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49日までの間、残された私達がするべき事!

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父が、急死して母は毎日泣いてます。

「お父さんは自分が死んだ事に気付いてないと思うから、あっちにいけるか心配」と母は言います。

もちろん、ささやかですが葬儀を済ませ、実家には毎週、曹洞宗のお坊さんがきて下さりお経をあげて下さってます

実家へも車で片道三時間かかりますが、出来る限り私も行って、父に手を合わせ「お父さん大丈夫だからね、私達も頑張るから!」と声をかけに通っています。

父は、一瞬過ぎて、死んだ事にきづいていないのでしょうか?
私達の事は見えているのかな?
49日までに、してあげると良い事、その後出来なくなる事など何か些細な事でも、ありましたら教えて頂けたらありがたいです。

一番近くにいた父がなくなり、49日までのお互いの過ごし方やマナーなど、きっと知らない事もあるのでは、と不安です。

お花、お経、ロウソク、通常のお供え物の他に仏様が、喜んでくれる物や事もあれば、ぜひお教え下さいm(__)m

いまだから、父にしてあげられる事、してはいけない事、初歩的な質問かも知れませんが、改めて教えて下さいm(__)mませ。

お忙しいところ、最後までお読み頂き感謝です

ありがとうございますm(__)m
よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

大丈夫、お坊さんがちゃんとお伝えしていますよ

曹洞宗では故人さまへお通夜の時に「地・水・火・風が集まって形作られていたあなたの身体は、再び地・水・火・風に戻ろうとしています。あなたは死んだのですよ。これから一緒に成仏への道を歩みましょう。」と、お坊さんからよくよくお伝えしてあります。

お葬式でも髪を剃り、不殺生など十六条の戒を授かり、お釈迦さまからおよそ80〜100代続いている師弟の繋がり(一代が長い系譜、短い系譜があります)に名を連ね、引導の教えを受け、名実ともに仏道修行者としての体裁を調えています。

だからご安心ください。お父様はご自分が亡くなったことをご存知無いということは『決して』ございません。お母様へもそのようにお伝えください。

お坊さんの毎週のお参り、これは七日参りですね。お葬式で仏道修行者としての体裁を調えてから、実際の修行が始まります。七日参りはその修行を応援するお勤めです。

このように順を追って1つ1つご供養を進め、遺された人間の側から故人さまを応援させていただく…だからこそ、前回の回答で申し上げましたように『送り出し』なのです。1つ1つにそれぞれの意味があり、お父様への大切なご供養となっております。この一連の送り出しの作法を通じてきっとあちらに行こうと頑張っているだろうと、お父様のことを信じて差し上げることが、何よりの「してあげると良い事」です。

お供え物はそれだけなさっていれば十分ですが、ぜひという事でしたら坐禅もお勧めできます。また、お寺さんに質問するということは一種の禅問答です。こうして質問し、仏教に触れる。それ自体もご供養になります。hasunohaでのご質問も有り難いですが、七日参りにいらっしゃるお寺さんにも是非ご質問なさってください。

毎日泣いて暮らしていらっしゃるお母様の姿を見ることはとても心が痛むことと存じます。しかし、遺された人の心の変化の中に、実はお父様が1つ1つ進める修行が現れています。人には「見る自分」と「見られる自分」があります。生前に一緒に過ごした時間を通じて、お母様やははこさまの心の中に残った「見られる自分」としてのお父様が、修行をしています。決して焦らず、焦らせず、今は心ゆくまで泣かせてあげて下さい。そして左手に私も頑張るからねという思いを乗せ、右手にお父さんも頑張ってねという思いを乗せ、引き続き手を合わせてあげて下さい。

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有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

報恩謝徳

私は死んだことがないから分らんですが、仮に死んでも、自分で死んだことを自覚はできないと思いますし、死を自覚できないから良いのだと思います。
死んだ瞬間「あ、俺今死んだ」と自覚できたら逆に怖いです。
コントやアニメ、ドラマなどではそういうシーンがありますが、あれは人の創造。
眠りにつくとき、眠る眠る…、あ、寝た!なんて自覚はないでしょう。
死ぬ時も同じく死ぬ死ぬ…、あ、死んだ、という自覚はないでしょう。
亡き人が今、きっとこうなのではなかろうか、という思いは生きている人の中の思いです。
なきひとは今はもう大寂静の中にいます。
知ることも、識することもなく、苦しみすらありませんから、安心なさってください。
49日は遺された私たちが仏道修行に目覚める期間です。
故人様が最後のお勤めとして残してくださった仏事がお通夜お葬式~49日です。
忌という字が己の下に心とありますように、揺れ動く己の心をおさめるべき期間です。
心を有さない者はいない。
ならばこそ、その心がもっとも素晴らしい様子に目覚めていくように、七七、四十九日の間、仏道修行に精進する。自分のことばかりやっていると人は仏心に目覚めない。成仏、出来ないからです。お通夜も葬儀もただのお儀式ではありません。
恩恵ある個人の魂をすでに引き継いでいる私たちが、故人様の亡き後も力を合わせて生きていく中で、お釈迦様の遺された悟りという心を求めるべく、菩提心を起こすのです。菩提心を起こし、多くの人の為にお役に立つべく誓願を起こし、仏道を学び、即今に成仏、成道していることを明らかにしていくのです。
私は大恩ある老師が今はご存命ですが、亡くならずともすでに報恩の行を勤めています。
頂いたら、頂きっぱなしじゃ、頂いた人しか潤わないのです。
仏祖の慈悲、智慧はそんなケチな事はありません。
袈裟は田んぼのカタチをしとるでしょう。
掘り起こせば、泉の如く。
耕して種をまけば無限の人間が救われる智慧・慈悲の実りがある。
日本がミズホの国と言われますのもここに通ずるものがあります。
己の心を田畑となして、故人様や祖師方から頂いたタネを捲き、苗を植え、自らのために実らせるのではなく、多くの人に功徳を廻らし向けることをせずして報恩感謝の心は故人様亡き後のこの世に現われません。故人様の徳を永遠に生かすべく、報恩行をお勤めください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下さま、大慈さま、

温かいお言葉を頂きながら、お礼をのべるのが遅くなり申し訳ありませんでした。

お二方のお言葉をかみしめて、よくよく考え、私たちも前向きに頑張っていきます。

ありがとうございました m(__)m

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