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「親・家族・恋人・大切な人の死・亡くした後悔」問答(Q&A)一覧

祖母への想い

カテゴリは違いますが2度目の質問です。 昨年の2月に祖母が93歳で他界いたしました。 すごく気が強い人で、友人や近所の方々との喧嘩が多く 3人の子供たちにも煙たがれる存在でした。 長男である父(私たち家族)と同居しておりましたが共働きのため 普段は1人家で過ごしていたせいか、寂しい気持ちから 家族に我儘や文句の言い放題で、家族全員手を焼いていました。 時には、その我儘に怒鳴ってしまったり喧嘩も絶えませんでしたが 小さい頃は祖母に育てられたこともあり大好きな存在でした。 最後は病院へ入院しており会話もできない状態が何年も続き 病院からの連絡が遅く、誰も最後を看取ってあげることができませんでした。 葬儀には約200名の方が最後のお別れに参列していただき 子供・孫・多くの方が涙してくださいました。 私たちは皆さまから祖母は嫌われている存在だと思っていましたが そうではなかったことに気付きました。 それと同時に家族全員、年寄りの我儘に怒鳴ってしまったり 時には冷たい態度をとってしまったこと 謝れないままお別れになってしまったこと大変後悔しております。 お墓や仏壇に手を合わせるだけでも、その私たちの後悔や 気持ちは祖母へ届くのでしょうか? いなくなってから気付くことがたくさんあり 私たち家族は、その度に後悔することしかできないのが 大変苦しいです。 私たちはこれからどうしたら良いのでしょうか? 教えてください。

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祖母の死について。

昨年、祖母が亡くなりました。 91歳で、老衰だとの事でした。… が、亡くなる数年前から 寝たきりになって 認知症もでていて、施設に入っておりました。 六年ほど前に私は実家を出たのですが それまでずっと 同居しており 小さい頃は よく面倒を見てもらいました。 しかし、母との仲が良くなくて、(いわゆる嫁姑問題)で いつも 間に挟まれておりそれが嫌で 成長とともに 自然とあまり 会話をする事もなくなっていました。でも 祖母の事は 好きでしたし大切な存在でした。 施設に入ってからは あまり 訪ねて行くこともせず(少し遠かったので)何年か経ち 亡くなる数日前に訪ねたときにはもう 話も出来ない状態でした。 小さい頃はよく遊んでくれて二人で出掛けたりしていた祖母が まるで別人のようになってしまっていて… そのまま逝ってしまいました。 もっと、会いにいって いろんな話をすればよかったと今になって後悔しています。 私の事も忘れてしまったままあの世に逝ってしまったのだろうか…と思うととても悲しく涙がとまりません。 認知症のまま亡くなってしまったら どうなるのでしょう? ちゃんと いろんな事を思い出して 家族を見守ってくれているのでしょうか? 祖母は 会いに行かなかった私を許してくれるでしょうか? 亡くなってから よく夢をみるので そんな事が気になっています。 お坊さん達は どう思われるでしょうか?

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亡くした父に対しての後悔

三年前に父を亡くしました。 六年前に母親が出ていき離婚して以来、男手ひとつで私や年の離れた弟達を育ててくれました。 「両親が揃っていないから」なんて言われないよう学校行事にも参加し、子供には不自由な生活をさせないようにと自営業で切り盛りしてくれていました。 そんな父をとても尊敬していますし、大切に育ててくれたので大好きです。 弟達も父が大好きで少しでも負担にならないようにと手伝いに励み、家族みんなで支え合ってきました。 しかし、そんな父を三年前に病で亡くしました。 元々酒豪で毎日大量のお酒を飲んでいた事が原因なのか肝臓を悪くしてしまい、手遅れになってしまい、入院して一週間もせず亡くなってしまいました。 体調の悪さは父子家庭になってから極稀に訴えることはあり、病院に連れて行こうとしても幼い弟達も居り、また自営業だった為頑なに拒否し続けられてきました。 親戚付き合いも薄く、周りに頼れる人も居らず、家では父が絶対だった為当時はどうする事もできず、途方に暮れるばかりでした。 父を亡くしてからは親戚の家に厄介になったのですが、「どうしてもっと早く病院に連れて行かなかった」「アイツ(父)を殺したのはお前達だ」など言われた事が酷く心に残っています。 それは私含め弟達が最も後悔している事です。 拒否されても病院に連れて行っていれば、怒られてでもお酒の量を減らすよう反抗するべきだった、そうすれば死なずに済んだのではないか、とずっと悔いています。 心の奥底で感じていた己の罪を他人から指摘された事で目の前に突き付けられた様な気がして、父に対して申し訳ない気持ちでいっぱいです。 父の代わりに私が死ねばよかったのに。 どうして自分が生きているのか。 など遺影を見る度考えてしまい、生きている事が辛いです。 これは助ける事が出来なかった父からの罰なのでしょうか? 救われたい等烏滸がましい事は言いません。 どうしたら少しでも父に許してもらえるでしょうか? 回答よろしくお願い致します。

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かけがえのない母の死、「死」について

長年病と闘い、手術を繰り返しながらも頑張って生きてきた母が昨年4月に亡くなりました。  やはり長年病に苦しみ寝たきりだった父の介護を私と二人で必死にやって日中は一人で一生懸命やってくれました。私が帰るとたくさん話しかけられたのに言葉を発することのできない父に話しかけることに必死で母とは少ししか話せませんでした。  父が亡くなり母をこれから楽しませてあげようと思っていた矢先に毎週手術の繰り返しになり、退院後は一人で怪我したため朝母を送って残業後の夜までデイサービスを受けることになりました。  毎日忙しく人見知りするのにと申し訳なく思っていましたが、施設の人達は母をとても可愛がってくれて母も嬉しそうな顔をしていたのが唯一の希望でしたが、私の迎えも楽しみにして嬉しそうな顔をしていたのが可哀想で胸が痛かったです。  そんな母が入院して病院にも泊まれず、私が帰る時の淋しそうな顔は忘れられません。  母は病院や施設を転々とした後に最後の病院は、最期は介護施設と同等の病院だからと医療措置を取ってもらえず転院も断られ、胃ろうや点滴を止められて餓死するような状態で亡くなりました。  私は母が可哀想で可哀想で何であの病院に預けたのかと、普通の施設や病院であれば父のように最期まで医療措置を取ってもらえたのにと悔やまれてしようがありませんでした。    そして今回自分が手術を受け、自分や配偶者、両親の死について考えてしまいました。  生前母は、家に一人で言語障害の父と残されて娘は父の介護であまり話してくれず、自分は手術の繰り返しで殺してくれと叫んだ程の苦しみ、退院後は人見知りが激しいのに施設に預けれられ朝と晩しか娘といれない、入院後は娘と少ししか会えず自分の死が近くなり病院は措置してくれず自分の死に娘は間に合わず看取ってもらえなかったなど、どんなに淋しくて心細かったかと思うと母が可哀想で可哀想で胸が張り裂けそうです。  自分の術後の痛みや再発の不安、母への申し訳なさでパニック障害と不安症になってしまいました。  父母の死を経て「死」について納得していたつもりですが、この年齢なのに今回混乱してしまい分からなくなってしまいました。  今後どのような気持ちで日々過ごしていったらいいか、「死」についてどのように捉えて行けばよいのか、どうかご教示をお願いいたします。

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亡くなった母に申し訳ない気持ちでいっぱいです

私は母1人子1人という母子家庭で育ちました。 父がいないということを感じさせないほど、母は休みなく働き収入を得、愛情をたくさん注いでくれました。 私は辛いときでも笑顔を絶やさない優しい母が大好きでした。 しかし母は10年前に突然病気になり治療の甲斐もなく亡くなってしまいました。 心臓をえぐられたような感覚とともに、視界に入るもの全てが色を失って見えたほどのショックでした。 私は尋常ではない程荒れました。 お酒を大量に飲みタバコも吸い始め、毎日泣きっぱなしで主人にも当たり散らしてしまいました。 そんな中でも主人や周りの人達に助けられ支えられて、時間が経つごとに笑顔を取り戻すことができましたが後悔だけは今もなくなりません。 母の事は大好きだったのに、反抗期が長く反発ばかりしていたこと、泣かせてしまったこと、なんの親孝行もできなかったこと、楽しみにしていた孫を見せられなかったこと… 私が母の心労を増やしてしまい病気になってしまったんだと後悔することばかりです。 謝りたくて仕方ないのに、親孝行したいのにもうどうしようもありません。 この気持ちはどうしたらいいのでしょうか。 ご回答よろしくお願いいたします。

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昨年夏 母親を病気で亡くしました

昨年の7月に母親をガンで亡くしました。 おととしの秋、病気が分かってからは、母親を励まし、支えながら闘病生活に入りました。 昨年の2月からは、毎週100Km程離れた、大学病院まで治療に通いました。 6月には、病気の進行から、入院をしました。 入院後は、亡くなるまでの2か月近く、毎日、仕事終わり、休日も、時間の取れるときに病室に行きました。 親戚などは、良くしてあげたと言ってくれますが、後悔ばかりでいまだに母親の荷物の整理をしようとすると涙が出て、何も手を付けられません。 毎日毎日、病室に通ったのに、亡くなるとき、少し様子が悪いからと連絡したことで来ていた、弟夫婦に代わってもらい、家に帰った後なくなりました。 前日、具合が悪くなって徹夜でついていたのですが、お昼には笑いながら話ができるくらいだったので、油断してしまって・・・ 夜になって病院に到着した、弟夫婦に任せて家に家に帰ってしまったのです。 そのことが、後悔となって、すごく親不孝なことをしたと思えて、自分の中で処理しきれなくなっています。 生きていくことの気力が、でなくなっています。 どうすればいいのでしょうか? 宜しくお願いします。

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三途の川の渡し賃とおばあちゃん

祖母が亡くなって十数年も経つのですが、未だに後悔の念に苛まれる事があります。 それは、祖母が亡くなった時に棺の中に入れるはずだった、三途の川の渡し賃をこっそり盗ってしまった事…。 昔のお金で、確か10円のお札?とかだったように思います。とても珍しく、当時子供だった私は初めて見る通貨に大変興味を持ちました。 今は亡くなってしまった祖父が当時、祖母の為に渡し賃を古ダンスから出してきた記憶があります。 弟は昔から可愛がられる性格で、その時弟は昔のお金を貰えたのですが、私は貰えませんでした。そして、弟と渡し賃分だけで、古い通貨は終わりです。 私は弟に分けて、と言えず、よりにもよって祖母の棺から、こっそり渡し賃を盗ってしまいました。 そのまま葬儀も終わり、骨になってしまった祖母を見た時、強烈に後悔の念が押し寄せて来ました。何て事をしてしまったんだろう、祖母はもしかしたら三途の川を渡れずに彷徨ってしまうかもしれない、と。 今でもふと考えると、後悔と不安が頭の中によぎります。でも誰にも相談できなかった…。 祖母はちゃんと三途の川を渡れたと思いますか?? 何かお言葉を頂けませんでしょうか?

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亡き父との後悔の別れ

4年前に最愛の父を亡くしました。 私が結婚後も父とは良好な関係を続けていました。 5年前にある事件に巻き込まれて独身時代の全財産を失い、 その直後に病気が発覚してからも、私を優しく励まし続けてくれました。 でも精神的に大きなダメージを受けた私の心には届かず、 泣き暮らす日々を送っていました。 子供の為にもこのままでは駄目だと思い、前向きに頑張ろうと思い、 ある日、父と話がしたくなり、久し振りに電話をしました。 いつも優しい父は、その日はいつになく攻撃的な発言をして来て、 前向きに頑張ろうと思っていた私の心を傷付けました。 今思うと、たいした言葉ではなかったのですが、その時の私は、どうしても父の言葉が許せず、暫く父とは距離を置きました。 その半年後、母から連絡があり父の死を知りました。 父は私に暴言を吐いたあの日以来、ずっと体調が悪く入院していたらしいのです。 でも私に心配を掛けたくないと父は私に病気の事を告げないように母に口止めをしていたそうです。 父と最後にあったのは亡くなる前の1年前でした。 父とあんな形で別れた事を今でも悔やまれて、毎日後悔しています。 父に会えるのなら、謝りたいです。 謝って、感謝の気持ちも伝えたいです。 ちなみに事情があり納骨はまだです。

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亡くなった父を殺したのは自分だと思います。

約3か月前に父を亡くしました。父は進行性の難病を持ち、それでも本当に難病を持っているのかと思うぐらい、自分のことをは自分で行い、シッカリした生活を送っていました。 母は体が弱く、自分のことで精いっぱいながらも父のことを診てあげていました。 父は、穏やかな性格で、誰からも優しい人だといわれていました。自分のことよりも人のことを考えるような人でした。 そんな父に私は、日頃から厄介者的な発言をしては、父に涙を流させてしまっていました。 そんな父が、軽い肺炎から心臓が悪いことが判明し4週間の入院となりました。突然死もあり得るといわれました。でも、無理をしなければまだ生きることができるかもしれないともいわれました。 厳しいが、死を宣告されたわけではありませんでした。 退院後、帰宅を願う父に対して聞く耳を持たずに、自宅から近い老人介護施設へ自宅に戻らず入所させました。 それが母にとってもいいと勘違いしていました。 父は入院中から、難病からかと思われる無呼吸状態に頻繁、「息が苦しく辛い」訴えていました。 施設入所時は、話すこともおぼつかないぐらい弱り、延命的な治療は断り、本人の希望もあり、息が苦しいことを取り除く緩和を行いました。 食事は、入院中から私が「本人がほしがらなければ無理させないで」と言い、徐々に食べなくなりました。本人のことを思ってではありませんでした。勝手に父は死に向かっていて、苦しまないで逝かせてあげると解釈して行ったことでした。 徐々にモルヒネが増え、意思の疎通ができない寝たきりの状態になり、ほんの少し口にしていた食べ物もまったく口にしなくなり、枯れるように静かに逝きました。 最期は、私が看取りました。 ずっとつぶっていた眼を少し開けて遠くを見るようにしていきました。 私は父に対して最初、助からなくてもいいという思いを持ち、対応をしていました。父のことを考えず、自分が大変にならないことを基準にしてことを進めました。 私の行動は確実に死に向かわせていました。 助からないと分かった最期の4週間ぐらいから、やっと気が付き今までのお礼や詫びを伝えたりしました。 でも、父はもっと生きることができたと思います。奇跡もあったかもしれません。 父から受けた大きな恩を、私は大きな仇で返してしまいました。 今は泣いて暮らす日々です。 今私にできることを教えてください。

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