hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
hasunohaオンライン個別相談開始!

「死について」問答(Q&A)一覧

回答は、各僧侶の個人的な意見のため公共性を帯びたものではなく、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
2019/09/25

人が死ぬと言うこと

初めて投稿させていただきます。 人の死について、今頭から離れないことがあります。 私や私の両親の事ではなく、近所の80代の男性(ご夫婦でお住まいです)が今年始めに病気で入院手術されました。手術は成功したのですが、先日から急に体調が悪化し手足に水が溜まるようになって今日再び入院することになったそうです。 お医者様によると「いつ何時に…」という事を言われたと奥様が言っておられました。 私は顔見知り程度で何度かお話ししたり、いつもご夫婦でお散歩されている姿を見ていただけですが…なんて言えば良いのか、お二人が並んでお散歩されているお姿がもう見られないのかと思うと急に寂しく感じられ、今日お話を聞いてから落ち込んでしまっています。 お子さんは息子さんがお二人いらっしゃるのですがそれぞれ事情があり、ほとんど会いに来てくれないみたいです。(ご長男は近所に住んでいます) あまりにもご実家に帰ってこない事でご主人は「子供なんて産むんじゃなかったな」とさえ仰ってたと聞きました。もちろん本心からではないと思いますが、病気でしんどくて心が弱っている時に息子が家に全然来てくれない、病院に送ってもくれないとそんな愚痴も言いたくなるのかもしれません。 私が「検査の時や必要なときは病院までいつでも車で送っていきますよ」って言っても、いつも「大丈夫です」って遠慮され、お二人で通っておられました。私の母が奥様から聞いたのはご主人が「息子でさえ来てくれないのに、ご近所さんにそんな迷惑はかけられない」と仰っていたみたいです。 何か私にも出来ることはないかと考えていた矢先、再入院。 そして、もう長くないと… 人は必ず亡くなるものですが、何もしてあげられなかった後悔が溢れてきて。 出来れば、また元気になってもらえたら良いのですが、もし無理なら少しでも穏やかに最期をむかえてほしいと願わざるを得ません。 私は人の死を受け入れる事が難しいのか、覚悟が無いのか、ずっと頭から離れなくて辛いです。 人が死ぬことを想像すると悲しくて怖くて。きっとこれから何度も経験していくのにこんな弱い精神で耐えられるのか。 どう考えていけば良いのでしょうか? 長文になり大変申し訳ありません。

有り難し有り難し 18
回答数回答 1
2019/09/08

コウモリを殺してしまった

つい先ほど、家の中にコウモリが入ってきてしまい飛び回っていたので、虫捕り網で外に逃がしてあげようと思い網を振るっていました。 以前にもコウモリが入ったことがあり、その時も捕まえて外に逃がしてやれたため、簡単に考えていました。 ところが、振るっていた網がコウモリを直撃してしまい、コウモリは血を流して動かなくなってしまいました。 私は生き物が好きで、普段から虫なども殺さないよう気をつけています。 網を張っているとき、頭の隅で、コウモリに当たるかもしれないなと思っていましたが、そのまま振るい続けてしまいました。 翼を広げたコウモリは20センチほどあったように思いますが、ぎゅっとカラダを縮こませたみたいに死んでいました。頭か首のあたりから血がぷっくりと出てきていました。 その後、玄関先の植え込みに簡単ですが埋めました。 その時も、可哀想なことをしてしまって申し訳ない気持ちの反面、殺してしまったことで自分になにか悪いこと、バチが当たるんじゃないかと考えてしまいました。 そんな自分がとても醜く思いました。 コウモリの寿命は3〜5年程です。 あのコウモリはまだ子供だったかもしれません。 そう考えると申し訳ない気持ちでいっぱいです。 こういった間違いをしてしまったとき、どう対処したらよろしいでしょうか。

有り難し有り難し 8
回答数回答 1
2019/05/23

日本、自然死を知らない医師

いろいろ、いろいろ、思うことがあって、思うことがあり過ぎて溢れて、うまく文章に出来ないです。 死とは何か…医者は自然死を知らない 「延命治療」蔓延する日本と「自然死」選ぶ欧米 夕刊◯ジの記事は、良くも悪くも、日本人の「自然死」に対する考え、気持ち、心について、考えるきっかけを与えてくれているように感じました。 良いとか悪いとかじゃなくてです。 いろんな意見があります。 どの方の意見も分かります。 そうだね、そうだよね、と思います。 ただ記事にすると、意見の押し付けや行き過ぎた言葉が並んでしまいがちで… でも、それも仕方がないことで… 何せ人間が書いた記事ですからね… 意見の押し売りさえなければ、それも良しとするしかありませんよね。 私も自然死賛成、いや、自然死なんて嫌だ、延命治療はしたくない、いや、延命治療だって必要だ… どれも、そうだよね、と思います。 医療者の側からすると、治療拒否→治療しない、とは出来ない事情もあります。 それも仕方がないこと。 最近、腎臓の病気を患う患者さんに対して、人工透析をせず死なせた!という事件(?)が世間を騒がせたけれど… じゃあ…ただ人工透析を続けるのみ、人工透析の拒否を受け入れない医師が、良い医師、正しい医師、と言えるのか… 私がよく経験した話になります。 タクシーに乗った時に「◯◯大学病院までお願いします」と言うと、私がまさか職員とは知らず、見舞い客か何かと思って、こんな話をされたりするのです… 「僕の兄貴も腎臓悪して、ずっと◯◯大学病院で透析うけとったんや。でもな、しんどうてしんどうて、もうええ、透析はやめる言うてな、ホンマにやめて、死んでんけどな、やめて良かったわ、医者は反対してたけどな、やめて良かった…」 だから、透析どうこうは、そんな単純な話ではないと私は思うのです。 じゃあ、ケースバイケースだ!という人が正しいかと言えば、そんなこともないし、それだって言ってしまえば綺麗事であり他人事のように聞こえます。 正しい答えなんて、ない。 じゃあ、どうしら…? お坊さまたちは、人が人としとある最後の姿、亡くなった姿をたくさん見ている貴重な方々です。 自然死、延命治療、その他いろいろ… お坊さまの意見…?というか…お坊さまの心の中にある想いをお聞かせ願えませんか?

有り難し有り難し 6
回答数回答 1
2019/04/06

擬似的?な死を体験

悩みとは違うのですが質問させていただきます よろしくお願いいたします 確か6才頃の時でした 公園でとある事故により肉体と幽体とが離れたことがあります 気付いた時、仰向けで空を見ていました 足元を見ると離れた場所におんぶされ運ばれる自分がいるんです その際感情などは一切なく、ただ『見ている、傍観している』状態です 移動する感覚はなくドラマのカットの様にパッと切り替わり次はタオルを額にあてがわれベッドで寝かされている自分、それを取り囲む人達の頭を上から見てました そこもまた『ただ見ている』状態 そして次のシーンで取り囲む人達を肉体の視点から見上げてました、気が付いた(肉体に戻った)状態でしょうか アレ?っといった感覚で自分を俯瞰で見ていたついさっきの記憶と肉体に戻った感覚がごっちゃになっていたのを覚えてます ここで質問させてください この体験は所謂『死』と同等だったのでしょうか?結果戻れたから死ななかったということでしたらあのまま戻れなかったら感情もなくそこらを浮遊しいつか何かしらの変化により成仏したのでしょうか? 今だから思うことがあります 色々な力が働いていたんだと思います 子供故に助かったのかと思います だけどあれが死者の魂の感覚だとするなら肉体ってなんなんだろうなと、死後って悲しみも辛さもないんじゃないかなと、そう考えさせられるんです 死とは相当状況に左右されるのは分かりました 恨みも嫉みも未練もなければ人の魂はすんなり浄化できてしまうような気もしました 30年以上前の出来事が今でも不思議と全て鮮明に記憶されているんです、魂の経験とでもいうのですかね^^; あまりに鮮明なんです 夢のような感覚です あと最後に 肉体を離れたあと、音がありませんでした 声だけが聴こえてた記憶です 本当に貴重な体験をしたなと思います 変な質問ですが御回答よろしくお願いいたします

有り難し有り難し 8
回答数回答 1
2019/03/26

私の死生観は間違っているのでしょうか?

カテゴリ間違いだったら申し訳有りません。 私が高校生の頃、生徒教師共に学年全体から疎まれていた教師が突然死しました。 その教師はセクハラ発言、時間があれば自分語り、自分ルールが横行しており、校長が何度注意しても直らない と言った問題行動を連発していました。 その教師が亡くなる数日前まで学年の一人の教師が、被害届を纏め、教育委員会に提出するべく書類を作成していた程でした。 学年集会で亡くなった事が告げられると、「早く●んで笑」とまで散々悪口を言っていた生徒達が泣いていました。 私はこの事に対し「今まで散々悪口を言っていたのに手のひら返したように泣ける感受性と協調性の豊かさが羨ましい」と友人の前で呟いていました。 この発言に対し、友人から「泣いている人を批判しているのは間違ってる」と指摘されました 私は人間も食パンも変わらないと思っています。 「食パンを食べたら無くなった=胃に収容されたから 」であって「食パンは食べられるために生まれてきた 」訳です。 私は人間はこの世に生まれる理由は、死ぬ為に生まれて来ている と思っています。 いつかは死ぬのだから、人間は必死に生きなくてはならない、やりたいこともやりたい時にやらないといつかは死んでしまう と。 人間も「人が亡くなった=死ぬ為に生まれてきたから」であって、死は誰にでも平等に与えられているものですし、当然の事だと思っています。 その人に関わってきた時間や感情、思い出が加味されて、改めて 「(人が亡くなって)悲しい」という感情が生まれるのではないかと考えています。 私はこのような考え方なので、明日道端ですれ違った人が明後日亡くなっても、悲しいとは思いませんし、泣けません。 だから、セクハラ教師が亡くなったところで、何も感情は湧きませんでした。 間違っていますか?とても歪んだ考え方をしているとしたら恥ずかしいので治したいのです。

有り難し有り難し 8
回答数回答 1
2019/03/18

生と死について

母が亡くなって3年目です。父は朝晩仏壇に向かい般若心経を唱え、花やお菓子をお供えしています。 母が生きている時は母の誕生日も忘れ、子どもの私が困っていても見て見ぬふり、家事の全てを母にやらせ、休みの日は何もしなく、事なかれ主義で母が父方の親戚と折り合いが悪いのも母のせいにしてきました。 なのに、亡くなったらまるで神をあがめるようにお参りをする姿を見て、なんかおかしいと思うようになりました。 誕生日は忘れられるのに命日は思い出す。みんな集まる。生きてる時は無関心だったのに亡くなったらみんなお参りにくる。 それならば生きている時に共に喜び、泣き、喧嘩をし、仲直りをして、それが人間味のある生き方や人との繋がりなんじゃないかと思ったんです。 私は抑うつ状態で全般性不安障害を併発し、いじめ後遺症になり、対人恐怖症人間不信になってしまい、社会復帰は絶望的です。私は今、幽霊みたいなもんだなと思って生きています。私は精一杯、病院、行政、親戚等助けを求めてきましたが、支援されるまでにはいたりませんでした。友だちもいないし、親戚たちからはいじめられてきたのでとても孤独です。 孤独感とはなんだろうとずっと考えてきたのですが、誰の日常にも私の姿がない事だなと思いました。人に対する無関心さなんだなと思いました。 でも、死んだらこんなにたくさん集まってくれて、命日には思い出してもらえて、お盆もお彼岸も。 どうしてみんな生きているうちに人間臭く生きようとしないのでしょうか?目の前に起こっている現実から目を逸らして、真実を知ろうとせず、人を知ろうとせず、分かり合おうとする努力をしないのでしょうか?どうして人に優しくできないのでしょうか?死んでから優しくしても意味がないように感じるのです。 死んでから花をいけても本当に母は喜んでいるのでしょうか?生きていたらその花の鮮やかさを見たり感じたりできるのに。 だから私は母の命日より母の誕生日を思い出そうと思うのです。 この文章を読んで住職さんという立場からみてどう思いますか?

有り難し有り難し 26
回答数回答 1