が決まった福祉の仕事を長く続ける事が、今自分にとっての最適解と考えてはおりますが、この次はお寺で働きたい。とやはり考えてしまいます 何か方向性を示して頂けましたら幸いです
僧侶になる人の心構えを教えてください。 自身を修行の場に身を置き、一切言い訳や弱音を吐けない場所で仏教を学びながら、自分や周りの人生を仏教を学んだうえで豊かにしていけるのでは?と考えてます。 高野山の宿坊では宿業務の傍ら、僧侶になれます。と求人が出ております。 このような場所に身を置いて学ぶ事の想像が出来ませんが、どんな人間でもそれなりの精神的成長は見込めるものでしょうか? 今は都会で暮らしており、少し人生に疲れているところはあります。何事にも中途半端になってしまうところもあります。 ですが、高野山の宿坊を調べてるうちに、ピンキリとあり、結局のところお金が神様と考える資本主義の世の中から断ち切れるか?修行の場にも俗世の欲望や煩悩から切っても切れない場であるのか? 全ては自分次第だとは思いますが、何かアドバイス頂けたらと思います。 真言宗にしたのは高野山含めて昔から馴染みがあります。 あと人との関係性を築くのがあまり得意ではなく、大体独り行動が多くここまで来ました。医療系の仕事で業務の会話のみで成り立つ、女性に囲まれた環境が長かったです。 男性社会の人間関係はどのようなものかも実情を教えて頂けたら幸いです。 よろしくお願いします。
私は数年前に自分の意思で浄土宗を選びましたが、現世利益も欲しい俗物なのでこの初詣には真言・天台のお寺に観音菩薩を拝みに行ったりもしました。参拝に行くとこの両宗のお寺はきらびやかで拝み応えがありますね(笑) 天台宗の念仏部門が独立してできたのが浄土宗だとするなら、こんな僕は天台宗の方が合っているのではないかとか、真言宗でも僕の周りには新義真言宗のお寺が多いのでそれなら阿弥陀信仰と現世利益を両立できるのではないか……などと心が少し揺れています。 ただ、浄土宗には在家者の往生の方法として称名念仏がハッキリと確立されていますが、真言宗や天台宗では僧侶ではない在家者は何をすれば成仏・往生できるのでしょうか? そんな方法論が無いから法然上人は凡夫のために浄土宗を開いたのさと言われればその通りかもしれませんが……。 枝葉たる現世利益を求める余りに本幹たる往生・成仏の道筋を失う改宗なら本末転倒だよなと思っています。
真言宗の家でお遍路にも行きだして気がついたのですが、本気で邪念なしに叶えたい願いがあり、本格的なお祈りがしたいことに気がついたことです。心願成就でしょうか。 でもなにからやったらいいのかわかりません。 今私が心願成就のためにやめたいと思ってることは、タバコを吸うことと、時々怒りっぽくなることと、占い師に頼ること、お金を使いすぎることがあるということです。 それをやめたら願いか叶うかというとそうでもないかもしれませんが、これを少しずつでもいいからやめたいことと、一般人が本当に仏様にお祈りするということはどういうことなのか教えていただきたいです。
いつも大変お世話になっておりお坊様には心から感謝申し上げます。 よく剣道の手ぬぐいに「不動心」と書いてある物があります。 具体的にどういう心を表すのか分からなくてネットを検索していたら「真言宗」と関係があるという記事を見つけました。 差し支えなければ噛み砕いて教えて頂けますと有り難いです。
私は真言宗の月星菩提樹の数珠を使っているのですが、定期的に数珠ふにゃふにゃと柔らかくなります。まるで氣が抜けてしまったように・・・。 最初は『紐が切れてしまったのか?』とかなり焦りましたが、紐は切れていませんでした。 ガッチガチに固いことが多いのでふにゃふにゃになってしまうとちょっと心配です。 湿気の問題もあると思うので数珠を入れている箱の中に乾燥剤を入れてみたりしてるのですが、まだ元に戻らずふにゃふにゃのままです。 数珠の管理で良い方法はありますか? また定期的にふにゃふにゃになるのは何か意味があるのでしょうか?
病気で闘病中の父の他界の日が近づいてきているようです。 父方の親戚とは縁が切れており家系の宗派も解らず、人から紹介していただいたお寺でお墓をお願いする予定になっております。 家族の宗派如何とは全く別に、私は個人的には真言宗を信仰しております。 父の人生は恵まれていなかったため、苦しみなく往生できるよう、私の手元にある高野山結縁灌頂の胎蔵界、金剛界両界の血脈を父の胸に抱かせてお見送りしたいとの気持ちがありますが、このようなことは行ってもよいものでしょうか。私の自己満足に過ぎないかもしれず、お尋ね致した次第です。ご教示を宜しくお願い致します。
こんにちは! 以前は高野山真言宗の参与会の半袈裟を着用して他の宗派のお寺に参拝しても良いですか?の質問に回答頂きありがとうございました。 その後の2020年は良いことも悪いこともありつつ概ね楽しく過ごし、高野山への参拝をエンジョイしています。 半袈裟を着用する事によって良い変化があり、それまでも自分は高野山が大好きだと思っていましたが、より身近に感じたり「私はここに帰ってくる」という気持ちが少し強くなりました。 気持ちの面で帰れる場所ができたというか…これは新しい発見でした。 「行く場所」ではなく「帰る場所」に変化して不思議な気持ちです。 今日は高野山真言宗で大切な行事である結縁灌頂について質問です。 参与会に参加しましたし、せっかくなので2020年に初めての結縁灌頂を経験したいなぁ!と思っていましたが、今年は状況が状況のため断念しました。 そこで、現時点で2021年の5月に予定されている春の結縁灌頂に参加して是非ご縁を結びたいと考えています。 …しかし疑問が生まれました。 春と秋の結縁灌頂では金剛界と胎蔵界と違いがあり、それぞれに参加してご縁を結んでも良いし、何度も参加する方がいるとも知りました。 (気持ちを新たにご縁を結ぶぞ!というのは悪い事ではないと知ったので、回数については疑問はありません) 私が疑問に思ったのは、例えば私が春に初めて結縁灌頂でご縁を結び、同じ年の秋に参加してご縁が2つできたとします。 そして次の年の春と秋に再度参加したら4つのご縁になる可能性があります。 適切な言葉がわからないのですが、ご縁の有効期限があるのでしょうか? 有効期限という言葉は全然違うと思うのですが、結縁灌頂でご縁を結ぶぞ!と思い立ち結んだ後に次に結ぶまでがご縁なのか、それとも毎年ご縁は変わるもの(増えて行くもの?)なのか?と疑問になりました。 わかりにくい説明でごめんなさい…。 つまり「今年はこのご縁」なのか、または「気持ちの区切りがご縁」なのか自分なりに調べてみましたがよくわかりませんでした。 前回の質問に引き続きとても初心者な疑問のお導きを頂ければ幸いです。
できれば真言宗の方にお聞きできたら幸いです。 ①自分は少し前から不動明王様に興味を抱くようになり お寺などに行くようになりました。 今日、初めて知ったのですが密教には越法罪というのがあるのですね。僕は全然一才知らなく経本の不動尊秘密陀羅尼経を買って唱えてしまったことが何回かありました。あと、お寺で護摩をやってもらってる最中にお坊さん達が不動明王真言を唱えてるときに手印をやりながら唱えてしまったことがあります。 他にも般若心経、光明真言なども唱えてしまったことがあります。自分は全然これらのことは無知だったので、良かれと思ってやってしまっていました。 それでもネットで色々調べてみると在家信徒が陀羅尼経を口にしたり、手印や梵字を書くやるなど…すると地獄に落ちる 体に異常をきたすなど書かれてありました。自分はこれらで儲けとか商売とかやってません。僕は地獄へ落ちるのでしょうか? そう考えるとゾクゾクしてきました、、、 ②お経を唱えてると長かったり難しい言い方があるのでつっかえたり噛んだりしてしまうことがあります。 お坊さんは、噛まないのはなんででしょうか? そうすると霊は寄ってくるんですか? 修行を何年も積んでるからでしょうか? 長くなりましたがご返信お願いします。 ③将来、真言宗のお坊さんになろうかと考えてまして そうするとお寺で何年も修行を積まなければならない と大変な感じがあります。実際の1日の流れや、どんな感じなのか教えてください。(越法罪にならない程度に)大変長くなりましたがご返信宜しくお願いします
最近仕事で行き詰まり、休職中に仏教に興味を持ち始めました。 仏教の基本的なところから、宗派の特徴など見て、なんとなくですが真言宗にひかれ、信仰してみたいなあと思うようになりました。 ですが、実家は地方で、現在の私の家には仏壇も無く、近くでお世話になっているお寺さんもありません。私自身全く宗教に関わってきませんでした。 そこで疑問に思ったことなのですが、 ①真言宗を信じている一般の方はおうちで何をしますか?お坊さんほどの修行をされない一般の方は、おうちでするのはお経を読むくらいなのでしょうか。(日々のおつとめ?というのでしょうか。教えてください。)また、それは一日何回ですか? ②家に仏壇が無く、またスペースも収入も無いので購入も難しいです。おつとめする時は何もない場所でやっても大丈夫ですか?また、かわりにこういう物でも良いよというのがあれば教えてください。 ③お寺さんとはどうご縁を結べばいいのでしょうか。電車で1時間で成田山に行けるのですが、頻繁には行けません。近所に真言宗のお寺がないので、行けそうなときに成田山に行く、でもかまわないでしょうか。 初めての質問なので読みづらかったらすみません。 よろしくお願い致します。
先日、テレビで高野山の内部や空海さんの事をあつかった番組を見ました。 空海さんは世界が滅びたとしてもいらっしゃる。祈り続けている。 というナレーションがありました。 私は空海さんのお名前は知っていましたが、どのような高僧であられたのか等、全く知りません。 お忙しい中、申し訳ありませんが空海さんは何故、世界が滅びたとしても祈り続ける。とおっしゃったのか?そしてどのようなお坊様だったのかを教えてください。テレビで高野山を見て神秘的な何かを感じました。 同じ仏教でも真言宗のお坊様は印を組まれたり、ご真言をおとなえしたり、ご法要の時に特別な法具を使われたりととても一般人にはわからない部分(神秘的)があるように私は思いました。 真言宗の事を分かりやすく教えて頂けないでしょうか? 急ぎませんのでどうぞ宜しくお願いいたします。
僕は仏教と神道が大好きで神様と仏様を同じように尊い存在として崇敬しています。 明治以前両者の距離は極めて近くほぼ同じ存在と言ってもよい状況でした。 僕はそれこそが仏教、神道双方の良い所でありそれが自然な形であると信じています。 今は失われてしまった神仏習合を実践しこれから先神道と仏教の距離を少しでも近づけることができるように、また双方の立場から物が見れるように僧侶兼神主になることが僕の目標です。 僕の家も寺院なのですが父にこのことを話すと家の宗派ではこの夢を実現するのは難しいと言われました。 そこで僕は真言宗の僧侶になろうと思っています。 そのための具体的な道筋もある程度決めてあります。 真言宗の大学に通い僧侶の資格を取った後、神主の養成学校で神主の資格を取り将来的に神社本庁の神社で働くという感じです。 寺院ではなく神社の側で働くのは、鎮守社や権現様をお祀りする形でどちらかと言えば神道の要素に寛容な仏教に比べ神道は明治時代に徹底的に仏教要素を排除した状態のまま基本的に変わることなくそのまま今現在まで続いており仏教以上に神仏習合の下地が出来ていないからです。 宗派として真言宗を選んだ理由は元々真言宗に興味があった事と歴史上真言宗は他宗派や神道など他の教えに対し積極的に共通点を探し共に進んでいく姿勢を持っていたからです。 しかし一つ問題があります。 真言宗における僧侶の資格と神道における神主の資格、この両立が出来るのかが分からない点です。 先ほど書いた通り僕は神社で働きます。 その状態でも僧侶の資格を持ち続けることは真言宗では可能なのでしょうか? 知り合いに真言宗のお坊さんや信徒の方がいないため聞いて確かめることも出来ません。 勿論お金や労力など神主の仕事をしながらも宗派、教団のために出来ることは全て果たしていきたいと思います。
先日、こちらで真言宗寺院と大師教会支部との違いを教えて頂いた者です。 大師教会支部は僧侶資格を持たない布教所との事で葬儀や護摩行が出来ないとお伺いしました。 ところがネットで色々見ていると大師教会支部でお護摩を行っている所を数箇所お見かけしたのですが、出来ないはずの護摩行が何故行われているのか疑問を感じました。 この場合、どちらかの真言宗寺院の僧侶が来られて護摩行を行っていると解釈して良いのでしょうか? 恐れ入りますがご教示頂けましたら幸いです。
初めまして。蓮花と申します。 よくあちこちのお寺にお参りしております。 真言宗のお寺名称に関してなのですが、 ○○山○○寺 ってのが普通だと思っていたのですが、 最近、 高野山大師教会○○支部 って名前を時々見かけるようになりました。 違いは何でしょうか? またこの場合は住職ではなく支部長になるのでしょうか? 住職と支部長の違いについても教えて頂けると幸いです。 不躾な質問ですか、宜しくお願いします。
一年前、悪霊がついてると言われ、お祓いをしてもらいました。 その後、吉祥天様が中に入って見守ってくださっていると言われたので、家に、不動明王様、毘沙門天様、吉祥天様の像を購入し祀っております。 見様見真似で、毎朝、光明真言100回、不動明王真言100回、吉祥天様の真言100回を唱えておりますが、完全な自己流ですので、果たしてこのまま続けていっても大丈夫なのか?どこか修正したほうが良いのか?などのご指摘を頂ければ幸いでございます。 お祓い後、交通事故が0にはなりました、ただしょっちゅう霊がつくらしいので、その供養も含め、真言を唱えております。 逆効果になっていないかなど、色々ご教示いただきたく存じます ちなみにお祓いをしてくれた人は友人の娘様で祖母様がお寺の娘様だったそうです。お金のやりとりはなく、無償ではらっていただいております
毎日の勤行で使う真言宗の経本を探しています 色々な出版社から出ており、どれが良いかわかりません 真言宗の毎日の勤行で必要なお経が載っているもの(般若心経、理趣経含む) フリガナがついているもの フリガナが古典読み?ではなく、現代読み?のもの オススメの経本はありますでしょうか?
真言宗の「伝法灌頂阿闍梨位事」という書類について 江戸時代の伝法灌頂阿闍梨位事という画像を図書文庫のインターネットサイトで 何点か閲覧したのですが、これらは江戸時代のものでした。 今も、まったく同じ内容の文言で、伝法灌頂の書類として使用されているのでしょうか。 また文書の中に「弘法大師八葉、今至、愚身第四十四葉、大悲胎蔵第四十三葉伝受」との 文言がありますが、これは伝受を受けた僧侶が、金剛界での血脈の師匠を遡ると人数が四十三人、胎蔵界の血脈では、一人少ない四十二人いるという意味でしょうか。 以上、お教えください。
ハスノハには大変お世話になっています。いつもありがとうございます。いつかおきもちを少額ではありますが、寄付したいと思っています。 気づいたことがあるのですが、真言宗のお寺でお坊さんが本堂でお経を唱える際、いつもサブ席に座っています。そのお坊さんのお父さんは生前、仏様の目の前の本席に座っていたのですが、亡くなった今でもお坊さんはサブ席に座っていて、本席が空いている状態なんです。 どうして空けているのでしょうか。お父さんを尊敬しているから空けているのでしょうか、、
宜しくお願い致します。 実家では仏壇に向かって手を合わせていましたが、私の家には供養する仏様がいない為 仏壇はありませんし、仏像などもないので高野山で頂いたお札に向かって唱えています。 仏壇などがない場合のお勤めの仕方のアドバイスをお願い致します。 安易に買ってはいけないと思いますが、できれば仏像に向かってお勤めをしたいと思っております。 弘法大師様の像などはお仏壇に入れるものが普通なのでしょうか? 何もわかりませんので、なにとぞ宜しくお願いします。
いつも お世話になります 私の住んでる地元の寺院で南無妙法蓮華経と御題目のでる線香を買ってご先祖様のお墓に立てているのですが うちは真言宗なので 真言宗のお墓に法華宗の御題目入り線香を立てて問題ないでしょうか? ちなみになぜ 法華宗から御題目入り線香を買ったのかと言うと 親戚の墓で無縁仏になった墓があり誰も墓もりする人間がいないので本家の私が面倒を見る事になっていて その墓をよく見ると 南無妙法蓮華経! と立派な御題目が刻まれているため です わかりづらい 文章ですみません