hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

死と生きること

回答数回答 4
有り難し有り難し 43

小学生2年生の娘が
死ぬことに対して恐怖を抱いているようです。また、生きてるのかということについても考えて、不安になっている様子です。

思い返すとここ数年で
ペット(熱帯魚)が死んでしまったり、娘にとっての曽祖母が亡くなったり、死について考える事は何回かあったのですが、曽祖母は娘自身は会ったこともほとんどない近しい関係ではなかったので、それほどショックを受けるような感じではなかったです。

それでも、人が亡くなったらお葬式をして、お骨になるという事は少しショッキングだったのかもしれません。

私はいつ死ぬの?
死んだらどうなるの?
私は本当に生きてるの?

「まだ死なないから大丈夫だよ。
あなたが死ぬのは、ひいおばあちゃんぐらいの年齢になってからだと思うよ。」
「たくさんいい事をすると天国に行けるみたいだよ。」
などとも話してみたりもしましたが、なかなか不安は解消されないみたいです。

明日死んじゃうかもしれないと泣き始めることもあります。

生きてることについては
うまく説明もできず
「自分が生きてるのかを今考えられてるってことはあなたが生きてるってことなんだよ。」と
「我思う故に我あり」のような事を伝えてみたりしても、小学生には、まだ上手く伝わりません。

死への恐怖
死後の話
生きてること

どのように話してあげればいいでしょうか?

2022年5月19日 16:03

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

決していい加減なことで濁さないでください

娘さんの悩みはとても大事なことです。

いいことをしたら天国へ行けるらしいとか、死ぬのはひいおばあちゃんの歳くらいになってから、、、などと曖昧な答えをしては、せっかく芽生えた生死の疑問が大変もったいないと思います。

わからないことは、正直に『わからない』と伝えてあげてください。

寿命も人間には全くわからないはずです。

若くても、事故や病気で亡くなっていく人は多く、報道もされているのだから、いい加減なことを答えても娘さんはすぐに見抜くと思います。そして親に嘘を言われたと感じるはずです。
 
何故生きているのか、何故死ぬのか、死とは、、、
それは貴方の人生への質問でもあるはずです。

娘さんの疑問としっかり向き合って差し上げてください。

宗教やいろいろな本で言われていることも、『そう言われている』と伝え断定的には伝えない方が良いと思います。

今、生きているからこそ出来る事ばかりなんだということをお伝えになり、これからは、生と死を一緒に考えていこうねと、お伝えになるのが良いように思われます。
そして、娘さんの言葉に真摯に耳を傾けて差し上げてください。

最初は死が怖くてたまらないと恐怖を覚えるかもしれませんが、誰しもが必ず亡くなるのだと伝えるのが良いと思います。

その質問を持って、親子でお寺巡りをしてお坊さんに聞いて回っても良いのではないかと思います。
ただ、話しを鵜呑みにするのではなく、それを一つの候補として話しを味わって腑に落ちるかどうかを吟味してみてください。

私は実感している生死観はありますが、それも今の状況で娘さんにとっては一つの例にすぎず押しつけるのも良くないように思います。

実際に多くの話しを聞いて、ご自分でどう感じとるのか、生活の中で娘さんと考えてみてください。

物凄く稀有な娘さんです。
普通の子はあまり興味を示しませんし、ゲームのようにしか受け取れない子供も多いと思いす。

どうか、その疑問を大事にして育てて差し上げてください。

合掌

追記、私のYouTubeチャンネルで近々生きることや死ぬことに関してのお話しを既に録画してあり動画に編集段階です。そのうちに順次アップさるますので機会がありましたら参考例の一つとしてご覧頂けましたら幸いです。

2022年5月20日 9:33
{{count}}
有り難し
おきもち

仏道に入門して39年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さん...
このお坊さんを応援する

死も家庭内教育です。

お母さんとして、自分の気持ちを正直にお話してあげればいいでしょう。
お母さんも死ぬのが怖いし、死にたくは無いヨ、と。
本当に教えるということは上下も年齢の差も無くすことであろうかと思います。
同じ人間なのですから。
そして、みんな死を迎えるのですからこそ。
どうすれば死ぬのが怖くなくなるか、あるいは怖くとも怖いということを考えている間にも減る命。
延命を祈る間も減っていく命です。
お母さんもいつかは死ぬのだけれども、普段どうしていることで平気でいられるのか?…をそのまま淡々と説いてあげればよいでしょう。
❝死と太陽は見つめてはならぬ❞
むずかしい話や宗教的な話よりも、お母さんがお母さんとして、子供に対して立場や年齢も無くして同じ死にゆく立場として変に親ぶることも無く、同じ立場として死に対してどう考えているかを話してあげることです。

「死への恐怖」
死は事実。善悪無し。死への恐怖は人間の思い。不安な心理というもの。よくわからないから闇に怯えるように死に対して負の想像をおこすということ。
死ぬことが無かったら、世界は大変なことになっている。ご飯も他の存在の命。

「死後の話」
人は死んでも生きたカタチではなく活きる。作用として存続する。作用や影響力、働きとして生きるのだからこそ、人を死後も苦しめるような生き方を生前にしてはいけないということをよく諭す。
オウム真理教の教祖のような生き方をすれば生来ている間も人を傷つけ、本人が死んだ後も家族や信者、一般人を苦しめ続け、日本中を嫌な思いにさせる。死後の世界とは遠くの世界でもなく、ファンタジーでもなく、現実に誰かの死後は誰かにとって大きく影響力としてあり続けていくということを諭す。

「生きていること」
人の生というものは自分のエゴ意識とは無縁。
自分で死にたくないと思っていても今はちゃんと生きているしi、死にたくなくても死ぬべき時にきちんと死を迎える。この地球上に生を受けた歴史上のあらゆる人たちがよほどの不運がない限りはみなさほど騒ぐことなく死んでいった。
呼吸一つですら自分の意思とは無関係になされている。生命の主人公は自分の自我意識ではなく、知らない間に目が覚めて知らない間に眠ってしまうこの身心、お命様そのもの。
生きるとは何をするかばかりではなく、どう生きるか。いかに生きるかなのですから。今日伝える事なくして明日なし。

2022年5月20日 13:21
{{count}}
有り難し
おきもち

論理ではなく反応を見ている

幼い子供は常に大人の反応を見ています
言葉より
大人の反応を見て
未知の物事に対する反応を真似します
自己防衛の本能的な反応です

わかりやすい例で言いますと
親が虫に対して
気持ち悪いとかぎゃーって反応すると
子供も同じ反応をするようになります

ですので
今回の事
論理で導くのは困難かと
共感も不要であり

抱きしめたり
優しか穏やかに
ファンタジーを用いたり
必要に応じてはあっけらかんに
死を語ると良いでしょう

合掌

2022年5月20日 7:57
{{count}}
有り難し
おきもち

山形のそれは小さなお寺の住職です。 私は子供の頃いじめられ、社会からドロ...
このお坊さんを応援する

スマナサーラ長老の

『死後はどうなるの?』角川文庫が、分かりやすいです。
 死は、知っていても嫌なものでしょうけど、知らないと、もっと不安になります。
 仏教が見ている死生観というか死と死後の生に続く輪廻、そして輪廻から脱出する道までが簡単明瞭な日本語で語られています。
 まず知って、それでも不安な部分は、目を逸らさずに、死とはこういうものだと真実を受け入れることで、徐々に克服します。

2022年5月20日 8:07
{{count}}
有り難し
おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
このお坊さんを応援する

「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 2
回答数回答 1

病気になって死を考えるようになった

現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。

有り難し有り難し 13
回答数回答 2

死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

有り難し有り難し 14
回答数回答 3

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ