将来のため、修行に行った彼氏に手紙を送りたいのですが、大丈夫なのでしょうか? 封筒の色や住所の書き方などで注意する事があれば教えていただきたいです! そして4と9の付く日の過ごし方も教えていただきたいです! 初めてのことばかりで不安です。 けど彼氏が頑張っているので私も目標を立て、立派になって帰ってくるのを待とうと思います!
いつもお世話になっております。診察で先生に会うたび、 「落ち着いていて、いいね」 「よくなってきているね」 などと言っていただけます。 私はまず、訓練所に戻って、心身ともに安定して通所することが 目標です。私の場合、急性期者の多いデイケア施設等に通所させて しまうと、そういった人たちに強い嫌悪感を抱いているので逆に 危険ということで、先生からOKが出るまで、関係支援者との面談で 土台を固めてから、回復期(寛解間近)の連中の多い訓練所に… という流れです。 しかし、回復期・寛解期といえど、連中も特性を抱えています。 例えば… ・世の中は自分中心に回るべきと思っていて、納得がいかないと 針小棒大に芝居を打つ、時に暴力も使う泣き売・強盗 ・マナーを守らない、努力しない、欲求に忠実なサル など… 私は、どこへ行っても、そういった連中が寄ってきてしまい ます。お寺に行っても。数年前もこちらで、「変な人が寄ってきて 困る」と相談したら、「類は友を呼ぶということですよ」と言われて しまいました。傷付きました。入院中も、 「おるるぇ、ぬぁっとくいかぬぁくとぅえ、クォォォ↑ギした んだよねェ」 (訳:俺、納得いかなくて、抗議したんだよね) が口癖の雄ザルが、「気が合う」と言って寄ってきてしまいました。 修行が足りないせいですね… 追い払いの方法を、いくつか考えました。 ・「決まり事っていうのは、それなりの理由があるから存在する わけでぇ~」 「努力は気持ちいいですよぉ!!」 などと、連中の理念とは正反対の論説を展開してみる ・何を言われても、無言で笑顔で会釈するだけ ・始終イヤホンを装着し、読書(勉強の本) →これに関しては、支援者さんに、 「周りの人の話題に引っ張られて具合が悪くなってしまうので…」 と「Iメッセージ」で事情を伝える。「馬鹿が移るんで」なんて、 口が裂けても言わない。通えなくなる。 サルが寄ってこないように、同類だと思われないようにするには どうすればいいでしょうか。とりあえず、攻撃的な事をしない、連中 とは正反対のことをすればいいと思っています。 ご高見、賜りたく存じます。よろしくお願いいたします。
昨年、全く前触れや自覚症状がなく緊急入退院を繰り返し、手術を受け退院後は今後の生活や仕事について不安の連続によりインターネットを通じて楽になること等を調べていました。 振り返ると冷静じゃなかったように思います。 少しずつ日雇いのアルバイトを体調に合わせながら入れ、気持ちが安定方向になり社会復帰をしたものの完全ではなかったのか体調を崩すこともあり退職。 その後、完治をして今後の不安がないと言うと嘘になります。 自分では人生の底まで落ち、少しずつ這い上がるだけですが楽しむ気持ちに転換が始まっています。 今だけでなく、明日以降のことは誰にも分からなく人生に次々起こることを最終的には自分で乗り越えるしかありませんよね。 昨年のこと、辛いことでしたが今では笑って言えます。 達磨さんが転ぶことがあっても、起き上がることが出来るように、時間かかっても起き上がることが出来るように感じています。 人生の修行なのでしょうか。
仏教の示す所は「事実がある。あとは妄想」という事で合ってますか。そしてその事実に嘘をつかない生き方を「修行」と言っているのでしょうか。 言葉の示しているものへの誤解釈があればご指摘をお願いします。
今まで調べましたが。ちょっとピント来ないです。 私が今行っている。親の面倒を看る(父は認知症 母は肉体的に弱っています) 字の練習 瞑想 坐禅 などこれらは善行または徳を積むになるのでしょうか? またこれからやろうかと思っている。写径 念仏を唱える。仏教の勉強などは善行または徳を積むになるのでしょうか?私は今までの悪行を清算して来世はお坊さんになりたいと思っています。どの様な行為が善行なのか教えて下さい。宜しくお願い申し上げます。
去年の夏、地元のお寺に観光に行ってきました。 そこで修行僧の方からお話を聴いたのですが、「私はまだ入ったばかりなのですが10年も修行をしている方もおられますし 結婚して継ぐためにお坊さんになられる方もいます。」と(あやふやですが)おっしゃっていました。 それから、お寺を継ぐと決めていて そのために仏教の大学に進学した先輩がいます。 お坊さんになるには最低何年修行を積まないといけないのですか?その大学で学べば誰でもお坊さんになれるのでしょうか 最後に、下品な話かもしれないですが 修行僧がたくさんいるお寺でお金の面はどうしているのでしょうか 私の行ったところは観光でも有名なので拝観料をまわしていたりするのでしょうか 特に 僧になりたい!とは思っていないのですが、なんとなく疑問で考えてしまいます。お答えしていただけると嬉しいです。
私の彼氏が先月から總持寺に修行に行っています。彼氏が修行に行ってからいろいろと疑問点が出てきたのですが、100日過ぎるまでは彼氏と何も連絡を取ることができないので、ここで質問させて頂ければと思います。 まず、具体的に雲水さんは毎日どのような生活をしているのでしょうか?1日の中で、朝課と晩課、食事とお風呂以外なにをしているのか分からないので、總持寺に修行に行った方以外でも修行していた時どのようなことをしていたのか教えて頂きたいです。 また、週に一度くらいのペースで参拝をし晩課を見させて頂いていて、たまに誰も他に見てる人がいないときがあり少し気まずい時があるのですが、朝課や晩課はあまり頻繁に見に行かない方がいいのでしょうか?朝課や晩課をしているお坊さん方はあまり見られると嫌な気持ちとかにならないですか?頻繁に見に行くのが迷惑じゃないか心配です。 シンプルな疑問なんですけど、修行に行くと煩悩がなくなって性格とか変わってしまうのでしょうか?私の彼氏は修行期間が1年半で、やはり毎日の厳しい修行を乗り越えて帰ってきた時はひとまわり成長しているんだろうなと思うのですが、あまりにも煩悩がなくなって性格が変わりすぎていたらどうしようと思ってしまいます。 また、彼氏が修行に行ってから私も坐禅してみようと思って毎日寝る前坐禅してみているのですが、どうしても雑念ばっかりで頭を空っぽにすることが難しくてできません。コツとかあれば教えて頂きたいです。 どなたかご回答頂けたらとても嬉しいです。 よろしくお願いいたします。
分別(ふんべつ)やその分別から生ずる苦しみも悟りの現われであり、禅宗における“仏性”の一様であるのでしょうか? また、もしその通りであるのだとしたら、それを疑いなく自覚するためにお坊さんである皆さまは、日々どのような修行を行ってらっしゃるのでしょうか?
本件急ぎませんので、お手すきの折にご確認頂けますと幸いです。 何卒よろしくお願い致します。 ■質問 ①得度前と比べて、八正道の実践が上達している実感はあるか ②八正道の実践における、具体的な行動例とは(心がけ以外) ③八正道を実践する上での「難しさ」と、その対処方法は何か ■仮説(想像です…) ①得度前と比べて、八正道の実践が上達している実感はあるか ・ご実感は「ある」のではないか ・筋トレと同じで、徐々に筋肉つき、サボると落ちるイメージか? ②八正道の実践における、具体的な行動例とは(心がけ以外) 【正見】仏教を勉強する、見分を広め固定観念に気付く、瞑想する等 【正思惟】モノや人間関係や思い込みの断捨離をする、慈悲の瞑想する、感謝日記かく、怒りは深呼吸する等 【正語】うそ、悪口、おべっか、無駄話NG。言葉は大切にする等 【正業】殺さない、盗まない、不倫・浮気しない、人に迷惑かけない、菜食試してみる等 【正命】仕事がんばる、規則正しい生活する等 【正精進】煩悩を誘発するものと距離を置く(スマホ、酒、繁華街etc.)、良い習慣は継続する(笑顔、気持ちいい挨拶、募金etc.)等 【正念】瞑想する(観察型)等 【正定】瞑想する(集中型)等 ③八正道を実践する上での「難しさ」と、その対処方法は何か ・「正しさとは」で迷う⇒経典を参照したり、師匠に相談する 等? ■質問の背景 ・四法印や四諦の理解が少しずつ進み、八正道に興味が出てきた ・しかし具体的に何をすれば良いか、すこし分かり辛い印象がある ・なので、稚拙ですが、いったん具体的な行動例を書き出してみたもの ・その他具体例があれば、是非アドバイス頂きたい(無数にある?) ・実践面での工夫や困難等、お坊様のご助言をぜひ頂きたいと思った ・また、そもそも上達(?)する性質のものか、気になっている 以上です。 いつもご回答頂き、有難うございます。 師走のお忙しいところ、重ねての質問で大変恐縮ですが、お手すきの折に、どうぞよろしくお願い致します。
人は反省をして利他に生きる姿勢を築くのが人生だと考えています。 ですが、そのためには沢山の無駄ともいえる遠回りをして、一切皆苦の経験を必要とするのだと思えています。 沢山の無駄ともいえる遠回り。 こういう無駄を無くして、利他に生きる姿勢に、この世があって欲しいと願っています。 何故なら、最初から 人は、そういう道を求めていると考えるからです。 指針を失い迷い惑い、嘆き悲しみ、また道を探す。 それを是としなさいと、仏教では教えられるのでしょうか? 遠回りをしてきた私は、そういうものを無くしたくて仕方がありません。 悲しくて仕方ありません。 だからといって能力に優れてることもありません。 でも虐められて悲しみ苦しむ人の気持ちが痛いほど伝わります。 無視したくありません。 なのに前進することもままならず、健康や生活が損なわれ傷つきっぱなしです。 悲しくて仕方がないのです。 どうすれば良いのでしょうか?
私の実家はお寺です。 民間企業で働いていたのですが家族や檀家の方々のことを考え、急遽地方僧堂へ修行に行きます。 実家は継がなくて良いから好きに生きなさいと言われ、自分のことしか考えずに生きてきました。お寺の息子でありながらお寺のこと、仏教に関しての知識はまったくありません。 こんな私でも檀家の方々を導けるのでしょうか? 最後に上山前に最低限覚えること、心構えなどを教えていただけると幸いです。
人生そのまま、そのものが、修行だと思っています。出家の道を辞め、還俗してもやはり、生きることは修行だと思います。 現在私は自営業ですが、金儲け主義の商売はしません。世の為の事業をしています。顧客の立場に立った仕事をしています。
こんにちは 私は現在海外の大学にて哲学を学んでいますが、その興味の分野はもっぱら西田幾多郎や鈴木大拙などの俗にいう「東洋思想」にあります。そこで私は大学の夏休みを利用して、臨済宗のお寺に数ヶ月間参禅したいと考えているのですが、そういった短期の修行は可能なのでしょうか?また、もし可能であれば鈴木大拙の思想を深く学べるところを紹介していただけると幸いです。 上記の質問だけだとただ思想に魅了されただけの青二才という印象が否めないので、もう少しだけ「禅」を志す理由を明記させていただきたく思います。 私は幼少期の頃から嗜んでいた少林寺拳法と、中高で出会った先生方の影響により教育者になることを志しています。しかし現代教育におけるあまりにも多くの問題はロゴス的思考力ばかりを求め、心のあり方や感覚などのレンマ的なものを忘れ去ってしまっているように思われます。学問とは本来「学ぶことの楽しさ」を追求すべきなのに成績や偏差値と言った数字だけで縛りつけ、「合理的」という一点のみを求めてただの点取りゲームのようになってしまっている現状は、「歪んでいる」としか形容ができないものです。 「禅」の教えが、それは古くから日本文化が、そして日本人が慣れ親しんできた教えですが、そうした教えが「歪み」を直し、子供たちに「学ぶ」ことの楽しさや「健全な心」の育み方を教える大きなヒントになるではないかと西田幾多郎や鈴木大拙の著書を読んで感じ、より彼らの思想への理解を深めるために、修行をしたいと思い立ち、現在に至ります。 教育者を志しているので出家をし本格的に臨済宗の僧侶になることはいささか迷いがあるのは事実ですが、それでも自らの思想を育み、未来の少女少年たちに「禅」の教えを、そして「学び」の楽しさを教えることができる人間になれたらと思います、長々と失礼しましたが、何卒ご意見やご紹介のほどをよろしくお願いします。
調べても答えに辿り着けなかったので、こちらで質問をさせて戴きます。 よろしくお願いします。 私には、お付き合いをして2ヶ月程経つ彼がいます。 突然に2週間前から連絡が来なくなりました。連絡しても未読のまま。 捨てられたのかな?と思ったけれど、そう言う事をする人じゃないとまだ彼を信じて待つことにしました。 まだ彼のことをたくさん知っているわけではないですが、 今まで彼が話してくれたことや実家がお寺で跡継ぎであることから、もしかしたら修行に出ているのかもという仮説を立てました。 出身大学から宗派などを特定すると、丁度この時期に加行?を3週間ほど行うようでした。 もうあと1週間でこの修行期間は終わるようですがモヤモヤして仕方ありません。 仮にこの修行に参加しているとして、修行に参加することさえも他人に、恋人にも伝えてはいけないものなのでしょうか? 全てが仮説で、できればそうであって欲しいというものですし、 誰の役にも立たない質問ですが、 ご回答頂ければ幸いです。 よろしくお願いします。
お坊様方は毎日修行に励んでおられると思います。 そして日々成長もされておられると思います。 修行を通して得た学びや、成長したと体感できた ことを教えて頂けないでしょうか
先日、千日回峰行を2回も行われた酒井雄哉さんの「一日一生」という本を読みました。とても読みやすく、酒井さんがこれまでの人生や行を通して学ばれた人生におけるものの考え方や、日常の小さな幸せに気づかせてくださる本でした。 ところで、千日回峰行のようなきつい修行は止めるなら死ぬ、というルールがあるみたいですね。このような感情を持ってはいけないのかもしれませんが、なんだか馬鹿馬鹿しい、と思ってしまいました。 『毎日毎日仏様にお祈りし、行をすることで、いったい世の中の何の役に立つのか?』と疑問に思いました。 千日間毎日山の中をぐるぐる回ってお祈りしても、今あらゆることで困っている人々が助かるわけじゃないですよね? お坊さん方に失礼なことを言っているのは分かっています。ただ純粋に疑問に思ったので質問してみました。
ご質問させて頂きますハルソラと申します。 私は禅の思想に感銘を受け、座禅修行を念頭に日々の生活を送っております。 多数の書物やお話から理屈では「なるほど悟りとはこのようなものか」と理解しつつも、お坊さまはご存知の通り、頭の理解でどうにかなるものではなく悪戦苦闘の日々です。 そこで私はふと思いました。なぜ人間はこんなに修行しなければ悟れないのか?…と。 昔、文鳥を飼っていた事がありますが、文鳥は悟っていると思いました。 すべての行動が「作為なく自然体で、ありのまま」なのです。 例えば、指で突っつくと怒るのですが、次の瞬間に手のひらを差し出すと、怒っていた事はすっかり忘れて手のひらに乗って機嫌良くしているし、 晩年は羽の力も衰えて全く飛べなくなりましたが、そんな事を気にしたり落ち込んだりする様子もなく、シャカシャカと素早く走りいつも通りのご機嫌なのです。 動物植物などはそのように「ありのまま」生きている(…と思う私の推測ですが)のに何故に人間は長い間たくさんの修行をしてやっと悟れるか、あるいはそれでも悟れない、という言わば面倒な存在なのでしょうか? お坊さま方もお忙しい中まことに恐縮ですが、ご教授よろしくお願い致します。
道元禅師様について書かれた本を読んでいました。 そこに「本来本法性 天然自性身」と教典にあるのに、なぜ修行をしなければならないのか、と道元禅師様は当初疑問に思っていたとありました。 その疑問から、如浄禅師の「坐禅はすべからく身心脱落なるべし」という言葉で解き放たれた。とありました。 そこで... ①なぜ修行をするのでしょうか ②修行とはなんでしょうか ③修行の目的はなんでしょうか ④なぜ道元禅師は如浄禅師のその言葉で、この疑問から解放されたのでしょうか。 曹洞宗の和尚様はもちろん、いろんな宗派の、いろんな方のご意見を聞いてみたいです。 私は強がっていますが、精神的に弱く、心が不安定になりやすいです。 いろんな方に支えられ、助けられて生きていると実感しています。 常に100%の心ではなくて、上下することの少ない、安定した心を持てるようになりたいです。
昨年夏、インドで2週間程度仏教修業(retreat)をさせていただきました。 非常に勉強になったためまた参加したいと思ったのですが、内容が英語のため理解できなかったところがところどころあったのと、海外だと旅費がかなりかかったり結構大変だったため、日本でこういったこと(一泊二泊ではなく、数日以上学べるところ)ができるところを探しています。 当方大学生(西洋哲学を専攻)のため、長期休みを利用してできるところがあれば、と思っています(大体8-9月、2-3月)。 ヨガではなく、教義や儀式などを学べるところだとありがたいです。 ぜひご教授ください。
皆様が深いお悩みをお抱えの中、私がこんな質問をするのは場違いかと思ったのですが、どうしても気になったので、教えていただきたく思います。 お坊さんのことについて、いくつか質問があります。 ・一般人からお坊さんになるには約何年くらいの日数が必要なのでしょうか ・修行僧のうちはスマホを所持できないというのは本当ですか ・修行僧はお坊さんよりも朝早く起きてお経を読んだりすると伺ったのですが、寝る時間などは規則で決まっているのでしょうか。