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人の輪に執着しすぎないためにはどうすれば良いですか

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人間関係がずっと苦手であり、家庭以外では人の輪に加われない生活を主に過ごしています。
しかし、いつの間にか他の人たちが楽しそうにしている姿を、恨めしく見るようになりました。
ふと鏡で見えた自分の顔に愕然として、外出がさらに億劫になっています。仕事の能率も低下しています。
周りのことばかり気にしすぎす、自分が芯を持つて生きていれば、こんな気持ちにはならないと思っています。
どのような心の持ちようで過ごせば、この気持ちが落ち着いていくのでしょうか。
ご多忙のみなさまには大変恐縮ですか、ご回答いただけると幸いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分の思いで自分の心に貼り付けたラベルを取ってしまおう

あなたは」人間関係が苦手」とおっしゃられるが、実はそこにこそ問題があるのです。
リアルの現場がそこにある訳では無いのに、自分でキメツケを起こしている、それを頭の中でリフレインさせている、そういうことを考えの中で反復させる❝という事をやっている❞こと!これを脳にさせていることが良くないのです。
「わたしは〇〇が苦手だ」とかいい続けると、脳の中では「私は〇〇が苦手だ」ということを自分で採用するものです。
たとえば心の病なども、多くの人が診断アンケートなどで白か黒か、という単純な仕組みですぐに病気にされちゃいます。私は、そういうアンケートなどでたとえば〇が7あったら、病気。〇〇症。というのには絶対に引っかからないように心掛けています。
人が決める事ではないのです。自分が元気なら元気。気分なんて天気と同じで晴れたり曇ったりがあって当然。
そんな事で人の人生を白黒左右されること自体、おかしなことだと思いませんか?(^<^)
だからまず、自分の脳は自分でラベルを貼りかえていくべきであって、私は〇〇なんだ、△△だからダメなんだ、などと思い込むのを止める事から始めましょう。
現代社会はそういうたぐいのものがあふれていて、人間がそれによって暗示にかかってしまうのです。
あなたは人間関係が苦手という暗示にかかっている部分があります。
まず、こう考えましょう。
「私は人間関係が苦手」とか言っている時は、絶対にそこに人はいない。
会話すべき人たちと接触する前からそう思っている。
実際、会話がかみ合わない、ちぐはぐな会話でも、話せば話したという事があるだけ。聞いたら聞いたという事があるだけ。そこにいちいち評価は要らないと思います。
単に、もとウマく自分の狙ったように上手に、理想的に話せなかったというだけ。
しゃべることしゃべって、聞くこと聞くだけ。
こうしてお悩みを打ち明けることだって立派なコミュニケーション、人間関係です。
全然問題なく他者との人間関係ができていたじゃないですか。
自分で自分をちっぽけなものにしないためにも、自分で貼り付けているラベルを取ってしまいましょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

無理せず徐々に、人と交わってみませんか?

KNさん、ご質問、ありがとうございます。

人の輪に加わることが苦手ということですが、人の輪に加わることは、それなりに大変で、

心痛めることも、それなりに多くなることでしょう。

「周りのことばかり気にしすぎす、自分が芯を持つて生きていれば、こんな気持ちにはならないと思っています。」

こうあなたは書かれました。

「自分の芯」というのは、とても大切なことのように思われますが、これが無くては、人と交わってはいけないのでしょうか?

もしかしたら、あなたはご自分の至らなさを、気になさっているあまり、人と交わることに恐れを抱いてしまわれたのかもしれませんね。

仏教では「諸法無我」といい、関係性を大事にします。

一方恐れは、自分への過度の執着であるように私には思われます。

執着を少しゆるめ、人とちょっとだけでも交わってみる。

不安や恐れは、きっと大きいことでしょう。

ですから、無理せず、ほんの少しでいいのです。

あなたが、人と交わることで、今まで結びえなかった関係性をもつことができることを、

心から念じております。

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真宗山元派上西山正善寺住職

質問者からのお礼

ご回答頂いた皆様、ありがとうございました。
気持ちが沈んでいるので、何度も文章を読み返して理解を深め、浮上していこうと思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ