皆さん普段どういう修行していますか?わたしは、ひたすら苦難に耐える事だと思っています。人生が修行ですから。
NHKでみたのですが、永平寺での修行はとても大変そうですね 修行していた方、どうでしたか? 並の人ではとても耐えられないような修行ですがどのような気持ちで修行していたのですか?
以前、托鉢をされている方を見ました。 その人は、お店の入り口の 前で、杖のようなもの?で、音をだしているのを見かけました。 お経も唱えてましたが、怖すぎて逃げました。 しかし相手は、お坊さん・・・。 お坊さんは、お世話になっているので、大好きなのですか、初めて怖いと思いましたが、逃げ出すのは、良くなかったかなと、今更ながら思います。 都会は、怖い
仏教の修行で家でもできるものはありますか?
無我とはどういう意味ですか?
いつもご回答ありがとうございます。 スッタニパータの中の理解できない箇所の一つに 以下の箇所があります。 お坊さんの御教示お願いいたします。 873で「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。」とあります。 次の874で「①ありのままに想う者でもなく、②誤って想う者でもなく、③想いなき者でもなく、④想いを消滅した者でもない。──⑤このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」 註では、①を凡人②を狂人③を滅尽定④を四無色定とありますが、873で修行した者について問うているのに①、②は修行者の範疇ではないようです。また、③が四無色定で④が滅尽定のように思われます。 勝手な考察ではありますが、 ①ありのままに想う者は、 ・概念で構築された言葉と一体となっている形態(個々の対象)をそのままに想う者 ・名称と形態は、妄想の元であると理解に至っていない修行者 ②誤って想う者 ・形態によって迷うのではないと想っている者 ・諸行無常を理解していない者 ③想いなき者 ・形態に対して想いをめぐらさない者。 ・想わないようにしている者 想わないようにしただけでは形態は消滅しない。形態には実体が無く、妄想(=苦)の元凶であると理解していない者。 ④想いを消滅した者 ・形態に対しての想いを想いで消滅させている者 ・想いを想いで取り扱っているかぎり想いはなくならない。 ⑤理解した者の形態は消滅する。 ・消滅させる(人為的)ではなく消滅する(自動的に消滅されている) ・想いなく形態が消滅する者でなくてはならない。 名称と形態が分離されたものと理解しなくてはならないのではないでしょうか。 名称は社会生活のために便宜的に付けられたものでしかありません。 例:お金(お金という名称)の本質は印刷されたただの紙。為替交換のできない国に持ち込んでも交換価値はありません。使用価値としては火をつけるときに使える程度のただの紙でしかない。 「私」というのも「私」という概念に付けられた名前だけであって、想いが続くことによって「私」が存在していると勘違いしているのではないでしょうか。 よろしくお願いいたします。
最近特に感じていることなのですが、私は動き出す前に考えすぎるため、不安などの邪念で身動きがとれなくなることが多々あります。そこでどうすればまず行動に移すことができるのだろうと考えました。そこで考えついたのが、小さな決まり事を作ってひたすら実行するという事です。たとえば、朝起きたら布団をたたみ、窓を開け、顔を洗い、トイレ掃除をするというルーティンを何がなんでも実行するという方法です。これを繰り返し、考える前に動く癖をつけようと考えました。以前どこかで、お坊さんの修行はひたすらルーティンを繰り返すことだと聞いたことがあります。これを参考に朝と夜のルーティンを決めようかと思っているのですが、解釈は間違っているでしょうか?感情を優先せずまずルーティンをこなす。これが修行と言うことなのでしょうか?本気で行動できる自分に変わりたいと思っています。 宜しくお願い致します。
お坊さんにおかれましては、一年で一番お忙しい時に恐縮です。いつも具体的で親身な回答ありがとうございます。アドバイスよろしくお願いいたします。 宇宙は「無」から生じたという物理理論があります。宇宙の一切も遡れば所詮は「無」でしかない。 宇宙の一部である我々も「無」ではないでしょうか。 地球においても、創成期から多様な生物が存在していない。単純な単細胞生物から、多様な生物が進化したようです。地球の生命の源を辿れば、一つに繋がっている。気の遠くなるような年月を経て、生存競争を生き抜いた最強の遺伝子を携えた生命が今ここに生きています。 今の我々が、より恵まれたいとかより充実して生きていたいと個々に願うことは、遺伝的な本能から湧き上がる自然の衝動のように思われます。あらゆる生命の刹那の反応は、あらかじめ生命にインプットされた生存欲による自動的なものであると思われます。 我々人間は、生命として生きるために我に固執する「小さき心」が休むことなく働いていることに気づかされます。 「無」から生じた宇宙の一切は無限に広がり、「本来の心」も無限であり穢れのないものと思われます。我欲に縛られた「小さな心」は自由で無限である「本来の心」の一つの現れであると思われます。 「小さき心」が幻であると気づくか、「本来の心」と一体になれば、今まで対峙していた「対象」と「我」という二元の境は無くなると思います。個ということをあまりに重視した生命の本能から脱し、分離など無いとの気づきが訪れるのではないかと思います。 各宗派によって異なると思いますが、全体と一体になるような具体的な修行を教えてください。
この一年、私の病気のこと、私の労働環境について考えました。 結論は、「私が考えても改善策が見つからない」ということです。社会の1つ改善すると、別のところが負荷がかかり、そこを改善すると新たな分野に負荷がかかる。そして、スタートに戻ってくるのです。だから、解決は難しいと考えています。 では、なぜこのような苦しい状況になったのかと考えてみましたが、「楽したい」という欲や「自分で守るべきところまで人にさせ、いいところだけ自分のものにしたい」という欲が大きくなってきているのかなと思いました。 この点で欲を持ちすぎるといけないのかなと思いました。何か、世も末だなと思います。人に対してどうすることはできませんが、私自身はこれからの生活を見直していこうと思っています。 現在、精神的な問題で仕事を休んでいます。 精神的に不安定になったり、身体面で入院したりしましたが、本を読む時間はたくさんできたので本を読んでいました。 病気を薬に頼らなくても済むように、これまでの原因は根本的に解消したいと思い、症状に関する情報も集め、実践してきました。 私は、「過剰適応の適応障害」と言われました。適応できなかったのではなく、頑張りすぎちゃったようです。でも、これでも、与えられた仕事は、6割ぐらいに抑えていました。このような働き方を改善できないかと考えていました。 でも、私は、暗い気持ちにもなっていません。趣味を作ろうといろいろチャレンジしてきました。そのうちの1つにゴスペルを始めました。私は、英語が苦手なので、歌詞をあまり理解できませんでしたが、この前、レッスンで歌っていて歌詞の意味が理解できました。家に帰ってきて、歌いましたが、いい英語の歌詞だなと思いました。 それで、ふと思ったのです。修行として、日常的にお経をあげると、お経の内容も理解できるようになるのかなと思ったのです。もしかしたら、お経(歌)に向かう姿勢も大切なのかなと思いました。念仏を唱える修行をしているうちに、突然に世の中の道理が分かるようになるという仮説をたてました。これが分かるようになるのは、いつか分かりませんが。 お経をあげていると、内容が分かるようになりますか?
お坊様の修行と言えば滝に打たれて合掌し瞑想しているイメージですが その時は宇宙と心を一つにしているんでしょうか?
仕事と人生(生活)どっちを取るかと言われると私は即答で人生と答えます。(簡単に分けられないのはわかっています。) お坊様たちは修行と人生どちらをとりますか? ふと歴史の本を読むと昔の人は宗教関係なくけっこうガッツリ修行の道を歩んでるように思えます。イエズス会とか三蔵法師とか命がけですね。 時代が変わった現代ではどうなのかと疑問に思いました。
修行僧の人達は何のためにどんな事をしているのですか?いくつか教えてください。
、お坊様に、導かれまして、山岳修行を行いたいのですが、大山、丹沢にグループはないのでしょうか。
山岳修業したいです。 どのようにするのでしょうか。 登山とは違うのでしょうか。
よろしくお願い致します。 私は、友達が少なく遠方にいたり疎遠になっている感じですし、近くの友達は何でも話せる感じでもなく・・・ そんな中、1日のほとんどは休み以外は職場ですごします。その職場のひとたちとうまが合いません。 思考自体がちがいます。私の努力がたりないのですが、どこに行っても合わない人はいるのはわかっています。合う人が1人もいないのは、かなりつらいです。 お店のスタッフは私を含め3人です。 気の合う人と出会えないのは、やはり私のせいなのでしょうか?
念仏以外の修行は雑行だと伺いました。では六波羅蜜は行わないほうがいいのでしょうか?
人生で過去に3人の行者に出家したいと相談しました。3人目の行者は本物の対応を下さいました。 私は生命懸けで真剣に申しており、それに応えて下さいました。 その人は、人生相談から自己の体験談をお話下さり「修行しても、徳がなければ反動が来ること」「自分の場合は、やりたくて修行したわけではない」など・・・ 写経200枚書いて送るように言われ、20枚くらい書いたところで感得するところがあり、それをそのままメールで送ると「そのことに気づいてほしかった」返ってきました。 要諦は「日々の生活が修行だと分からずに修行すると、修行に溺れ、慢心する可能性がある」ということです。 日々の生活が修行だという気付きは得たのですが、この頃どうも無気力です。がんばれません。 重度の社会不適合者です。 幼い頃から身体が弱く、13歳の頃に精神病になりました。親に責められ、大人にフリースクール、カウンセリング、医療機関などのたらい回しに合う中で、世の中への恨みを募らせて育ちました。 閉鎖病棟に数ヶ月入ったこともあります。 ふつうに働こうとするとノイローゼになるのですが、不思議と読経や祝詞をあげると楽になります。宗教的、修行的なことに対しては、ものすごく適応してしまいます。 仏教や神道の教えが大好きです。 今は、とある先達につきながら、勉強させていただいています。(今度お山に登拝させていただきます。) 先達も「生活が第一」と言っています。 お山やお滝に入り、世の中にお返しする為にも、アルバイトで生計を立てていきたいというのが私の本心です。 ですが、社会不適合すぎて、労働が辛くてかなわんのです。 集団から疎外されて育ち、適切なケアも受けられなかったせいもあるのでしょうが、人への恐怖や劣等感も強いです。 どうしたら、もっと精神を自由に、当たり前の毎日に、感謝し、心を強くする修行ができますか? 私は真剣に求道し道を極めたいと思っております。 よろしくお願いいたします。
浄土宗のお坊さんは、 具体的にはどの様な修行を行うのですか? 又、どの様に一日を過ごされるのですか? 教えて頂けたら幸いです。 お願い致します。
初めまして。 ふと疑問に思った事があり質問させていただきました。 宜しくお願いします。 "この世の中での苦行や学ぶことはもうない"とかたまに聞きますが、何をもってそう感じるのでしょうか。(他者がそう判断した場合、自分でそう感じた場合両方教えていただけると有り難いです) 苦行とは修行という事ですよね?人生で起こることは全て修行なんでしょうか。 私はこれまで波乱万丈まではいきませんが、普通ではない事も数多く経験してきました。 幼少時に性的虐待を受けた事や元夫が薬中毒でDVだった事、15才で売春を始め風俗で働くようになったこと等それも全て修行ということになるんでしょうか。 いずれこれまでの過ちや苦も何らかの役に立つのでしょうか。 大変失礼ですが、仏教に興味が湧き得度を考え始めている私は、少し疲れてしまっているんでしょうか。(転職活動がうまくいっていないのでそのせいなのかなと) 長くなりましたが、何方かお答えいただけますと幸いです。 カテゴリーがよくわからず間違えていたらすみません。
私は将来、浄土宗のお坊さんになりたいと思っています。勿論、“修行”する覚悟は有ります。 しかし、浄土宗では、修行はどの位の厳しさなのかは分かりません。禅宗や日蓮宗よりは厳しくないと聞いた事は有るのですが、やはり、仏教は修行有りきなので、浄土宗も厳しいとは思うのですが、どの程度の厳しさなのでしょうか。他宗派の様に、滝行や施餓鬼等もするのでしょうか。 これを御覧になって下さっているお坊様、教えて下さい。どうか、宜しくお願い致します。