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死が怖いということは釈尊と初めて肩を並べたということ
死んで無にならない生き方をする。すればいい。それをした人は死んでも死なない。死んだあとでも作用・遺徳・影響力として有でもなく無でもない輝きとなる。祖師や偉人たちは生きている人を死んでるのに救って導いているでしょうに。アンタもそういう生き方をしなさいヨ!…と、そういう立派な生き方をした人は説いているのよ。「そうだよな。そうしよう。」と思った人は宗教を信じるとか信じないとかに関わらず人としてそういう生き方をするようになる。
そうすると死とか死んだらウになるㇺになるとかいう虚無的な物質論やあの世論やら生まれ変わり論ではなく、日々、生きて不動。生老病死に接すれども動ぜず。八風吹けども動ぜず。雨風吹けど天にかかる月の動ぜざるがごとくにどーんとした生き方になるのですよ。いまのあなたはどうか。まだまだでしょう。だからこそそういう生き方を求めるべき時期に差し掛かったということです。誰でも最初は文字一つ知らない。数字一つ知らない。どんなインテリでもエリートでも勉強ができても心が弱い人間はちょっとしたことでぐらつく。そういうのを教育とは言わない。いくら要職についても人一人救えないからです。いくら富を集めても自分の為にしか使わんからです。そういうのを豊かとは言わない。だから死ぬのが怖いというのも、心がほんまもんの価値を知らん状態だから何かとおびえるようになるのですよ。守るものがある。あっても小さい。自分が自分が私が私がという主語の強さが己を小さい自分にくくってしまう。どんな高級食材とされる命も軽視すればゴミ同然。
いくら大国と言える国でも他国を侵略して人命軽視をすれば人間として小心。
どんな雑草とされる植物でも人を活かす働きがあることを知れば活用して人を療ずるダイヤモンド以上の価値と変わる。死、死の恐怖をこそ転ずる。山菜一つでも鬱やパニック症にも効果があるものがある。あなたの恐怖や迷いも不足する養分を摂取し健全な思考を用いれば自分自身をより聡明な心へと導くことはできます。ただし、人間の思考は現状維持・恒常性維持を好む。負のループにハマることを強い志で拒絶するよう決意する。その負の習慣を断ち切って、より大きな価値の為に自分の死を怯える恐怖を滅するための機縁とする。迷いを導きの功徳へと転ずべく発心すればあなたも祖師たちとスタートラインは同格。誰もが死は怖い。そこが仏道のスタート地点なのです。
私も、死ぬのが怖いし、死にたくない。
でも
生まれた以上
必ず死ぬんですよね。
それはもう諦めています。
仏教では
お浄土で仏さまに成ると説いています。
それは科学的に証明されていませんが
それを信じたいと思っています。
ご先祖さま方も成仏されていると思っています。
私もご先祖の一員になると思っています。
でも
それでも死ぬのは怖いし
全然死にたくないんです。
拝読させて頂きました。
私も死ぬのはとても怖いです。死んでどうなるのかは私はわからないです。
その様な弱くて怖がりなのが私達なのです。
死んでしまったら何もかもが無になるかどうかはわからないです。
死んでどうなるのかどこに行くのかも全くわからないのが私達なのです。
ですから余計に怖くなりますし、恐怖さえ感じるのが私達なのです。そして自分自身ではどうすることもできないのが私達なのです。
その様に限りなく弱くて怖がりではかなく愚かなのが私達なのです。
その様な弱くて愚かな私達を仏様は決して見捨てたりはなさらないとお経典には書かれています。死んでどうなってしまうかもわからない私達を必ず仏様はお救いなさって下さるとお経にはしっかりと書かれています。
私はその様な弱く愚かな自分であることを信じています、そしてその様な私を必ず仏様がお救いなさって下さり、仏様が極楽浄土にお導きなさって下さると信じております。
あなたはいかがでしょう、しっかりとあなた自身をお見つめなさってみて下さいね。
あなたが自らの死にお向き合いなさり、自ら生きることにお向き合いなさり、生きることの意味を見出されて、毎日をお健やかに生き抜いていかれます様に、そしてあなたが与えられた天寿を全うなさっていかれます様に切に祈っています。
スマナサーラ長老の
『死後はどうなるの?』角川文庫に簡単明瞭に書いてあります。悟ったら、死後の再生はない。悟らなければ、善業、悪業に従って六道の何かに転生します。怖くても怖くなくても仕方ありません。
質問者からのお礼
沢山の回答ありがとうございました