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仏教の考え方の疑問

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最近仏教を知り、勉強している者です

疑問がありますので、お教えください

1諸行無常や一切皆苦など、真理のことばであって絶対に変わらない正し

ことであるとみたのですが、それとは裏腹に正しいと思ったことは正し

くないという真理があると思いますが、でしたら真理は正しいのでしょうか

2涅槃静寂、悟りの境地は安らかである、とのこですが

その状態で認知症や記憶喪失にあえば、悟りは消えますかね?

もし消える可能性がある以上、涅槃静寂だとは思えないのですが...

それと悟りを得ていない者は、認知症や記憶喪失を恐れ、健康でいる

ことや記憶をなくさないことに執着してしまうのではないでしょうか

支離滅裂な質問で申し訳ないです

理解できた部分だけでもいいのでご回答待ってます


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お坊さんからの回答 6件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教のありか

カルシウムを摂れば骨が丈夫になります。不足すれば骨粗鬆症になります。

1.カルシウムとかCaという言葉が大切なのでしょうか?カルシウムは言葉ではありません。牛乳や小魚を食べたら入っているソレがカルシウムです。言葉はただのツールです。
仮に誰かが「俺はカルシウムなんか信じねぇ!そんなもんは存在しねぇ!」と疑ったところで、信じると信じまいとに関わらず小魚ボリボリ食べたらそこに入っています。人間がどう思うかということは、事実がどうかということと何の因果関係もありません。太陽が東から昇ることを正しいと思おうが正しくないと思おうが、東から昇るモンは東から昇りますでしょ?
諸行無常も一切皆苦も、言葉です。

ついでに言うとあなた自身も諸行無常なのですから、あなたの認識も無常です。頭で考えることって、私たちが思っているほど大したことないんですよ…というのが諸行無常のメッセージの1つです。

2.脳みそで理解することが悟りではありません。脳みそがどう考えていようが、心臓が黙々と脈打っているのが悟りの現れです。あなたが吐いた二酸化炭素が、どこのどれとも知れない木によって酸素になっていくのが悟りの現れです。あなたが生きていれば生きているなりに影響し合い、死んでいれば死んでいるなりに影響しあってどこまでも続いていくのが悟りです。その繋がりが悟りです。消えようがありません。

どこまでも続いていくから、恥じることのない生き方をしたいものですね。誠実に生きれば、どんな死に方であっても、もし死が恐ろしかったとしても、きっとその人生に胸を張って逝くことができるでしょう。

追記
そもそも認知症は死の恐怖を忘れるための適応なのじゃないか?という話もありますね。だとしたらそれはそれで生命の1つの形であり、進化の1つの結果であり、悟りの1つの現れ方かもしれませんね。
突き詰めた所で言えば「認知症は哀れなこと」「健康体は完璧で幸せなこと」と脳みそが生んだレッテルの行が煩悩なんです。恐れることだって悪いことじゃないんですよ。恐れを嫌う脳みそが苦を生んでいるだけで。

お釈迦さまだって今際の際には激しい痛みの中で心の段階を1から段々に上っていき、一度最初まで戻り、また第四まで上ったところで息を引き取られたと南伝系の涅槃経に書かれています。弟子のアーナンダに「うるさい!」と叱りつけたり。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み) 最近YouTubeを...
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「俱生の諦執」と「仏性」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

誠に鋭いご質問の視点であると存じます。

字数の制限上、2に対してのみとなりますが、認知症の方、あるいは記憶喪失になられた方、または赤ちゃんや知的のハンデをお持ちの方と、悟りとの関係・・

拙生も実は昔に疑問に思い、色々と考えたことがございました。

実は、これは、結局のところ、心のありようの問題となりますが、生まれながらに前世から存続している「俱生の諦執」(真実執着という自分や現れに対して実体視してしまう無明の心)がある限り、煩悩が生じてしまうこと、また、その煩悩により悪業を働いてしまうのは、輪廻にある衆生においては、上記の方々も含めて、皆、それほど変わりのないものとなります。

仏道により、「無明」(根本的な無知)と過去世からの「悪業」を対治していかない限り、この迷い苦しみの輪廻から抜け出ることは、なかなか容易ではないところとなります。

では、悟れないのか、と申せば、そうではありません。悟れるための潜在力は、「心」のある衆生(有情)であれば、認知症の方、あるいは記憶喪失になられた方、または赤ちゃんや知的のハンデをお持ちの方も含めて、悟れる可能性として有するところであります。(ここで、誤解されやすい「仏性」という言葉はあまり使いたくはないのですが・・いわゆる「仏性」と言われるものであります。)

密教の無上瑜伽タントラでは、「光明」と申したり、あるいは、「俱生の大楽智」と申したりとするのですが、要は「悟るための基礎的な要素」であって、ただ、それがあるからといっても、何もせずにして悟れるわけではありません。悟るための因縁(原因と条件)が当然に必要となります。

それが、大まかに述べましたら、「菩提心」を基とした「智慧」と「福徳」(功徳)で、仏道により、この二つの資糧を集積し、「煩悩障」と「所知障」を断滅することにより、悟りへと至れることになるのであります。

また、今世ではやむを得ずに仏道を歩む条件が調わない(調わなかった)方に対しても、来世以降にて仏道を歩んで頂けるように調えて差し上げる方法も仏教にはございます。簡単には供養、功徳の回向となりますが、皆の悟りのためにも、仏教を修習できる余裕があるのであれば、しっかりと努めて参りたいものとなります。共に頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

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論理的かどうか?を基準に

 現在では仏教学者でも非論理的にわけのわからない自論をばらまく人もいます。自分の考えを組み立てるときも、仏教書などに書いてあることを読む時も、どちらも論理的かどうかを一つの基準にしてください。それが、正しいかどうかの基準になります。

 諸行無常は正しいですが、一切皆苦は間違いです。一切皆苦なら、涅槃も苦なの?
 調べてみると、一切行苦が正しい。一切の生まれたもの(行)は苦です。生まれないもの、涅槃や諸行無常の摂理など、は苦ではないということになります。

 諸行無常の行と同じです。行はすべて無常ですが、生まれない涅槃などは無常ではありません。では常住?そうとも言ってません。諸法無我、すべての物事は、行も行でないものも無我で本質がない、とは言っています。

 「正しいと思ったこと」がそのまま「真理」とは限りませんので、1の後半の問いは、問いとして成立していません。

 スマナサーラ長老が無常、苦、無我についてそれぞれ本を出版されています。アマゾンで買えます。それを読んで、私は間違いを見つけられなかったどころか、なんだ、こんなすっきりと分かりやすい摂理だったのかと感じました。

 悟りについては、拙著『悟りの4つのステージ』(アマゾンで買えます)が詳しいと思います。悟りの各段階だけはそれぞれ途中経過ではなく結果なので、その段階に至ったら、戻れません。悟りの知恵が生まれた後でボケることはできないと、経典にそこまで書いてありませんが、できないでしょう、と推測できます。

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初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
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世の中での佇まい

ご質問を拝読させて頂きました。
私たちの苦しみの根源は、「私」が居るからです。
老病死だって他人の事であれば、さして苦しくもありません。
他ならぬ「私」に訪れるからこそ、苦です。
じゃあ、命を絶つしか楽になる方法はないのかなんて話になってしまいますが、そうではありません。
世間での暮らしで強くなり過ぎた「私が居る。」「これは私の所有だ。」「俺が、俺が!」という私の意識を小さくする事で命を絶たずとも苦を無くす事が出来ると仏教は言っています。
そして、この「我」という意識を小さくなっている状態がざっくばらんに言うと、悟りです。
それは、世の中に対する佇まい方とも言えます。

諸師の方々が悟りの階梯について述べられていますが、悟りの初段と言える「預流果」に至っていると言われるミャンマーのウ・ジョーティカ師という方がいらっしゃいます。
ジョーティカ師が預流果に至っているわけですから、その師匠も同等かそれ以上に至っていたと推測されますが、晩年は認知症を患っておられました。
しかし、色んなことを忘れていきながらも、いつも穏やかであったそうです。
なぜ、穏やかでいられるかと言うと、それはやはり、我が小さくなっていたからでしょう。
長年の精進の末に、我が小さくなった人が認知症や記憶喪失を契機に、世の中に対する佇まい方が一変するとは考えにくいのではないでしょうか。

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臨済宗寺院の住職です。皆様の良き御縁となる事が出来れば幸いです。
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悩み苦しみを減らす方向が「正しい」

仏教は、悩み苦しみの原因(煩悩)を弱めたり消したりして、悩み苦しみを弱めたり消したりする教えです。
仏教が目指す「正しい」とは、悩み苦しみをなくす方向を向いていることでしょう。
苦・無常・無我に気づいた方が、煩悩が弱まったり消えたりするのです。
だから、苦・無常・無我は「正しい」真理だと思います。

悟った人が認知症(脳の病気)になった場合どうなるのか?
私も興味があります。
「悟りの階梯」で検索して、四段階の悟りについて調べてみましょう。

悟りの第一段階「預流果」に達した場合、あと七回生まれかわる(輪廻転生すり)の間には、必ず最高の悟り「阿羅漢果」に達するそうです。
と、いうことは、預流果に悟った人が生まれかわって、来世でまた人間になったとしたら、当然赤ちゃんからやりなおしです。
認知症ならまだ大人としての知識が完全にはなくなってないでしょうけど、
赤ちゃんからやりなおしだと、認知症よりさらにキツい。
それでも、前世で悟りの第一段階に達して、すでに10種類の煩悩のうち、3つの煩悩が消えている状態が継続している。
生まれかわって赤ちゃんに戻っても、一度消えた煩悩は復活しない?
もしくは、赤ちゃんに戻ってもすぐにまた悟りやすい状態になっている?
だとすれば、認知症になっても、消えた煩悩は復活しないのではないかと思います。
もしくは、来世ですぐ悟れるポテンシャルはキープしているのかなと思います。
煩悩が消えたら、その分だけ安らかになります。
完全に煩悩が消えたら、平安(寂静)の完成です。
煩悩が完全に消えた阿羅漢は、二度と生まれかわらないそうです。

悟った者は、「自分」への執着がないのだから、記憶や健康への執着もなくなるのではないでしょうか?
私みたいに偉そうに説教していても悟っていない坊主は、認知症になったら心乱れてしまうかもしれません。
それは、私がまだ悟っていなかったのであって、悟った人が認知症で悟る前に戻ったのではないと思います。
認知症になって煩悩が復活することはなく、
悟ったふりして煩悩を隠していた人は、認知症で化けの皮がはがれるのではないでしょうか?

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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1、正しいか正しくないか、それはご自身の体験を通してご判断ください。お坊さんが言ったから正しいとは限りませんからね。
また、真理とは正しいとか正しくないとかを超えた理だと思いますよ。
2、記憶をなくさないことに執着しているようでは悟りの境地とはいえません。悟りの境地には執着は無いのですから。
悟りとは執着を無くすこと、分別を無くすこと、自分と他人さらには自分と自然が1つになること。(私は悟っていないので推測ですが)
悟りの境地に達した人を仏様と呼びます。
仏様はたとえ認知症などの病になろうとも、入滅して骨になろうとも、仏様なのです。

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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質問者からのお礼

皆様ありがとうございました

「仏教全般」問答一覧

「仏教ってどんな教え?」と聞かれたら

 いつもお世話になっております。こちらの先生方のお説法を拝読し、 なるほど、と思うことがたくさんあり、有難く勉強をしております。  私には、最近仲良くなった友人がおります。なんと不思議なご縁で、 学生時代は、私の不躾な振る舞いから、私を嫌っていたのですが、 近所に住んでいることが分かってから、道で会うたび 「ロータスさん!元気?」 などと、後ろから肩を叩かれるなどするようになり、仲よくしたい、 連絡先を交換しよう、ということになり、「実は…」と、私の障害を 打ち明ける、ということがありました。  「あなたに不快な思いをさせるのが、とても怖い。不快な事が あったら、教えてくれ」 と私が述べると、 「いいよ。でも、それは、ロータスさんじゃなく、障害のせいだと 思っておくよ」 と言ってくれました。  私が、お寺や神社に頻繁にお参りすることを、この友人は知って います。「今、〇〇寺にいるよ」とスーツに半袈裟を付けた自撮り 写真(もちろん、お堂の外で撮影)を送ったとき、 「襟のその綺麗な布は何?どうして、着けているの」 と返信が来、回答に困りました。その時は、仏具店のホームページに 書いてある事を引用し、答えました。  そこで、 「ロータスさんの信じている、仏教ではどんな事が説かれているの?」 と訊かれたとき、何と答えようかと考えました。  現時点では、神秘性を強調するなどしては、霊能者や新興宗教と 同一視されてしまう可能性を危惧し(ただでさえ、世間一般には 混同されている気がするので…)、 「物事には必ず、科学的(現実的)に、言葉で説明できる原因や、 法則性がある。何かが起きたら、神様仏様のお見守りの下、その原因や 法則性を明らかにして、苦しみを減らして、地に足をつけて生きよう、 っていう教えだよ。もちろん、色んな人や物、現象への感謝も忘れずに」 と、説明しようと思っています。  いかがでしょうか?私の見識は間違っておりますでしょうか? ご評価、お待ちしております。

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いい諦めと悪い諦め

お読みいただき、ありがとうございます。 人間誰しも大なり小なり、後悔はあるかと思います。私もいろいろ後悔があり、何年も、下手したら10年、20年前のことでもあの時アレがなかったら…、あの人がいなければ…、もっとあの時にあぁしておけば今頃は…、と未だによくクヨクヨと後悔する時があります。そしてそれをなんとか取り返す術はないかとどうしようもないことを考えてしまう時があります。 ただ、なぜか今日ふと突然「違う…『あの時アレがなければ、こうしていれば』とか『もっと今頃はこうなっていたはず』というのは自分はもっとこうであるはずなのに、という歪んだプライド、驕りの妄想でしかない。確かに「俺のせいではない」「なんで俺だけ」と言いたくなる出来事もあったかもしれない。でもその出来事に対する反応も含め、他の人なら違う行動が取れたかもしれない。結局は自分の器が自分があると信じて疑わなかったよりもずっと小さかった、ただそれだけのこと。」という考えがスッと頭に入ってきました。 そう考えると諦め(仏教的には明らめというのかもしれません)の気持ちというか、もうそんなに頑張らなくてもいい、人から見たら惨めな失敗の人生かもしれないけど、足るを知るで手に入ったものに感謝して、満足して、楽しく暮らしていけばいい、と思う一方で、やはり自分を、自分の可能性を信じることをやめた悔しさ、寂しさを感じるというか、そのような気持ちで生きていくと、いつか人生の終わりを迎える時に「なぜ俺は自分を信じて、少しでも挽回出来るようにと頑張らなかったんだろう」と自分の人生の時間の使い方を悔やむような気持ちを持ってしまいそうな気もしています。 そこでお聞きしたいのですが、仏教的な視点からいうと、いい諦めと悪い諦めってあるのでしょうか?違いはどのように考えたらいいのでしょうか?これが絶対正解、というのはないと思いますが、仏教ではこんな話がある、といったものでも、お聞かせいただけると幸いです。

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