スッタニパータ「874形態は消滅する」の内容について
いつもご回答ありがとうございます。
スッタニパータの中の理解できない箇所の一つに
以下の箇所があります。
お坊さんの御教示お願いいたします。
873で「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。」とあります。
次の874で「①ありのままに想う者でもなく、②誤って想う者でもなく、③想いなき者でもなく、④想いを消滅した者でもない。──⑤このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」
註では、①を凡人②を狂人③を滅尽定④を四無色定とありますが、873で修行した者について問うているのに①、②は修行者の範疇ではないようです。また、③が四無色定で④が滅尽定のように思われます。
勝手な考察ではありますが、
①ありのままに想う者は、
・概念で構築された言葉と一体となっている形態(個々の対象)をそのままに想う者
・名称と形態は、妄想の元であると理解に至っていない修行者
②誤って想う者
・形態によって迷うのではないと想っている者
・諸行無常を理解していない者
③想いなき者
・形態に対して想いをめぐらさない者。
・想わないようにしている者
想わないようにしただけでは形態は消滅しない。形態には実体が無く、妄想(=苦)の元凶であると理解していない者。
④想いを消滅した者
・形態に対しての想いを想いで消滅させている者
・想いを想いで取り扱っているかぎり想いはなくならない。
⑤理解した者の形態は消滅する。
・消滅させる(人為的)ではなく消滅する(自動的に消滅されている)
・想いなく形態が消滅する者でなくてはならない。
名称と形態が分離されたものと理解しなくてはならないのではないでしょうか。
名称は社会生活のために便宜的に付けられたものでしかありません。
例:お金(お金という名称)の本質は印刷されたただの紙。為替交換のできない国に持ち込んでも交換価値はありません。使用価値としては火をつけるときに使える程度のただの紙でしかない。
「私」というのも「私」という概念に付けられた名前だけであって、想いが続くことによって「私」が存在していると勘違いしているのではないでしょうか。
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ケーススタディの難しいところ
スッタニパータは吟詠して覚えるための詩です。日本語に訳出されて詩の形式は消滅してますけどね。そのため仏教を理解するためのテキストとしては基本的に言葉足らずです。中村元先生のそれのように直訳の本ならなおさらです。
私はQ&Aを始めて10年以上になりますが、スッタニパータから入った人で道に迷わなかった人を見たことがありません。中村元先生自身が「仏教の真髄を会得できるとは言えないが、そのエッセンスを感じることはできるだろう」という主旨のことをおっしゃっています。それを出版社が「これぞ仏陀の真髄!」と煽って売り捌いたものですのでご注意を。僧侶であれば誰もが親しんでいるわけでもありません。
さて本題ですが872の注をご覧ください。「名称と形態」はウパニシャッドの概念です。つまりこれは仏教の話ではなく、バラモン教徒との問答であり、バラモン教の教えに目線を合わせた対機説法であることに留意せねばなりません。正直を申しまして、この一連の流れをお坊さんが正確に読むことは難しいです。バラモン教の素養がありませんので。
874を私なりに読んだ範囲では「これらのやり方では救われませんよ」→「バラモン教ではなく私に帰依しなさい」と言っているだけで、救いに至る具体的な手段までは言及していないように感じます。「想いと闘っているようではダメです」という方向性には言及されていますが。修行の語も仏道とバラモン教でグレーゾーンであり煙に巻いている感があります。
①世俗の考え方。欲のままに想う考え方。
②物事の因果関係を誤って想う考え方。例えば「生贄を捧げると運命が変わる!」のような。
③いわゆる『植物人間』になろうとすること。
④無念無想になろうとすること。
①②は考えることの否定、③④は考えないことの否定かなと。
ウパニシャッドで形態が何を指すのか分りませんので自信は持てませんが、なぜここで中村先生が四無色定と滅尽定を持ってきたのか分りかねます。ひょっとしたら「救いに至る手段がないと文脈がおかしい」→「四無色定と滅尽定でも当てはめとけ!」とお考えになったのかもしれませんね。でもそもそも「形態の消滅」とは救いなのでしょうか?
ちなみに、では考える努力の否定・考えない努力の否定をしたならどうなるかと言いますと、こうなります↓
https://hasunoha.jp/questions/20174
御指摘ごもっともですね。
読まさせていただきました。
私は仏教学者ではありませんので、あまり専門的なことはわからないのですが、
わかる範囲で答えさせていただきます。
このスッタニパータは岩波文庫でしょうか?
どうもこの注は、ご指摘の通り不適切かと思います。
確かあのスッタニパータは、南伝のパーリ語訳だったはずで、注はそれに対応する
漢訳経典の用語を当てているのかと思います。
出てくる単語からして、「受想行識」というお経の一説が浮かんだのは私だけでしょうか?
五蘊(ごうん)の「色受想行識」について説いた般若心経の一節です。その前に空即是色と
いった色について四つ説かれています。それはともかく、ご指摘のスッタニパータの箇所は、用語的に空論や認識論を説いた個所では、ないかと思います。
①の凡人②の狂人ですが、修行者に用いるのが適当かどうかの検討は別にして、
これは仏教用語なのでしょうか?凡夫や狂者なら見たことがあるような気がしますが、
どうも現代用語臭い。また、③と④が逆というのも、漢訳語意からして、適当な気が
します。
仏教の辞書や本もたまに間違ったことを載せてしまうことがあります。いわゆる校正ミスと
いうものです。昔の論書などにも、懺悔の一文が載っていたりします。間違った仏法を
伝えませんようにと。しかし、一度出版されたものは、よほどの間違いがない限り、回収
されませんし、正誤表が出される程度ですね。改版の際に直す場合もあるので、岩波文庫の
編集部に指摘の手紙を送ってもよろしいかと存じます。
しかし、岩波文庫のあのシリーズから仏教を学ぶのはなかなか難しい中、よく頑張って
おられますね。ただ、今は南伝仏教でもわかりやすい本がいろいろありますが、情報量が
まだ少ないように感じます。
私たち日本のお坊さんにとって、中国から入った漢訳仏典が一番なじみがありますので、
お坊さんに聞くなら、昔からの情報量で言えば、仏典を学ぶなら漢訳仏典で学ぶことを
お勧めしたいと思います。
大慈上人の意見が正鵠を得ていると思いますので、私の文章は読み流してください。
印象論で書いてしまいましたので、どうも間違っているようだと思いましたので。
おはようございます。
お気づきの通り、言葉は不完全なものです。それが書かれた土台や背景がわからないとその精度はさらに落ちます。掻きまわせば掻きまわすほど濁ります。
わからないものを、今の知識で無理に理解しようとせず、わからないなら「なんだこりゃ。わからんなぁ」で良いと思います。いくつか前のご質問であなたがおっしゃった通り、真理は言葉じゃないですから。仏教的生活の実践や、他の書物に触れたあと、再びその一節を読んだとき、何か感じることがあるかもしれません。
難しいですねー。
私の解釈は間違っている可能性大ですが、例えば目の前に丸くて赤いリンゴが1つ置いてあるとします。
1、リンゴがあるなぁ。美味しそうだなぁ。欲しいなぁ。食べたいなぁ。食べちゃおう。
2、スイカがあるぞ。赤いスイカとは珍しいな。
3、(無視、もしくは見えてない)
4、リンゴなんか無い。美味しそうなリンゴなんか無い。ただ物質があるだけだ。
と言う人達はまだ形態が消えることは無いし、欲望が消えることも無い。
これらのどれでも無くただ、
5、赤くて丸くて熟れたリンゴがあるな。
(ここまで、ここから更に欲しいとは思わない)
という人は、形態が消え、欲望も消える。
ということでしょうかねー。難しい。
色界の禅定?
ご質問への回答というより、ふと思ったことですが。
大パリニッバーナ経でブッダが入滅するときに、いったん無色界禅定まで行ってから、また色界禅定にもどり、ただちに入滅されます。
つまり、涅槃は色界禅定から直結していると思われます。
形態(色)の消滅というのがどういう意味かわかりませんが、色が無常であると、色の生滅に気付くためには、色を観察する必要があります。
欲界では三昧に入っていないから集中力が足りない。
しかし、無色界(空無辺処から非想非非想処まで)では、三昧が深すぎて心が色にアクセスしないから、色を観察できない。
ご質問にある経典の一節を見たとき、私は、
悟るため(色の無常を実感するため、形態の消滅を体験するため)には、色界心がちょうどいい、
ということを思い出しました。
質問者からのお礼
鈍阿 先生
ご回答ありがとうございます。
今まで様々な本を読んできましたが、電気、土木、ボイラーなど資格の教本の中にも
間違いが多々ありました。初学者にとっては教本の記述や図がすべてですが、その内容が
間違っていることに気づくには教本以上の経験や知識がなくてはなりません。
2500年以上前の言いまわしや、状況やお釈迦様の体験されたことなど知る由がありません。
何種類かの言語の壁を通過するたびに、様々な間違いが発生したと思われます。
初学者にとってはやっかいなことですが、教えていただける人がいるということは心強い
限りです。
合掌
大悲 先生
いつも丁寧にお答えいただきありがとうございます。
バラモン教の教えまで知らないと解けない問答なのですね。
バラモン教の修行者の誤りをチクリと指摘して、祭祀儀礼を超え
禅定も超えなければ、無達成の達成とはならない。
同じ言語で通じ合える日本人の覚者の伝えた言葉の中のエッセンスを見出す。
自らの体験したことと伝えようとしているエッセンスを照らし合わせていくのが最善の方法だと受け取りました。
いのちが生きていくためには本能的(爬虫類脳)な反応がなければいのちの存続がありません。
痛いのが痛くなくなったらもういのちではありません。起こってしまったことに対して
次から次へ思い巡らし苦しみを作っているのが我々凡夫なのですね。
すでに跡形もなく消え去ったことに対して考えても「覆水盆に返らず」であるにもかかわらず
想いで解決できると一生懸命頑張っている。今苦痛を味わうべきなのに、治りたい治りたい逃れ
たい逃れたい。
今の苦痛から眼を逸らして今の現状を受け止めることができない。
未来に思いを馳せても現実(=真実)は今ここでしか起こっていない。
今欲しいもの得たい、今苦しみから逃げたいと頭は思う。身体は今ここに安坐しているのに、頭は今に存在せずに「妄想」の中で彷徨っている。
あらゆる現象が刹那刹那で生滅している。今ここで身体と頭を一致させ、現実(=真実)を体験し続けていくということでしょうか。
合掌
光禪 先生
ご回答ありがとうございます。
伝えたい言葉の精度がだんだんと落ちていく。言語変換の間違え、翻訳者の語彙力など。
また、当時の社会状況や話した状況などによってかけ離れた訳になっているかもしれない
ということでしょうか。
ほんの数十文字の言葉にたいして「群盲象を評す」ようなことをしているかもしれません。
先生の言われる通り、何かを感じることに励んでまいります。
合掌
三宅 聖章 先生
ご回答ありがとうございます。
おっしゃるとうり形態が消えることはありえません。
形態を区別差別する対象として認識することで、執着や忌避してはいけないとの教えと理解しています。形態をいちいち個別の対象として認識すれば妄想が起こるだけです。頭が形態のことでかき回され、苦しみとなりますが安らぎは得られません。
あらゆるものは、人間が勝手な概念で構築し、その概念に適当な言葉をつけただけだと理解しています。現物を見なくても頭の中で、自分にとってどういう対象であるかを判断しています。
差別・区別されたものとして扱われるのが形態だと思われます。
”花があり 花を「花」と名づけ 名づけられた「花」は名づけられる前の花であった”
宇宙ステーションから地球を見たら、あらゆる形態は識別できません。識別される対象ではなく一体であり平等であり、鏡に映されたものでしかありません。また、蜜蜂の眼で見れば我々など何の興味もないただの邪魔な動く物体です。蜜蜂には、一切のものに境界など存在しない世界であり、ただ蜜を持った花だけの存在が分かればいいだけ。
形態(個別の対象として認識)を消滅するとは、個々の形態を囚われの対象として識別することを止めなさいということだと思われます。
ーー
756 見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、<名称と形態>(個体)に執著している。「これこそ真実である」と考えている。
757 或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは異なったものとなる。何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。
ーー
諸行無常なる形態(個々の対象)は常住不変でなく、虚妄なるものに執着すれば苦しみとなるのではないでしょうか。
今現在、我々は何も所有していませんし所有できません。何時でも手に何かを持っていないので、いつでも好きな時に掴んだり放したりできます。何も所有しないことが自由をもたらしてくれると感謝しています。
合掌
柳原貫道 先生
いつもお答えいただきありがとうございます。
仏典を読む際の注意点ありがとうございます。訪問者の方々の参考になることと思われます。
初学者にとって適切なアドバイスです。
「有り難し」の数を見ると、相当数の方が質疑応答の文面に目を通して賛同されています。
言葉についてですが、さとりも「悟り」や「覚り」の両方が使われています。
本人がどのような意図で使っているのか正確に斟酌するのが容易ではありません。
対機説法ではないので、一般的に通じる語彙を選んでいるのか、専門家に語りかけているのかさえよく分からない事あります。
前後の流れや文面と行間から、筆者の意図をくみ取らなければなりません。どんなに適切な語り口であっても、読者の経験した範疇でしか理解はされません。先生方の苦労をお察しいたします。
話のネタです。「誕生」の「誕」ですが漢和辞典で調べると「言+延」で、「いつわり」「そらごと」、「おおげさなさま」、「でたらめなさま」という意味があります。つまり、我々は物心(自我による自己防衛システム)がついてくることによって、新たな誕生(=自分に都合のいい偽りの世界、でたらめな世界)でこの世で生き抜くことができるように二元対立(=二進法と同じ)の単純な判断プログラムで生きるようになっているようです。
自分で作った世界で自分で勝手に迷っているのですが、見るもの(=自身の認識)と見られるもの(=肉体)だけが真実だと思い込んでしまっています。
肉体と自己同一化しているので、「私」という檻から抜け出せないと思われます。
また、自己証明と自己保存のための自己正当化、他と比較して優位に立ちたいという自己顕示欲があります。
自分(=妄想の世界で生きている)を疑う人などめったにいないので「目覚めていない=眠っている」と言われる所以だと思います。
先生方の目覚めの「言葉」で多くの人が目覚めることを願っております。
今後とも質問いたしますので、おつきあいお願いします。
合掌
願誉浄史 先生
ご回答ありがとうございます。
よいヒントありがとうございます。
無色界からも抜け出さなければならないということと思われます。
合掌