修行と信仰と座禅や念仏
先日私の具体性に欠ける、奥歯にものが詰まったような愚痴のような質問に応えて下さり、ずっと回答を考察してました。
その時々の私の見たてがどうであれ、自分目線で世界を見ていては、環境にフラつきいつまでたっても頼りにならない自分の世界で苦しむ
ことになりますよと、言われたように思います。
自分を苦しめているのはあらゆる煩悩で「自我」(自己中)だとココhasunohaでも僧侶の方が口酸っぱく何度も言っておられ、私も何度も自我を手放す手立てを見聞きしてます。
しかし無我や手放すと言うと、主体性を放棄しているように思えてならなかったのですが、自分と言うのは条件次第で左右され頼りにならないから例えば「縁起」や「空」、この世界は常に変化し、お互いに影響を与え合う相互関係にある。
みんな繋がってるから、自分もみんなも尊い存在、軽んじちゃダメ!ピラミッドの頂点に人が(自分が)立ってるんじゃなくて網の目の一つで、人知を超えた自然の働きも誰かに想われてることも誰かに想われてることに気づけなくても繋がってる。
と言ったことついて言葉の上では理解しても、自分が騒がしいのは、禅の方(ザックリですみません)が座禅をして余計(自我)なものを手放すと言う事と、歎異抄の中で親鸞聖人が「何が善で何が悪なのかそのどちらも私はまったく知らない…」と言っておられるのは自分から見たら許せない又は自分が裁きたいと言う想いを手放して、「…この世はむなしくいつわりで真実と言えるものは何一つない、ただ念仏だけが真実(確かなもの)である」とおっしゃり、自己のはからいを捨て念仏し阿弥陀様にお任せすると言う事と同じで、だから座禅する、だから念仏すると言うことでしょうか?
だから思考が暴れても身体(振舞い)を整えることができる修行(座禅や念仏)や信仰が必要と言うことでしょうか?
いつも長くてすみません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
思考というツールに頼らないようになれば自然にわかります
あなたのすぐれた分析能力でもう一度ご自分の書かれた質問を客観的にご覧になってみてください。あることが分かります。
それは、あなたが今やっていることは仏道修行や仏法、正しい教えを求めているという事ではありますが、もう少し厳密に申し上げますと、思考・分析ペダルをこいでサーチしているのです。
この姿勢というのは実は私も長年気づかなかったのですが、単なる思考活動の一種なのです。
私は曹洞宗の中で悟りを伝える老師を探してきました。
パンクな反骨野郎でしたから、あまりだまされたくない性格でもありましたので、自分流ではありますが、正さ派厳しいつもりです。布教師の世界、師家会という指導者の世界に求めたり、両本山の老師方に求めました。
このような人だという方に師事して、数年。
一生懸命学んでいるつもりでした。
ところが私はその老師の下で学ぶ際に学び方を誤っていたのです。
ある時、私はメモを取ることをやめました。
黙って最前列に座ってジーッと老師の顔を見ていました。
( ..)φメモが要らなくなりました。
面授という言葉がありますように、実物、実仏から学ぶ。
多くの人は同じ人の話を聞いても、本人の勘違いマインドで聞いています。
「私」「自分」越しに聞いているのです。
流行りの映画があって、まだ見ていない内から先立てた偏見や先入観を持つように。
たとえば「おい!お前!」といきなり呼びつけられたとき、多くの人はすぐに「なんだ」「びっくりした」「感じ悪いな」「乱暴だな」と思うでしょう。その時点ですでに「わたし」が聞いているのです。プライドが邪魔したり、自分流の意味を聴いて別物にする。
自己の身心は元々「わたし」「わたくし」「おれが」「自分が」という出しゃばりモグラ、わたくしアプリは起動していないのです。
そこを明らめると「ああ、なるほど確かに。」と氷解するでしょう。
スンゲー、頑張っている、スンゲー一生懸命やっているようでも、その求めの歩みを進める際に用いているツールが「思考・分析」だからわからないという事がある。そこが越えがたきところであり、越えなければいけないトコロなのです。
難しいことはありません。
ここでお伝えしていることを誤解なく受け止めて頂ければ、求め方の姿勢がかわる。
思考分析マインドは結局思考を常に動かしているのであって、仏法ではなく哲学思考なのです。実際は思考とは別物です。
修行とは
まんじゅ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
修行とは、どうして行うのか。
もちろん、無明(根本的な無知、実体視執着)・煩悩を対治するために、更には、悟りの妨げとなっている煩悩障と所知障を断滅させるためには、智慧と福徳という二つの力が必要であり、その力を修養していくためであります。
我を無くせ、手放せ、はからいを捨てろ、・・
そうは言われてもな・・というお気持ち、誠に理解できます。
じゃあ、何も考えないのが良いのか、ただ何も考えず、はからいもせず、自分は無いものだとして、坐禅し、念仏し、もっぱら思考停止しておけば良いのか、と。。
話せばかなり長くなってしまうため、ここでは省きますが、それは明確に間違いです。そんなものは、残念ながら、仏教の修行ではありません。
仏教の修行は、三帰依と共に、慈悲心を伴った菩提心を基礎として、智慧と福徳の二つの力の集積としていくことが求められるものとなります。
例えば、止と観の禅定の実践なども、智慧と福徳の二つの力を修養するのに役立っているのかどうか、一つ一つしっかりと吟味して進めていかなければならないものとなります。
このことにつきましては、ダライ・ラマ法王様のご来日時のご法話にての資料として和訳されました、カマラシーラ大師の「修習次第」中編が下記にございますため、是非、その内容もこれからの参考として頂けましたらと存じます。
https://www.tibethouse.jp/about/buddhism/text/pdfs/gomrim_barpa_201612-2.pdf
また、信仰に関しましては、よくダライ・ラマ法王様もご法話にておっしゃられておられますが、「師の教えを、ただ尊敬だけをもって受け入れるべきではなく、金細工師が、その扱っている金が本物か偽物か、その金を焼いて、切って、磨くことをもって慎重に吟味するように、そのようにして師の教えも受け入れていくべきである」として、しっかりと一つ一つの教えを批判的、合理的、論理的に検証しつつ、得心した上にて、受け入れていくことが肝要となって参ります。
自分の修行が本当に仏教に適ったものとなっているのか、しっかりと吟味し、得心して実践して参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
思考が暴れそうになったら、感情的にならずに、論理的に考えたり、視野を広げたり、客観的に考えたり、他の人の意見を聞いたりして、その思考を整理整頓するように努める。
振る舞いが暴れそうになったら、感情的にならずに、拳を握りしめてグッと我慢する。
それが仏道修行。
お念仏をお唱えする者は必ず救われる。
たとえ暴れても暴れなくても、悩んでも悩まなくても、我慢しても我慢できなくても、正しくても間違っていても。
だから安心して自分が正しいと思うことをしたらいいのです。
質問者からのお礼
回答ありがとうございます。
仏教の話しを経典やお坊さんから聞いて、凡人でもすぐに理解出来る(思考を巡らし)ことや救われることは多くあります。
私も実生活で随分救われました、小さな範囲ですが娘たちとは凄く仲良しです、妻には軽んじられたままですがなんとも思いません、妻のためにも頑張ってるくらいです。
しかし、凡人がその先に行くには。
丹下覚元 様
>私はメモを取ることをやめました。
>「思考・分析」だからわからないという事がある。
>そこが越えがたきところであり、越えなければいけないトコロなのです。
私のスマホはキリスト教や哲学者の一節や仏教の教えやココでの問答のコピペだらけです、増えるばかりです(^^)、読み返すとメチャクチャ良い事が書いてあります…当然です、イエス様やお釈迦様や僧侶の方や賢人の言葉ですから。
お釈迦様が私の教えは川を渡るいかだのようなものだ、川を渡りきったらいかだを置いて行けばいい。と言っておられますが、AIロボットに経典を全て入れて理屈の川を渡っても大切な一歩はないですね。
スマホを無くしても1からやり直さなくていいように、理屈や形にとらわれず、世間と関わる日常の中で、そのままを感じとってみます。
川口英俊 様
>智慧と福徳という二つの力が必要であり、その力を修養していくためであります。
私は智慧ばかり追っていたみたいですね。(今の私には情報としての知恵ですが)
>「修習次第」中編
8ページまで読んで、ん?あと何ページ、なが!
直接教えて頂いたものですから、勉強します、ありがとうございます。
昔から勉強出来ませんでしたが仏教は別です。
>しっかりと吟味し、得心して実践して参りたいものでございます。
信仰には盲目的にならないように私なりに法四依を脇に置いてます。
本当は宗教は嫌いなんです、母が神道にとても熱心でしたが最後は家族の顔すら分からないほど心を深く病む中で死にました。今でも病院から薬によって意識の飛んだ母の手をとり歩いて家へ帰った時の寂しさは忘れません。
今なら神道も仏教もこちら側の問題だと解ります。
「大切なものは目には見えない」と言いますが、今日明日で解ることは無いでしょうけど、僧侶の方々回答頂きありがとうございます。
三宅 聖章 様
回答ありがとうございます。
一から十まで、まったくその通りですね、凡人の私に合わせた御回答ありがとうございます。
回答を読んで初めて自発的に手を合わせ声に出して南無阿弥陀仏と数回念仏しました、声にだすのと出さないのとでは違いますね。
仏様いますね(^^)。
ありがとうございました。