今度、生まれ変わるなら苦しみのない世界に生まれ変わりたいです。心がない世界と言った方がいいかもしれません。
私は子供の時に小児癌を患い顔半分に障害が残りました。孫も小児癌になりました。私の母は結婚せずに私を産み、私は2度結婚し子供を産み、その娘も2度結婚し、その娘の子供が小児癌になりました。私は最初の夫の両親を看取りませんでした。今の夫の両親は介護し看取りましたが心から介護はしていません。早く亡くなってほしいと望みました。そんな私だから私もまた娘から疎まれています。もう誰とも関わらず一人で生きていきたいのですが、そういうわけにもいきません。亡くなった姑、舅。80になる実母。今まで私に関わった人にどう償えば、この悪循環を断てるのでしょうか。
こんにちは。 前回質問で、輪廻思想がどうも腑に落ちない、と主張した者です。 ただ、輪廻に限らず、事物が「ある」とも「無い」とも断定するのは中道の教えに反すると感じるので、輪廻思想の側からも質問させてください。 輪廻転生があるなら、私は六道あらゆる世界を見て、生きて来た事になりますよね。何しろ仏教の宇宙観は無数劫の時間スケールで成り立ってるのですから。 また、私は、いわゆる地球外生命というものも、必ずどこかの惑星で誕生し生を営んでいると信じています。 そうなると、私の魂(?)は天上界のめくるめく壮麗な世界も体験して来たし、地獄の底の恐ろしい責め苦も受けて来た事になりますよね? また想像を絶するような異星の光景も目の当たりにしてきたのではないでしょうか? 輪廻転生が教えているものって、 「そういう一切合切の有情は、別個に生きているのでなく、過去、現在通して、物質から魂のレベルまで、密接に繋がって生きてるんや。天人も地獄の衆生も、あらゆる命も決して他人事じゃおまへんで。なにせアンタがそれ自身だったんだからな。」 と言っているようにも思えるんです。なぜか関西弁ですが。 そういう所から、いわゆる慈悲って生まれるのでは無いでしょうか? 生前や死後を無記とするのは「智慧」ですが、また輪廻をわが事として受け止めるのは「慈悲」の根源なのかな?とも思います。 この2つの考えは矛盾するものではないとも、私には思えます。 お坊様方は輪廻と言うものをどのように受け止めてるのか、気になったので再び質問させて頂きます。 お考えを聞かせて頂ければ嬉しいです。
なぜ生きないといけないのでしょうか?そしてなぜ生まれてきたのでしょうか?
いろいろ仏さまの教えを学んではきたのですが、私たちって、生きているかぎり、輪廻から解脱することは不可能なのですか? 輪廻から解脱した状態で生きてゆきたいというおもいだったのですが...
生きていても、苦しんでいないというひとは、輪廻のループから逃れられているということで、合っていますか? 苦しいということは、輪廻のループから逃れられていないということで合っていますか?
こんにちは。 私は数年前から一人暮らしをしており、1人の時間も長くなると考え事をする時がしばしばあります。 その中で昔の嫌な記憶を思い出すことがよくあり、思い出した嫌悪感に我慢できずにたまに泣いてしまいます。 自分の性格や人間性のダメな部分に嫌気がさして自己嫌悪に陥るのですが、ああしてこうして育ててくれればこんな人間にはならなかったのに、と親のせいにしてしまう自分に何より腹が立ち、情けなくなります。 もちろん四六時中こうして悩んでいるわけではなく、仕事ができるありがたさや趣味に打ち込める楽しさもあり、普段はポジティブに生活しています。 ですが、人間いつか死ぬのなら、できるだけ早く死にたいなとも考えています。 自分で言うのもなんですが、感受性が豊かな自分にとっては家族も含め人付き合いに疲れてしまい、早く楽になりたいんだと思います(叱られるかもしれませんが… 死後の話でよく『輪廻転生』と耳にします。 私は現時点で20数年しか生きていませんが、もし人間として生まれ変わるのなら、またこんな人生を送らなければならないのならないのは御免だなと思います。 やはり死後の魂は何かに形を変えて生まれ変わるのでしょうか?だとしたら魂の数には限りがあるのでしょうか? もう一度生き物に転生せずに済むのなら、魂ごと消えてしまいたいです。
私は、輪廻転生を信じていますが、既にご先祖様が他に生まれ変わっていても、あの世とこの世を行き来しているのでしょうか。
私が仏教の入門書で最初に目にしたのは「仏教の目的は輪廻転生からの解脱である」ということでした。 外国の仏教では輪廻転生が信じられていますが、日本の仏教ではその話は殆どおこなわれていません。 その理由を知りたいです。死に対する最も重要な事項だからです。
輪廻転生の事を考えると胸が痛くなります。何故仏教は命を一回限りとしないのでしょうか。 もちろん今ある生も今生限りのものですから人生が一回限りであることには変わりありません。 ただ殉教、殉死、心中等を遂げた歴史上の偉人の前世や来世が全く下らない物だったかもしれないと思うと胸が張り裂けそうになります。 自分の運命や人生を全面的に肯定して死に切ったとしても、過去世や来世の全く違う人生によって矛盾をきたしたものになるとしたらどうでしょうか。 「七度生まれ変わって朝敵どもを皆殺にしたい」と言って自決した楠木正成が果たして貧民街の子供に生まれ変わる事は無いと誰が言えましょう。 彼は生まれ変わりを願いましたが、あくまで自分の人生を貫き通す意思であり、運命愛に過ぎません。 生涯不犯を誓って異国で命を落とした宣教師達の前世がどこかの売春婦であると考えただけで吐きそうになります。 もしそれで良いのならこの世での清貧、忠義や誠意も全く無意味なものとなりますから。 ただ輪廻思想が広大無辺な仏教の歴史の中で偉大な説法者達に受け継がれてきたものである事は否定できませんし、 私は至らぬ凡夫ゆえ仏教の各宗派の前提とする輪廻の教義まで仔細には存じ上げません。 仏教では、特に自性を認めない中観派では何が輪廻するとされているのでしょうか? 水車を廻す水や携帯を動かす電気のように、「私」ではない、「私」の生み出す執着そのものが輪廻するのでしょうか? 執着が輪廻するのであれば悟りを得た=執着を滅した釈迦が解脱に入られたと解釈できるように思えますが。
ある小説を読んでいるとき、前世や来世の話が出てきました。 その時、「今世でも会えなかったね」という言葉がふと頭に浮かび、その後涙が止まらなくなりました。 悲しい感情から泣くというより、ただただ涙が出るという状態で、あまりに涙が止まらないので驚いてしまった程です。 前世に誰かと別れて、また来世で会おうと約束でもしたのでしょうか? なんだか気になってしまいご質問させて頂きました。曖昧な質問で恐縮ですが、よろしくお願いします。
私は自分の前世がどのようなものだったのかとても知りたいです。 でも、自分の前世を知ってはいけないから、思い出す事が出来ないのかなとも思います。 今の自分が苦手な物や今自分の周りにいる人は前世とも関わっているという話を聞いた時にそれは本当かなと疑問に思いました。 私の一生で前世を知ることは出来るのでしょうか? それとも前世とは、今世から現実逃避したいと願う空想の話なのでしょうか? 支離滅裂な文章で申し訳ありません。 教えて頂けたら幸いです。
私は持病の症状とは別に、この世の者ではないものが見えたり聞こえたりする事があります。 ご先祖様や亡くなった家族は助言をくださり、時には叱ってくださり、とてもありがたいです。 ですが、苦しんでいる霊にも会ってしまいます。 戦で亡くなった落ち武者は、「利用された、苦しい、辛い」と言っていました。沖縄戦で亡くなった霊は、軍服を着たまま首から上が無く、断末魔のような叫び呻き声を上げていました。 死んだ後もあの世へ行けず苦しむ程にこの世の試練は苦しく残酷なのは何故ですか? 仏教では輪廻転成があると聞いたのですが、人が他人を殺すこと、人が動物植物を殺すことが許された世界に、私たちは何故何度も生まれてくるのでしょうか? 輪廻転成はいつまで続くのですか? 転成しなくて良いまでに、学び成長した後は私たちはどうなるのでしょうか? たくさん質問をしてしまって、申し訳ございません。 生きる意味のヒントが頂けたらと思い質問させていただきました。 宜しくお願い致します。
最近、ふと思います。 子どもの頃、死んだら生まれ変わる。誰に教えてもらったともなく、そういうもんだ、そう思っていました。 仏教としては、死んだらお釈迦様の弟子になり修行をするのですよね? 何故、生まれ変わる、と思ってきたのかなぁ…と最近は自分に不思議です。 死んだからと生前のその人の事を綺麗さっぱり忘れられません。むしろ、思いは生き続けるように思います。思いを引き継いだ者が、さらに誰かに引き継ぎ万年も生き続けると思うんです。 だから、輪廻はある!そう思っていたのかもしれません。 そう思いながら生きる事を教えてくれた亡き人生の先輩に想いを馳せる雨の夜です。
毎日人に迷惑かけ嫌な事して苦しめて辞めてと言っても逆切れして暴言吐いて辞めない人 それが偉い人だったり、仕事でやってる人でも天罰というものはくるのでしょうか。 私自身がそういう事されているのは過去(前世)の報いだからそういう目にあっていると思うのですが… もう10年その事と格闘している毎日でいつかは終わりがくるのでしょうか。終わらない気がして不安でまりません。 よきアドバイスをよろしくお願いいたします。
この1ヶ月、こちらでは本当にお世話になっています。 初めての質問から、少しずつですが前を向いて生きて行けるようになりました。 でも時々、現実を受け入れる事が出来ない未熟な自分がいます。 まだ、未練があるのです。 彼の事は、一生忘れる事が出来ないのだと思います。 彼は、もう私が愛した彼ではない… 皆様の回答を繰り返し読見ながら、そう自分に言い聞かせています。 でも、ダメなんです… 私は、未練たらしいのでしょうね。 いつか、以前の彼に戻ってくれるかも… 今までごめんね…といって私を迎えに来てくれるかも… そんな事ばかり考えてしまいます。 もし、この世で無理だったとしても、次生まれ変わった時には、間違いなく彼と結ばれる。 今は、来世に向けての試練なのかも知れない…って。 なぜここまで彼の事を愛しているのか? なぜここまで彼に執着しているのか? もう、私にはわかりません。 私は、来世で幸せになれるのでしょうか。
回転寿司が大好きで週に一度は食べに行っています。 そこで、hasunohaの左上のロゴの類似であるホッキ貝より、味は赤にし貝、歯ごたえはつぶ貝が好きだなと気づきました。 気付いたんですが、ホッキ貝も食べますし、赤にし貝やつぶ貝のみ食べるという事をしませんでした。 そして回転するベルトコンベアを見て、自分の輪廻からの解脱は本当に難しいなと感じました。 今回の『輪廻』の定義は死んだ後の話ではなく、 『執着する限り何度でも苦が繰り返される、因果応報としての輪廻』です。 (本を見たりネットで調べたり人に聞いたりしたわけではなく、毎日自問自答しているうちに『生きているうちにも輪廻している』と気づきましたので、これは仏教やブッディズムでいう輪廻ではない、というご意見もあろうかと思いますが、その場合は正しい言葉を教えていただければ有り難いです) 気付いてもなかなかやめられない、そして心に余裕がなくなったら外的要因のせいにしている自分の心がいます。 ダンマパダや七仏通誡偈の中に、 諸悪莫作(サッバパーパッサアカラナン) 衆善奉行(クサラッサウパサンパダー) 自浄其意(サチッタパリヨーダパナン) 是諸仏教(エータンブッダーナサーサナン) がありますが、白楽天に言った道林禅師の『3歳の子供でも分かるが80歳の老人にもできない』という偈に自分の経験を当てはめて痛感しております。 僧侶の皆様は忘れてしまったらしょうがないのですが、忘れてしまいそうなときはどのようにして忘れないようにしていますか。 (忘れてしまいそうなときは忘れていないから、忘れることはない、という答えもあるでしょうが) 苦の輪廻を寿司で例えると味にアクセントを与えるワサビ(たまに多くつけすぎたり少なくつけたりして苦しむがちょうどよい辛さを探している)だと、勘違いしている自分がいるのかな? と迷ってしまっています。 いや、違う。ただ何も考えてないだけですね。
生の先に肉体の死があり、その先に輪廻転生があるならば、また生の前に戻り、その先に生がある。 ならば、肉体の死を自然に任せなくとも良いのではないでしょうか。 辛い生を送り続けるより、早く新しい先へ進んだ方が良い。 それが逃げであっても。
近年、量子力学等の学問での研究に目覚しい進歩が見られます。 量子力学や精神系分野で輪廻転生の研究の話題が盛り上がっています。 量子力学では遂に死後の世界について【量子もつれ】と呼ばれる現象で論文を発表したり輪廻転生の研究をしていらっしゃる学者さんもいますし少し前ですが精神系分野では著名なアメリカのジム・タッカー博士は輪廻転生をしたと思われる2500人の子供達に関して発表しました。 この子供達の実例を見る限り明らかに例えばAという死んだ人物とは関係ないBの少年又は少女がAの生前の記憶を持って生まれてきている事があるようです。 それでも脳の錯覚だとして懐疑的な学者さんが多い中、現在進行形でこの分野の研究は着実に前へと前進しています。 ちなみに、私は死後の世界も輪廻転生も存在すると考えています。 そこで、今回は輪廻転生についてお聞きしたいです。 お坊さんは輪廻転生とはどのようなものだとお考えなのでしょうか? 輪廻転生の仏教的解釈やお坊さん個人のお考えをお聞かせください。
お世話になります。 今日、初めて仏教勉強会に参加させていただきました。 そこで、輪廻転生を教わったのですが、すんなりと『なるほど~』と思えれば良いのですが…。 私は、 *『死後の世界はないと考えたい自分』と、 今までの霊的体験や臨死体験から、 *『死後は、ちゃんとあの世に行ければ、それはそれは暖かくてまばゆい光に包まれる。だけれど成仏出来なければ霊魂としてこの世をさ迷うこともある…と感じている自分』がいて、 輪廻転生を、なるほどと受け入れることが出来ませんでした。 そういう「教え」を受け入れられなくて、南無阿弥陀仏をお唱えすることに矛盾を感じてしまいました。(仏教に対してではなく、自身への矛盾です)。 輪廻転生や、死後の世界、私の感じる矛盾について、どうお考えになられますか? 宜しくお願い致します。