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修行と信仰と座禅や念仏

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有り難し有り難し 40

先日私の具体性に欠ける、奥歯にものが詰まったような愚痴のような質問に応えて下さり、ずっと回答を考察してました。

その時々の私の見たてがどうであれ、自分目線で世界を見ていては、環境にフラつきいつまでたっても頼りにならない自分の世界で苦しむ
ことになりますよと、言われたように思います。

自分を苦しめているのはあらゆる煩悩で「自我」(自己中)だとココhasunohaでも僧侶の方が口酸っぱく何度も言っておられ、私も何度も自我を手放す手立てを見聞きしてます。

しかし無我や手放すと言うと、主体性を放棄しているように思えてならなかったのですが、自分と言うのは条件次第で左右され頼りにならないから例えば「縁起」や「空」、この世界は常に変化し、お互いに影響を与え合う相互関係にある。
みんな繋がってるから、自分もみんなも尊い存在、軽んじちゃダメ!ピラミッドの頂点に人が(自分が)立ってるんじゃなくて網の目の一つで、人知を超えた自然の働きも誰かに想われてることも誰かに想われてることに気づけなくても繋がってる。

と言ったことついて言葉の上では理解しても、自分が騒がしいのは、禅の方(ザックリですみません)が座禅をして余計(自我)なものを手放すと言う事と、歎異抄の中で親鸞聖人が「何が善で何が悪なのかそのどちらも私はまったく知らない…」と言っておられるのは自分から見たら許せない又は自分が裁きたいと言う想いを手放して、「…この世はむなしくいつわりで真実と言えるものは何一つない、ただ念仏だけが真実(確かなもの)である」とおっしゃり、自己のはからいを捨て念仏し阿弥陀様にお任せすると言う事と同じで、だから座禅する、だから念仏すると言うことでしょうか?
だから思考が暴れても身体(振舞い)を整えることができる修行(座禅や念仏)や信仰が必要と言うことでしょうか?

いつも長くてすみません。

2019年1月19日 2:08

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

思考というツールに頼らないようになれば自然にわかります

あなたのすぐれた分析能力でもう一度ご自分の書かれた質問を客観的にご覧になってみてください。あることが分かります。
それは、あなたが今やっていることは仏道修行や仏法、正しい教えを求めているという事ではありますが、もう少し厳密に申し上げますと、思考・分析ペダルをこいでサーチしているのです。
この姿勢というのは実は私も長年気づかなかったのですが、単なる思考活動の一種なのです。
私は曹洞宗の中で悟りを伝える老師を探してきました。
パンクな反骨野郎でしたから、あまりだまされたくない性格でもありましたので、自分流ではありますが、正さ派厳しいつもりです。布教師の世界、師家会という指導者の世界に求めたり、両本山の老師方に求めました。
このような人だという方に師事して、数年。
一生懸命学んでいるつもりでした。
ところが私はその老師の下で学ぶ際に学び方を誤っていたのです。
ある時、私はメモを取ることをやめました。
黙って最前列に座ってジーッと老師の顔を見ていました。
( ..)φメモが要らなくなりました。
面授という言葉がありますように、実物、実仏から学ぶ。
多くの人は同じ人の話を聞いても、本人の勘違いマインドで聞いています。
「私」「自分」越しに聞いているのです。
流行りの映画があって、まだ見ていない内から先立てた偏見や先入観を持つように。
たとえば「おい!お前!」といきなり呼びつけられたとき、多くの人はすぐに「なんだ」「びっくりした」「感じ悪いな」「乱暴だな」と思うでしょう。その時点ですでに「わたし」が聞いているのです。プライドが邪魔したり、自分流の意味を聴いて別物にする。
自己の身心は元々「わたし」「わたくし」「おれが」「自分が」という出しゃばりモグラ、わたくしアプリは起動していないのです。
そこを明らめると「ああ、なるほど確かに。」と氷解するでしょう。
スンゲー、頑張っている、スンゲー一生懸命やっているようでも、その求めの歩みを進める際に用いているツールが「思考・分析」だからわからないという事がある。そこが越えがたきところであり、越えなければいけないトコロなのです。
難しいことはありません。
ここでお伝えしていることを誤解なく受け止めて頂ければ、求め方の姿勢がかわる。
思考分析マインドは結局思考を常に動かしているのであって、仏法ではなく哲学思考なのです。実際は思考とは別物です。

2019年1月19日 8:44
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有り難し
おきもち

丹下覚元(たんげかくげん)
お悩み相談 ❝あなたの悩みという荷物をおろしてみませんか?❞ 「お寺で...

修行とは

まんじゅ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

修行とは、どうして行うのか。

もちろん、無明(根本的な無知、実体視執着)・煩悩を対治するために、更には、悟りの妨げとなっている煩悩障と所知障を断滅させるためには、智慧と福徳という二つの力が必要であり、その力を修養していくためであります。

我を無くせ、手放せ、はからいを捨てろ、・・

そうは言われてもな・・というお気持ち、誠に理解できます。

じゃあ、何も考えないのが良いのか、ただ何も考えず、はからいもせず、自分は無いものだとして、坐禅し、念仏し、もっぱら思考停止しておけば良いのか、と。。

話せばかなり長くなってしまうため、ここでは省きますが、それは明確に間違いです。そんなものは、残念ながら、仏教の修行ではありません。

仏教の修行は、三帰依と共に、慈悲心を伴った菩提心を基礎として、智慧と福徳の二つの力の集積としていくことが求められるものとなります。

例えば、止と観の禅定の実践なども、智慧と福徳の二つの力を修養するのに役立っているのかどうか、一つ一つしっかりと吟味して進めていかなければならないものとなります。

このことにつきましては、ダライ・ラマ法王様のご来日時のご法話にての資料として和訳されました、カマラシーラ大師の「修習次第」中編が下記にございますため、是非、その内容もこれからの参考として頂けましたらと存じます。

https://www.tibethouse.jp/about/buddhism/text/pdfs/gomrim_barpa_201612-2.pdf

また、信仰に関しましては、よくダライ・ラマ法王様もご法話にておっしゃられておられますが、「師の教えを、ただ尊敬だけをもって受け入れるべきではなく、金細工師が、その扱っている金が本物か偽物か、その金を焼いて、切って、磨くことをもって慎重に吟味するように、そのようにして師の教えも受け入れていくべきである」として、しっかりと一つ一つの教えを批判的、合理的、論理的に検証しつつ、得心した上にて、受け入れていくことが肝要となって参ります。

自分の修行が本当に仏教に適ったものとなっているのか、しっかりと吟味し、得心して実践して参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

2019年1月19日 10:35
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有り難し
おきもち

川口 英俊
「僧侶は、悩む人に正しいくすりを調剤できる薬剤師であれ」 http:...

思考が暴れそうになったら、感情的にならずに、論理的に考えたり、視野を広げたり、客観的に考えたり、他の人の意見を聞いたりして、その思考を整理整頓するように努める。
振る舞いが暴れそうになったら、感情的にならずに、拳を握りしめてグッと我慢する。
それが仏道修行。
お念仏をお唱えする者は必ず救われる。
たとえ暴れても暴れなくても、悩んでも悩まなくても、我慢しても我慢できなくても、正しくても間違っていても。
だから安心して自分が正しいと思うことをしたらいいのです。

2019年1月21日 15:01
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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。

仏教の話しを経典やお坊さんから聞いて、凡人でもすぐに理解出来る(思考を巡らし)ことや救われることは多くあります。

私も実生活で随分救われました、小さな範囲ですが娘たちとは凄く仲良しです、妻には軽んじられたままですがなんとも思いません、妻のためにも頑張ってるくらいです。

しかし、凡人がその先に行くには。

丹下覚元 様
>私はメモを取ることをやめました。
>「思考・分析」だからわからないという事がある。
>そこが越えがたきところであり、越えなければいけないトコロなのです。

私のスマホはキリスト教や哲学者の一節や仏教の教えやココでの問答のコピペだらけです、増えるばかりです(^^)、読み返すとメチャクチャ良い事が書いてあります…当然です、イエス様やお釈迦様や僧侶の方や賢人の言葉ですから。
お釈迦様が私の教えは川を渡るいかだのようなものだ、川を渡りきったらいかだを置いて行けばいい。と言っておられますが、AIロボットに経典を全て入れて理屈の川を渡っても大切な一歩はないですね。

スマホを無くしても1からやり直さなくていいように、理屈や形にとらわれず、世間と関わる日常の中で、そのままを感じとってみます。

川口英俊 様
>智慧と福徳という二つの力が必要であり、その力を修養していくためであります。

私は智慧ばかり追っていたみたいですね。(今の私には情報としての知恵ですが)

>「修習次第」中編

8ページまで読んで、ん?あと何ページ、なが!
直接教えて頂いたものですから、勉強します、ありがとうございます。
昔から勉強出来ませんでしたが仏教は別です。

>しっかりと吟味し、得心して実践して参りたいものでございます。

信仰には盲目的にならないように私なりに法四依を脇に置いてます。
本当は宗教は嫌いなんです、母が神道にとても熱心でしたが最後は家族の顔すら分からないほど心を深く病む中で死にました。今でも病院から薬によって意識の飛んだ母の手をとり歩いて家へ帰った時の寂しさは忘れません。
今なら神道も仏教もこちら側の問題だと解ります。

「大切なものは目には見えない」と言いますが、今日明日で解ることは無いでしょうけど、僧侶の方々回答頂きありがとうございます。

三宅 聖章 様
回答ありがとうございます。
一から十まで、まったくその通りですね、凡人の私に合わせた御回答ありがとうございます。

回答を読んで初めて自発的に手を合わせ声に出して南無阿弥陀仏と数回念仏しました、声にだすのと出さないのとでは違いますね。
仏様いますね(^^)。

ありがとうございました。

「仏教における修行」問答一覧

この世は魂の修行場と言いますが

この世は魂の修行場と言いますが、自分の人生の汚点を作りつづけている人生の魂は汚れきっている事に気づきました 五年くらい前からネット上の掲示板などに不平不満をぶちまけたり、煽って来た人に煽ったり。いわゆる荒らしという行為 勿論いつもではありませんがストレスが溜まると息を吐くようにしている気がする 元々悪いんでしょうね悪役として生まれたんですね。   しかも自分は潔癖症なところがあり、ネット上と記憶ににこれらの汚点が残りつづけることが不快でたまりません。 相手に仕返しするために煽る際、汚い言葉を考える脳の思考回路が太くなって来る感じ 恥ずかしい話ですが、小説等創作物の登場人物を無意識に自分の理想にしてる事があり、その理想の登場人物と 自分の汚れきった自分を比べてひどくひどくひどくひどくひどく落ち込みます。 できればこの点をどう思うのかお聞きしたいのですが、ネット上のサービス(知恵袋)を使う際、本名で登録するのですが、 そのサービスを管理している人は自分がどんな事を書き込んでいるか知っているわけですよね? 勢い余って言ったことも残るし例えば仮に自分が有名になったら、あの人こんなこと書き込んでいたのかと しられますよね?自分の中を知られるのが急に怖くなるんですが、死ぬしかないんですかね 高校からネットなんか触れなきゃよかったと後悔していて、そのせいで人格も更に歪みましたし良いことがありません いまさら気づいてもネット上に何かを残すのがいつからか習慣になっているんです。 自分のしてることが全て悪手なんです 某動画サイトのコメント欄にレッテルを貼り言論弾圧してるやつがいたから 正論言ったら人格攻撃して来るしヒートアップして最終的には障害者扱いされてとても気分が悪い。 極論しか言えないのか 最終的に煽り合う事になりこれならその人にに最初から話しかけなきゃよかったと思うのですが。 この際ネット上にろくなやついないんでいい機会だと思い動画サイトのアカウントを 消したのですが、自分のコメントが消えるため向こうからすれば逃げたように見えますよね? ストレスがハンパないのですがどうすりゃいいんでしょう。  特定して個人的に会って潰さないかぎりおさまりそうも無い。

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スッタニパータ「874形態は消滅する」の内容について

いつもご回答ありがとうございます。 スッタニパータの中の理解できない箇所の一つに 以下の箇所があります。 お坊さんの御教示お願いいたします。 873で「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。」とあります。  次の874で「①ありのままに想う者でもなく、②誤って想う者でもなく、③想いなき者でもなく、④想いを消滅した者でもない。──⑤このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」 註では、①を凡人②を狂人③を滅尽定④を四無色定とありますが、873で修行した者について問うているのに①、②は修行者の範疇ではないようです。また、③が四無色定で④が滅尽定のように思われます。 勝手な考察ではありますが、 ①ありのままに想う者は、 ・概念で構築された言葉と一体となっている形態(個々の対象)をそのままに想う者  ・名称と形態は、妄想の元であると理解に至っていない修行者 ②誤って想う者 ・形態によって迷うのではないと想っている者 ・諸行無常を理解していない者 ③想いなき者 ・形態に対して想いをめぐらさない者。 ・想わないようにしている者 想わないようにしただけでは形態は消滅しない。形態には実体が無く、妄想(=苦)の元凶であると理解していない者。 ④想いを消滅した者 ・形態に対しての想いを想いで消滅させている者 ・想いを想いで取り扱っているかぎり想いはなくならない。 ⑤理解した者の形態は消滅する。 ・消滅させる(人為的)ではなく消滅する(自動的に消滅されている) ・想いなく形態が消滅する者でなくてはならない。 名称と形態が分離されたものと理解しなくてはならないのではないでしょうか。 名称は社会生活のために便宜的に付けられたものでしかありません。 例:お金(お金という名称)の本質は印刷されたただの紙。為替交換のできない国に持ち込んでも交換価値はありません。使用価値としては火をつけるときに使える程度のただの紙でしかない。 「私」というのも「私」という概念に付けられた名前だけであって、想いが続くことによって「私」が存在していると勘違いしているのではないでしょうか。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 50
回答数回答 6

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