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ヘビが潰されていたことが自分の中で消化できません。

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先日、道端でヘビが潰されていました。
虫に食べられたり日光で干からびたりしてます。
私は最初潰されてるヘビを見たとき、かわいそうだと思って悲しくなりました。でも、虫に食べられて、生まれ変わって、別の人生を生きるのだと考えました。

まだヘビは道端にいて、殆ど無くなっています。

ヘビがこのままなくなったら、ヘビのことは忘れます。

ヘビはこれからどこに行くのですか?
ヘビが潰されたことは悲しいことですか?

自分の中でうまく消化できません。
まだ、ヘビが潰されたことが悲しいです。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ありがたや!蛇から教えて頂いた仏教!

大事なところに気付かれました!
この世に生まれて来た全てのものは形となり生まれ眼に見える姿が「色」であり、生まれる前から目に見えない常に変転してやまないエネルギーで色んなものに関わっている状態を「空」と表します。
この世で死ねば見る事は出来なくなり「空」へと戻って行きます。
「色即是空」とはこの世に姿、形を持って生まれこの世の存在を肉体で確認しやがて誰もが訪れる生者必滅を迎え消え去って行き生まれる前の世界「空」へと戻るのです。
「空即是色」は、正しくその逆の事となり「空」の世界より「色」の世界へ生まれて来ます。
佛の世界では何時如何なる時にも目に見える事、見えない事は別の世界でなく一つの世界として捉え真実の在り方を突き進んで説かれています。
今見て感じておられる事は,この世でお別れの死は諸行無常の出来事でありまた死は終わりでなく始まりでもあると言う事を蛇が教えてくれたのです。

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エビせんべい。

http://ljinoie.jugem.jp/?eid=91
まずこちらの画像をご覧ください。
こんなにうまいエビせんべい…と仰っておられます。
これを残酷だと思う人はいません。かっぱえびせんなら無心に食べとったでしょう。
「そこに思い入れがあまりにも強すぎる」と、心が締め付けられるように苦しい。そういうことがあります。
同調、同情し過ぎるとノイローゼになってしまうことだってあるのが人間です。
心の距離感、車間距離を上手にとってください。
私は、小さい頃風呂場で虫がワンサカいる中、素足で便所コオロギを踏んて発狂しそうになりました。ギャー。しかも右足左足ダブルで。ギャー もう一度言いますが、素足で。ウギャー
実物を見ない様ティッシュで片づけましたわ、わたし。エビならまだしも、虫。
死ぬかと思いました。(海老蔵風)
「別物をそこに観ている」これがあなたを救うキーワードです。
虫とか、動物って、デカければデカいほど、生々しい生命感をそこに感じるものですよね。
シラス軍艦やいくらを残酷と思わんのって面白いと思いませんか。
食材になると平気。
蛇だって、マムシ酒、蛇の蒲焼き料理だってあります。
結構うまいそうです。
車の運転をしていると沢山の猫せんべいちゃんに遭遇します。片手ハンドル、片手合掌にて、黙然しまう。でないと、車の事故を起こしてしまいますので。
無心にエビせんべいを食べる時。
そこに殺生だ、残酷だ、気持ち悪いなんていう思いを添えたら食べられません。
ここにヒントがあります。
「不識」という禅語があります。
フシキ…知らずに、深く考えずに、あれこれ余分な思いを持ち込まずに、自分の価値観を入れずに、実物通りに。
そこに蛇や猫ちゃんがつぶれていたことは真実。
だけど、人間サマはそこに瞬時に無意識・無自覚に「べつのもの」を持ってくる。「べつのもの」を観ているのです。
あなたがその蛇せんべいに添えた「べつのもの」「べつの負のイメージ」があったことが自覚されればその蛇の縛りから抜け出せることでしょう。
その蛇さんが安らかならんことを祈ります。
蛇さんに対して、過剰に負の思いを注ぎ過ぎない様に祈ります。
そこに殺、不殺の思い、私見を持ち込まないこと。それを不殺生戒といいます。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

生まれかわる。遺体は遺品。念仏で極楽へ。

回答の前置き…
悲しみなどの「嫌だ」と現実を拒否したくなる感情は、怒りの一種であり、煩悩です。
煩悩は悩み苦しみの原因なので、あなたは、蛇について、悲しみ(怒り)を解消できるような考え方をするほうが良いのです。

本題…
蛇は、死んだ瞬間にどこかで別の生き物に生まれ変わっていると思われます。
遺された遺体は、遺品であって蛇そのものではありません。
ですから、蛇の亡骸を虫が食べたからといって
悲しむ必要はありません。髪の毛や爪が切られたのと同じです。
蛇の死因が潰されたことなのか、死んだ後に遺体が潰されたのかわかりませんが、どんな生き物もいつかは何らかの形で死ぬのです。
それが普通です。夏が暑いのも普通、食べ物を食べたら無くなるのも普通。普通のことで悲しむ必要はありません。

さて、浄土宗では、その蛇のために「南無阿弥陀仏」と念仏します。
蛇のために念仏をとなえれば、阿弥陀仏の放つ光明が蛇(の生まれ変わりの生き物)に届き、その生き物はやがて阿弥陀仏の力で極楽浄土に生まれ変わることができると考えます。
そして、あなた自身も念仏すれば極楽浄土に生まれかわれます。
極楽浄土では、みんな光り輝く菩薩の姿になります。
蛇も菩薩様、あなたも菩薩様になって、極楽浄土で再会できるかもしれません。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

煩悩スッキリコラムまとめ