相変わらず鬱々とした期間を過ごしていましたが、日々の生活が忙しくなり鬱々としている時間も少なくなってきました。 健康の為に「ウェイトをおとしてください。」と医師から厳しく言われているのでお正月早々、スポーツクラブに入会しました。 最近、テレビで寅さんの映画のCMを時々耳にします。渥美清さんがセリフで「生きてて良かったって思うことが何度かあるだろ?そんな事を楽しみに生きているんじゃないの?」みたいな内容のセリフが流れます。 私は寅さんの映画は一度も見た事はありませんが、このCMのセリフがとても暖かく感じ、素直に「そうだよね」と思えました。私の場合は美味しいお料理を食べた時にドキドキする位「生きてて良かった」と思います。そして声に出します。こんな事が死ぬまでの間に何度かあって、私程度の人間は人生⭕️なのかな、と思いました。 ノーベル賞が欲しいとか、世間の人々に尊敬されたいとか、そんな大きな欲望は私には似合いません。 お坊様はこんな私の思いをどのように思いますか?
こんばんわ。いつもお世話になっております。今生きる希望や生きがいを見出せなくて毎日苦しい気持ちで過ごしております。 お坊様も、いろんなご経験をされて今があることと思いますが、これまでの苦難や苦しみ、どんな辛かった経験をどう乗り越えてこられたのでしょう。 不躾ですみません、個人的なことをお聞きしてしまうので差し支えない範囲で結構ですので、どう乗り越えられてきたのか・何を支えにされてきたのか私にご教授ください。 みんな、こんな苦しい状況からでも這い上がった・乗り越えているんだという経験談やお知恵をお聞かせいただきたいです。 藁にもすがりたい気持ちです。よろしくお願いします。
2019年12月16日放送、NHK「ニュース シブ5時」で、このhasunohaが紹介されていましたね。 代表・堀下剛司様のお顔を、初めて拝見しました。また、転落院様の評が辛口なのは、「中学校指導員」をされているからなのですね。(納得しました) テレビ放送の影響で、さらに質問・相談が増えたようですね。このhasunohaが、より良い方向に活用されることを願ってやみません。 改めて、回答僧の皆様が、回答にあたって心がけていることを、聞かせて下さい。
いつも、お世話になっております。 物欲の事で相談させて頂きたく質問させて下さい。 私は、小さい時から親に物欲が無いとよく言われます。小さい頃は小さい頃なりにあったよ。と言うのですが誕生日に買って貰ったのは流行りで殆どの子が持っていた ローラーシューズだったりDSだったりと周りに合わせる為の物であり私自身心から欲しい!みたいな物に出会った事がありません。小さい頃は、それなりに物欲のある子供だったと思うのですがそれを友達に話すと物欲がないと言うのは危ないと言われました。生きる意欲の低下?等言われましたがそれなら、お坊さんはどうなるんだろう?と思いました。 多分周りに必要なモノがあるから困っていないのもあると思うのですが、最近では テレビって必要?自分の部屋は姉と共有なのですが7割方姉の私物に囲まれていて机と洋服タンスがあるのですが最近ではその机や洋服タンスすらも殆ど姉の部屋なのに必要?と思ってしまうのです。 例えば、仮にお前の私物全部捨てるぞ!と言われてもどうぞ。と言います。 祖母からも成人式にお祝いで何か買ってあげたいと言われているのですが申し訳ない事に何も思い付かず金一封贈ると言われそれさえも必要かなぁ…なんて思ってしまうのです。決して祖母からお金を貰うのに遠慮(?)してる訳ではなく本当に最近では物欲が無くて誕生日の日も大抵現金支給になってしまいます。物欲ってどうやったら生まれますか?食欲、性欲、睡眠欲等は人並みにあると思います。でも、確かに最近は外に出る意欲がなく家で寝てばかりいます。生きる意欲が低下していると思いますか? どうか、ご回答よろしくお願い致します。
現実的でなくても構いませんので、お坊さんが考える「この世があるべき究極の状態、仕組み」について、ご意見をお聞かせください。
空海さん、法然さん、親鸞さん、道元さん、栄西さん、日蓮さんなど各宗派の宗祖に会えるとしたら、お坊さんはどういうことを聞きたいですか?
相談ではなく質問で申し訳ないのですが、お坊さんは普段どのような1日を過ごしているのでしょうか? 私の中では朝早くから夜遅くまでお勤めをされているイメージです。 やはりお坊さんの生活は私のイメージ通りなのでしょうか? それとも案外私たちの生活とそれほど変わらなかったりするのでしょうか?
hasunohaでの問答で勉強させてもらっています。 ふと思いました。 僧侶の先生方は 僧侶を辞めたいと思われた事はないのでしょうか? 『クソ坊主』だの『生臭坊主』だの 『税金を優遇されてる』だの 気分が悪くなる事も有るかと思います。 どう対処されてますか? 師走でお忙しくなるかと思いますが 先生方、どうぞご自愛くださいませ。
やることがたくさんあるけども こころも身体も疲れきって動けない。 そんな時、和尚さんはどうしますか? 頑張って動かないと…。
知り合いから作務衣を七着もいただきました。とても上等なものです。作業着にはもったいない感じです。 皆様方は作業以外で、どのようなときに作務衣を着用されますか。
こちらで質問回答を読み進めるうちに、いろんなお坊さんがいらっしゃるのだなと思いました。今まで、お坊さんとは職業名に近い印象でしたが、今はもっと奥行を持って感じられます。 お坊さんも人間で、頭があって手脚が生えてて、目鼻口がある。 小中学校では机を並べて学んでいたでしょう。 同じ2019年、同じ日本に生きる個人として、不思議に思えました。 お坊さんは、人に向き合い、救おうとし、ハスノハで回答をなさっている。 私は、お坊さんに質問し、救いを求めている。 なぜ、私は自分を救えず、救われることを願う側に疑いなく居座るのでしょう。 私ももっと強くなりたい。 お坊さんと私の違いは何でしょうか? 仏教の教え、智慧をどれほど会得しているかでしょうか?そして日々の心の修練でしょうか?それから、覚悟でしょうか?何なのでしょう…?気になります。企業秘密でしたら無理にとは申しませんが…
はじめまして。 素朴な疑問なのですが、お寺の朝昼晩の三食は誰が作るのでしょうか? どういったものを三食でいただくのかも気になりました。 修行僧の方が当番で担当するのでしょうか?住職がご結婚なされている場合、ご婦人が作るのでしょうか? すみません。気になっていたのでよろしくお願いします。
僕には子供の頃から17年飼っているペットの猫がいます。 僕にとってはペットではなく、親友でありかつ手のかかる子供のような存在です。 ですがいい年なので色々な病気の兆候が出てきています。 食欲があるのに歯周病の歯が痛くてゴハンが食べれない、でも高齢なので麻酔して抜歯することも腎臓の数値が高いのでできない。 辛そうにしているのを見ると僕もとんでもなく辛い気持ちになって、もっとしっかり歯みがきしてあげてたらとか一日中そのことを考え他のことが手に付きません。 そこで僕は仏教に救いを求めたいと思いました。 と同時に修行したお坊さんなら同じ時ほんとに平常心でいられるのかな?って疑問に思ってここに書き込みました。 仏教は事実のみに親しむと聞きました。つまり苦しんでる大切な存在を見て、できることがなかったとき、できることがないのだからそのことに対して不安になることもなく、一日中考え続けることもなく、そのことは置いといて平常心でいつもと変わらぬ日常を送れるのでしょうか? そうなりたい反面、それってちょっと人間味に欠けて悪く言えばサイコパスなようにも見えてしまいます。
hasunohaさんの最終目標はhasunohaがなくなることとTwitterで拝見しましたが、hasunohaのお坊さんはhasunohaがなくなるまで私のお友だちになっていただけますか?
あたたかいお言葉が有り難く、お坊さんのお言葉で、こんにちまで生きています お坊さんに質問していいですか? 私も含め皆様の悩み•苦しみ、本当に生きるとは大変な修行です…でも、お坊さん方のお言葉にはブレがなく適切で、精神科医の言葉より身にしみます。お坊さん方に悩み•苦しみはないのですか?いや、あっても我慢して日々過ごせてるのですか? お坊さんのような、心広くあたたかい人に和みます
いつもお世話になっております。 沢山の教えをいただき感謝しております。 お坊さまに唐突な質問で、大変恐縮なのですが、お坊さまも古事記や日本書紀を読まれたりしますか? また、神仏習合の時代を含め、神道にはどういった感覚(思い)をお持ちなのでしょうか。 神道について勉強すればするほど、お坊さま方の考えを知りたくなりました。 世界中においても多くの人間は宗教を求めています。 それは何故なんだろう?とかも考えてました。 (そこは、もっと自分で勉強すれば良いのでしょうね…。) 差し支えなければ、お時間のある時にでもお教えください_(._.)_ どうぞよろしくお願いいたします。
お坊さんには金持ちの方や貧乏の方様々な方がいらっしゃいますが、お金というものは誰かの借金であり、誠に不浄なものですのでそれを必要以上に持たないという教えはないのでしょうか? お葬式代でぼったくって贅沢をしていらっしゃるお坊さんは本当に悪行を積まれていると思います。
以前、代々ご家族の血縁でお寺をされている長男のお坊さんとお付き合いさせて頂いておりました。 私は、小さい頃からずっと日本の文化が 好きです。行動や意味、全てに想いが詰まっていると思うからです。禅もそうだと思います。宗派や教えは違いますが、修行する意味、教えの意味、そこにある想いは一緒だと思うのです。 彼は継ぐ決心が出来ず、実家のお寺を離れて大学生をしている時に出会いました。彼のお父様にお会いした時、すごく違和感を覚えました。言葉では表しにくいのですが、冷たい…ドライな感覚です。彼もお坊さんになる決心をして、修行に行くまでの期間、その違和感に似たものが私の中でどんどん大きくなっていきました。偏見の言葉や、権力には敵わないなどの発言も多くなっていきました。お父様そっくりでした。 お別れした後、周りの方からは「私達には分からない世界だからそれは仕方ない」「私達には分からない重圧があるのだろう」と。 それが私には納得がいきません。生きていくだけで辛い事、苦しい事が沢山あります。それはお坊さん一般人関係なく平等にあるものだと思います。 お寺の世界とは、一般の世界とは違うものなのですか?今まで自分が信じてきたものが分からなくなる時があります。
最近、中国茶のレッスンに通い始め、お茶に関する本を色々と呼んでいます。 茶の歴史の中で、日本におけるお茶は遣唐使が持ち帰ったお茶から始まっています。 そのような歴史的なことはいくつか本を読んで、何となく分かったのですが、、現代におけるお茶と仏教の関係については文献を調べてもあまり分かりません。 現代を生きるお坊さんの中でお茶はどのような位置づけなのでしょうか。 宗派によって何らかの儀式があるようであれば教えてほしいです。 また、そういうことについて記述している文献があれば知りたいです。 お手すきで結構なので、ご回答よろしくお願いいたします。
挑発的なタイトルで申し訳ありません。もっとマイルドにしたかったのですが、字数の関係でできませんでした。決してお坊さんを馬鹿にしてやろうとか、悪口を言ってやろうとかいう気持ちはありません。むしろ日々尊敬しております。なのでそこの所をご理解いただけたら幸いです。 本題に入ります。 まことに、大変失礼な質問だとは思いましたが、心の中にふと思い浮かんでしまいました。 仏教書を読んでいたら、「仏教の出家者は一切の生産活動を放棄して修行に専念しなければならないので、一般の人たちからお布施をもらわないと食べていけません。」とありました。 その部分を読んだ時に浮かんだことは、「お布施をすることによって、お布施をした人にはなんのリターンがない。これでは乞食に施しをするのと同じでないか?」ということです。 もちろん、お布施をすることによって功徳が積める、物惜しみに打ち勝つことができるというのは分かっているのですが、現代人にそんなことを言ってもそれが何だよ?と鼻で笑われるでしょう。もし私が誰かに「坊主と乞食って何が違うの?笑」と聞かれたら私はなんと答えればいいのでしょうか? ちなみに身近なお坊様(そこそこ名のある立派な人です)にこの質問をしたら「違わないんじゃね?」とのことでした。ハスノハのお坊様方はどうお答えになりますか? 大変罰当たりな質問だと思います。このことで私の身に不幸が起こったら甘んじて受けるつもりです。しかし、後学のためになんとかお答えしていただければ幸いです。