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涅槃寂静 | 三法印のひとつ。仏教の根幹となる教え

死は通過点であり悟りへ至る道ではない

 ブッダ教えのひとつ「涅槃寂静」とは、「諸行無常」「諸法無我」と並び、大切な教えをまとめた三法印と呼ばれるものです。ブッダがお亡くなりになったときのように、煩悩が一切なく穏やかな心でいることを指すもので、ブッダの教えの到達地点といえます。この「涅槃寂静」は「解脱」とも「悟りの境地」ともいわれるもので、これに達することができたとき、人は輪廻転生の繰り返し(苦の繰り返し)から抜け出すことができるといわれます。

ブッダが亡くなったことを「涅槃に入った」と表現することがありますが、一部でこの言葉を一般の人の死に当てはめて使われることがあります。

現世での「生」という苦しみからの離脱をイメージしているのでしょうが、しかし、これは正しくはありません。なぜなら、「涅槃」とは煩悩がすべて消え去った心の状態を指すものであり、一般的に死を迎える人がこの境地にたどり着くことは難しいからです。

また、今生の生が尽きたとしても、輪廻転生で新たな「生」を得れば、新たに煩悩を背負うことになります。つまり、「死=悟り」ではないのです。

人の心の中で燃える炎・煩悩を消すと涅槃寂静

 ブッダは、人々の苦しみの元凶はすべて煩悩であると説きました。

煩悩とは、生きとし生けるものすべてが持つ「生きたい」という本能的な欲求から、他人をうらやんだり、誰かを蔑んだりしたりする心の動きまで様々です。それらは人の心の中に灯るロウソクの炎のようなものといえます。

人は時に嫉妬の炎が大きくなったり、羨望の炎が大きくなったり、生や財への執着の炎が燃え盛ったりするなど、煩悩の炎は心の中で何本も同時に灯ることもあります。

多くの寺社で大みそかに撞く除夜の鐘の数が108回ですが、煩悩はそれほどまでに多いのです。これら煩悩のロウソクの炎をすべて消し去り、それに再び火がつかない「心穏やかでその状態がずっと続く」ことが、「涅槃寂静」とされています。

涅槃寂静へのブッダの教え

ブッダは悟りを開いたのち、この世のものはすべて移ろいゆく「諸行無常」、「人生で変わらないことはないという「諸法無我」など、多くの人々・門弟たちに煩悩を消すための教えを伝えています。人々が苦しむ原因を明かし、物事に執着する自我を自覚してその考え方を改め、正しい行いを続けることで悟りへの道が開けることを指し示してくれました。

 そのブッダが煩悩を消すために説いていたのが、四苦八苦をなくすための考え方である「四諦」と正しい行いをするための実践法「八正道」です。あわせて「四諦八正道」とも伝えられるこの教えは、現在の仏教の根本的な教えとして伝えられています。

お坊さんに聞く涅槃寂静のお話20選

涅槃寂静。悟りへの道

自分が変化する有り様をそのまま受け入れる

Q:今の生活から何か不自由なことが起こったらどうしようかという心配が止まず、心を落ち着かせて今を満喫できません。 


A:失うことは確かにつらいことですが、よくよく考えてみるとどれも実は自分のものではありません。私達は毎日多くの生命を頂きながら常に変化している身の上なのです。その有り様をありのまま受け入れていくことです。執着を消し去ることです。 そうしていく中であなたの心は満たされて参ります。それが本当の円満です。そして仏となっていく道です。つまり成仏です。

元の問答:生きることも死ぬことも不安で仕方ないです

「不安」とは生きる道を求めよと仏様からの促し

Q:自分の未来が不安です。
今は幸せですが、ずっと幸せでいれるのか。。 


A:「一切の事物は相互の依存関係によって成り立っているので無常(常に変化していく)であり、それは思う通りにならないものである。だからそれを明らかに知って苦しみを滅した境地に至りましょう」というのが仏教です。
不安を感じるというところに、仏様からの「本当に生きるとはどういうことか道を求めてください」という促しがはたらいているのです。

元の問答:自分の未来

善き因縁を調えるヒントを理解しよう

Q:うつ病を患って2年半、あまりの苦しさに自殺を考えたことは何度もあります。うつの原因は会社でほぼ社内失業常態で、将来への絶望、不安感などです。耐え難い状況を受け入れ、心安らかに過ごす仏教的なアプローチがございましたら、ご教授くださいませ。


A:善き因縁を調えていくためのヒントが仏教にはたくさんございます。基本的な教えが、四法印となります。「諸行無常・諸法無我・一切行苦・涅槃寂静」。この四つの教えと、四つの聖なる真理としての「苦・集・滅・道」の四聖諦の理解を徹底して進めることから始められると良いのではないだろうかと存じます。

元の問答:うつ病に対する仏教的アプローチを教えて下さい

思い込みの先に希望を見る

Q:どこを向いても絶望、絶望、絶望しかない。人心は荒み、社会は乱れ、環境は汚される。人間という生き物にとことん嫌気がさしているのです。生きることことを徹底的に拒絶したい。


A:お釈迦様は一切皆苦(この世の全ては苦しみ)とまで言いました。しかしお釈迦様はその後には涅槃寂静(苦しみの無い澄んだ境地)に至りました。ですから希望はあるのです。ただあなたも私達も見えていないのです。希望を見る為には先ずはあなたのサングラス(我、思い込み、錯覚)を外さなければなりません。そのまま周りを見ても真っ黒な絶望しか見えませんからね。

元の問答:これからの絶望予想

お祖母様はもう仏さまになりました

Q:大好きな祖母が亡くなりました。従姉妹たちの話によると祖母はわたしのことを1番に可愛がってくれていたようです。 7日間毎の法要に行けば色々思い出して精神的な病が悪化してしまいそうです。 前に進めない気がするのです。法要に参加しなければ祖母は悲しむでしょうか? 


A:お祖母様はもう仏さまになりました。 辛いも寂しいもない、そのような世の中のゴタゴタを飛び越えて、心安らかな世界、涅槃寂静の境地におられます。 お祖母様には何の問題もありません、問題はあなたの心の中。

元の問答:祖母が亡くなり心が癒えません。

どのような人生も波瀾万丈

Q:私は、生きるということに対して貪欲でないことに気が付きました。自殺という方法でしか死ぬ日が決められないのかなと思いました。私のような考えはおかしいのでしょうか。


A:人の生命は自分で決められるものではありません。その寿命は様々なめぐり合わせの中で与えられていくものです。生きる中で生きること死ぬこと、今をどうして生きるのか、生きることとは何なのかを様々なものごとを経験しながら様々な巡り会いの中で自問自答や失敗を繰り返しながら見つけていくのかと思います。

元の問答:死ぬ日を決めて生きたい

諸行無常でも大丈夫

Q:昔から断続的に、無常観に由来する虚しさに襲われます。全て消え行くのになぜ生きるのか、自分の行為1つ1つには何の意味があるのか。


A:私とは実は心の有り様でしかないのです。もとから自分のものではないのですから変化してしまうことや失うことを怖れることは実は自己矛盾なのです。その有り様をありのまま受け入れていくことです。

元の問答:無常観と向き合いたい

感謝の念は涅槃寂静にあるとき

Q:食べ物、着るもの、住むもの、関わる全てが他の何かにも関わって、だからか感謝しようというけれど、今生きていること自体に特別楽しいと感じているわけでもなければ、両親兄弟をいつも好いているわけでもない。感謝するのがまるでぶりっ子してるようにも感じてしまう。


A:ただひとつ思うのは、自分が満たされている時に感謝の念は涌き起こってきやすいものではないか、ということです。
仏教に教えがあります。 
・諸行無常→変化しないものは無い→あてになるものは無い
・諸法無我→絶対的な存在は無い→思いのままになるものは無い 
・涅槃寂静→上記2つを受け容れられれば、全てが苦しと感じなくなる
この世を、なんとか生きている。自分の身の丈にあった日々を生きている。と思えた時に自然と感謝の念が涌いてくるのかもしれません。

元の問答:感謝しようというけれど

私的感情の介入できない世界に気づく

Q:仏教は私に「生きることは思い通りにならないことばっかだけど、残念ながら諦めるしかないよ」と言ってるのではないか?ということです。楽しいことより辛いことの方がたくさんあります。そこで私の中に「ならば、生まれさえしなければいいのでは?」「辛いと分かってるのになぜ子どもを産むのか?」という疑問が生まれました。


A:お釈迦様のいう「苦」とはこの世というものが、こちらの願いや要求とはまるで無縁なありかたとして存在しているから人間の私的感情の介入できない世界であるよ、ということです。
 その法則の川の流れの中であらがうような行為=物事を「自分の都合を立てて取り扱うことを止めよ」という教えであって「諦めろ」じゃありません。自分の都合を立てるべきではない、ということです。

元の問答:『産まない』ことが子供にとって一番なのでは?

我思う前に、これあり

Q:全ての苦しみの原因は自我にあるとおもいます。喜びがあるから悲しみがある。 死があるから生がある。何かを持つから苦しみ、何も持たないから苦しむ。どちらも本質は同じであり、どちらか一方に執着するから苦しみが生まれる。何かに執着するな中道を行け、中道をいこうとするとにすら執着するな。これってあきらめろってことじゃないんでしょうか?


A:「我思う故に我あり」これは仏教ではありません。仏教的にアレンジすれば「我思う前に、これあり」。 たった今だれもが、目前のことを「ある・なし」すら気づかないままに過ごしている。喜怒哀楽にも本来自我はありません。悲しい時は悲しいだけ。苦しみが生じない悲しみだってあるのです。中道とは中道っぽく「なろう」としたら中道ではなく、はからい。有道。我道。もともとの一切の様子がはじめから人間の見解を離れているから最初から中道なのです。

元の問答:苦しみの根本は自我で全てが無意味

涅槃寂静だけが殺生からの完全なる解放

Q:毎日毎日、他の動物の命を奪って生きるのはとても辛いです。そして毎日こんなことを食事のたびに考えています。


A:生きている限り、例え食べなくても、他の生き物を犠牲にしないで生きるのは無理でしょうね。それが嫌なら、あなた自身が生き物であることから卒業、つまり輪廻転生の繰り返しから解脱せねばならないのです。そのためには、あらゆる煩悩を克服して生への執着もなくして、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)に入らねばなりません。

元の問答:お肉を食べることについて

仏とは真理に目覚めたもの

Q:現在の日本仏教において「仏」とはどんな存在というか、”もの“なのですか?


A:仏とは「真理に目覚めたもの」を指しますが、同時に真理に目覚めさせてくれる「はたらき」をも指します。真理は釈尊以前からすでにしてあり、釈尊をして目覚めさせたということになります。真理とは迷っている私に迷っているぞと教えてくれる仏の智慧。

元の問答:仏とは?

真の自己に気づいたら、あとは自由自在

Q:かつて行き詰まった己を動かしたのは、偶然手に取った本でした。 釈迦はいかに聞き、いかに応えたのでしょうか。


A:仏教の出発点は、「そうだ仏様になろう!!」というこの一義に尽きます。 あらゆる現象に一喜一憂することなく心が安定した状態になる「涅槃寂静」、 苦しみから解放されるとお釈迦さまは言ってられます。個人によって、痛みや苦しみの原因は違います。その苦しみや悲しみには実体がなく、真の自己に気が付いた瞬間に、 明るく開ける何かがある。 この何かに気付いたら、あとは自由自在。 

元の問答:説き上手は、いかに戒められますか

煩悩がなくなった状態が、涅槃

Q:仏教の本質とはどのような教えですか?


A:仏教とは、悩み苦しみをなくすために煩悩をなくす方法論・実践論なのです。煩悩をなくすためには、誤った認識に気付く必要があり、そのために説かれるのが、苦・無常・無我や、涅槃寂静(煩悩がなくなった涅槃こそが究極の平安である)、縁起・空、十八界・五蘊(ごうん)などの教えです。

元の問答:仏教の本質

目に見えない法則、道理に目覚めること

Q:お寺に通う意味が全く見出せず、正直ただ座ってお経を読むことが苦痛でしかありません。お寺通いをやめたいです。


A:目には見えなくとも確かに存在する法則・道理に気づいた方がお釈迦様です。仏教徒はお釈迦様が作った創作概念ではなく、お釈迦様がその目に見えない真実(法則・道理)に目覚めたものを言葉にして説いてくださった教えです。仏像のような仏様がどこかにいるわけではありません。

元の問答:信心がない

「無明」を断ち切る先に涅槃寂静あり

Q:最近は仏教、特に原始仏教と呼ばれるものに興味を持っていますが、十二因縁(縁起)について、府に落ちたイメージを持つことができません。


A:「私が生きている」という現象を因果関係で分析したのが、十二因縁ということになります。もともと仏教は『諸法無我』を説きますから、「『私がいる』という実感」は明確に錯覚なのです。「私がいる」という錯覚を【無明】と呼んで、その錯覚があるから、その錯覚に沿うような流れを生んでいるとみたのですね。それならば悟りを開いてこの流れを断ち切ってしまえば、涅槃寂静といって、苦しみから逃れることができる、という話です。 

元の問答:十二因縁(縁起)を例えると…

輪廻転生から解脱する涅槃

Q:輪廻転生があるなら、私は六道あらゆる世界を見て、生きて来た事になりますよね。そういう所から、いわゆる慈悲って生まれるのでは無いでしょうか?


A: 煩悩を滅して輪廻転生から解脱する「涅槃」が苦のなくなった平安です。どんな不運や不幸も、自分の前世の行いが悪かったからだと明らめられれば、他人への怒りや八つ当たりがなくなり、平和になると思います。 

元の問答:輪廻があるなら、私は天界も地獄も見て来たのでしょうか?

煩悩を認め我が身の事実と捉える

Q:煩悩とは何ですか?
wikipediaに書いてあることは難しくてわかりにくいので、わかりやすく簡単に教えてください。


A:仏教の理想(三法印または四法印)の一つに「涅槃寂静」とあります。
心静かな状態といっておけばよいでしょうか。何かに心がとらわれると、心が波立ちます。それを煩悩と表すのではないでしょうか。煩悩に対する対処としては、二通りあるといってよいでしょうか。
一つは、煩悩を消し去ること。もう一つは、煩悩がわき起こることを認め、我が身の真実であるととらえること。

元の問答:煩悩とは何ですか?

涅槃寂静を感じる歌

Q:お坊さんが『これは仏教的な歌だな』って曲を教えて頂け無いでしょうか?


A:喜納昌吉の「花 ~すべての人の心に花を~」だと思います。

花は流れて どこどこ行くの 
人も流れて どこどこ行くの 

この二行の歌詞だけで、諸行無常を語り 涅槃寂静を語っているように感じております。

元の問答:『仏教的だな~』って感じる曲(歌)は何ですか?

仏教的には悟りに近付くことが善

Q:善因楽果・悪因苦果との説を目にしました。善い行いをすれば自身の心が報いを受けて、楽(幸せ)を感じられる。悪い行いをすれば自身の心が報いを受けて、苦悩という形で返ってくる、との内容であったかと。衝撃でした。まさしくその通り、なるほど納得、目から鱗


A:善悪とは一般的には倫理的な善悪ですが、仏教的には悟りに近付くことが善で、悟りから遠ざかることが悪です。 で、悟りとは安楽です。安楽と言ってもいわゆる幸せな安楽ではなく、涅槃寂静な安楽です。 んで、この安楽を楽と書いているわけですから、仏教語としては善=悟=楽であり、善因善果でも善因楽果でも同じです。

元の問答:「善果・悪果」と「楽果・苦果」の違い

文・hasunoha編集部
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