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宗教のことで迷っています。

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初めまして。
早速ですがご相談です。

お坊さんにこんなことをお尋ねするのも非常に申し訳ないのですが、私は最近仏教ではない宗教に興味を持ち、いずれ信仰したいと考えております。

ですが私は仏教的な考えである輪廻転生を信じております。その宗教では輪廻転生はないものとして考えているみたいなのです。

この点以外ではその宗教の考えに大変共感しているのですが、こんな私でもその宗教を信仰してもいいのでしょうか?
それとも、やめた方がいいのでしょうか?

誰にも相談できないことなので、是非お答えいただきたく存じます。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

疑いの目を持つことも必要

気をつけるべきは、現在の日本には三大宗教の名をかたったカルト仏教や、新興宗教系のキリスト教が多数存在していることです。三大宗教であるかのように見せかけて、実は中身は「三大宗教の名前を冠した新興宗教」であるものが多いです。
まぁ一旦、肩の力を抜いて冷静に考えましょう。
宗教の前にまずアナタがある。自分が先です。
あなたから何かを吸い上げるような宗教は結局ウマいことを言ってあなたを勧誘して入信という名の契約をさせるビジネスですからご用心。私ども既成仏教教団も疑って結構ですから、あなたが今入信しようとしているものも平等に疑ってみましょう。(^

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信仰の要諦について

さくら様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

この度は、「信仰」に関するご質問を頂きまして、誠にありがとうございます。

まず、「宗教」に関しましては、少し下記の拙回答をご参照下さい。

問い「宗教とは」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1017725553.html

『・・本来の宗教の目的は、・・「幸せや安楽、安心を得るため、あるいは、より良い生き方、人生を歩むため」にあるものかと存じております。それが、不幸や迷い苦しみ、悲しみの原因となってしまっては誠に本末転倒となります。何故本末転倒なことが起こってしまうのか・・それは、全ての人たち、仏教的には衆生たちが、幸せ、安心、安楽となることを目的とせずに、自分、あるいは自分たちの集団さえ良ければいいというような、自己中心、自己満足、独善的な考え方がどこかにあるために生じる問題であるのではないかと思われます。そうではなく、いかに皆が幸せに、安楽、安心に過ごせていけるかを第一として、どの宗教でも、どの仏教の宗旨宗派においても考えていくことがまず大切になるのではないかと存じております。・・』

信仰の要諦は、「幸せや安楽、安心を得るため、あるいは、より良い生き方、人生を歩むため」ということと、もう一つは、「皆が幸せに、安楽、安心に過ごせていけるための良い生き方、人生にも繋がっているかどうかということ」が大切な判断基準になるのではないかと考えております。

「信教の自由」につきましては、これまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いておりますのでご参考下さい。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/信教の自由

問い「創価学会」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1017330696.html

上記の拙回答にて、「伝統宗教であれ新宗教であれ、その考え方が正しいかどうかは常に合理的に十分に色々と検証していくことが大切である」と述べさせて頂いております。とにかく心の底から納得できるまではしっかりと合理的に批判的に検証を繰り返していくことも大切になるかと存じております。

川口英俊 合掌

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当然、信仰は自由です。

宗教というのは信仰なので、合ってるとか間違ってるというものではないものです。
僧侶がそれを判断することもありません。
傍から見たらよくわからない宗教でも、それを信じ信仰している人からすれば、とても大切なものなのだと思います。
カルトであるならばまた話は変わってきますが、基本的にどんな宗教を信仰してもそれがいいと思うならいいのです。

ただ、私は浄土真宗の僧侶です。
他の宗教のことはわかりませんので、私がオススメできるのは浄土真宗だけです。

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始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...

質問者からのお礼

川口様

ご回答有難うございます。

焦らずじっくり考えてみたいと思います。
有難うございました。

釈心誓様

ご回答有難うございます。

カルトではなく、三大宗教のうちのひとつなので、大丈夫だと思います。
違う宗教のことなのに、ご回答して頂き大変助かりました。
有難うございました。

丹下様

ご回答有難うございます。
焦らず、じっくり見極めて、疑いの目を持って、それでも必要だと感じたら求めることにします。
ゆっくり考えてみます。有難うございました。

「宗教について」問答一覧

宗教や宗派ってそんなに重要ですか?

宗派のラベリングに重要性が見いだせず、むしろ弊害を感じることが多いです。 (800文字と長めです。) 以前とある牧師さんに教わりました。「キリスト教は浄土宗とソックリだ。日本向けのローカライズのために、あえて仏教に化けて広めた可能性を疑う研究者すらいる(笑)」 真偽はさておき、個人的には同感です。核心部たる念仏などは酷似しており、言葉が違うだけで内容はほぼ一致かと(素人目には)感じています。となると、キリスト教と浄土宗の本質的な違いは何でしょうか?人智を超えた神仏を※※教だけが独占できると見なす構造にも疑問があります。 ここからが本題です。その違い(ラベリング)は、諸々の軋轢を覚悟してまで保つべき、重要な違いなのでしょうか? 些細な見解の差で派閥や宗派が分かれていき、しまいには宗教戦争が起こるのだとしたら、単なるセクショナリズムと何か違うのでしょうか?5%の違いのせいで協力できず、残り95%の共通点を捨てているように見えます。ましてや同じ宗派や寺院の所属でも、個人ごとに意見はバラバラだというのに。宗派の上納金制度?などを聞いても、宗派はいわゆるビジネス上の"のれん"に過ぎないのでは?との現実的な疑問も浮かびます。 問いの対象は浄土宗だけではなく、宗教と道徳の境界線についてです。話がそれますが、中東問題などを理解する上でも避けて通れないテーマです。奇譚のないご意見を頂けると嬉しいです。 問を整理します。 「学べば学ぶ程に、宗教や宗派のラベリングに重要性が見いだせません。むしろなぜ拘るのかわかりません。私に欠けている視点を、どうかお聞かせください」 以下は補足です。 私はキング牧師やガンジーを尊敬しています。彼らは別々の信仰を持ちつつも、※※教徒のためではなく、社会全体の差別撤廃のために活動しました。それでいて、全ては信仰に基づくと明言しています。このスタイルに敬意を持つ反面、宗教宗派のラベリングに違和感を持つということは、何かを見落としているのでしょうか? 宗教とか宗派に拘りがなく、人に言われるまで気づきもしないのはダメなのでしょうか?

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お先真っ暗

色々な人に助けられて何とか生きています。婦人科系の病気は中々手強いです。 私は一応キリスト教の信者なんです。もう20年以上も教会には行っていません。キリスト教では自殺は絶対に認めません。私が薬を買っただの飲むだなとここで言っていますが、どうしても理解出来ないんです。理由や原因が何であれ心身共に弱っていて命を絶ってしまった人の霊魂を受け入れないなんておかしいって神父様に言った事があります。頑張った、ギリギリまで頑張ったけど駄目だった人を、神から与えられた命を勝手に消したのは許されないなんて慈悲の神様がする事なんですか?って。結局水と油で教会には行かなくなりました。聖書をこの時くまなく読みましたが、自ら命を絶つ事は許されないと弟子が言っていて、イエズス・キリストは言っていないなと。こんな私がおかしいですが、自ら命をを絶った人の霊感が天国で安らかに過ごせます様にと祈っています。それは間違っていると神父さまが言ったので、もう教会には行かない事にしました。お坊様はどう思われますか?やれ薬をかったとか飲むとか言った私が聞くのは変かもしれませんが。 政府は決して認めようとはしませんが、CORONAの第1波が治らない内に明らかに第2波が日本を襲っていると思っています。益々主人は日本には来れないだろうと、もう一生会えないかもしれないとさえ感じています。婦人科系の病気はさっぱりです。治りません。通院に疲れています。でも、何とか生きています。息も絶え絶えです。

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宗教とは

祖父の葬儀の時に「死後の世界はこうなっています」と何層かになっている図の説明を受けました。 仏教に限らず死後の世界、天国地獄も含めて「あることは知っているでしょ」からはじまることが多く、「なんでだれも見たことないのにあるということになっているのか」が解りません。 さらに私の認識では例えば仏教はゴーダマシッタルーダが釈迦のペンネームで小説を書いてそれを各宗派の開祖が読んで読書感想文を広めた、というイメージなのです。そう考えないと宗派毎の教典の違いや祭事の違いなど差が出てくることが理解できません。 宗教が絶対のもので揺るぎがないものであれば解釈が変わったり宗派が分かれたりするものではない。会派が別れたり解釈が変わるのは不完全な創作物である証かと思います。広めるために土着信仰と結びつくなどその尤もたるところです。 かなり偏った意見になっているのですが「こういうことになっている」だけで「なぜそういうことになっているのか」「それが間違いない検証は取れているのか」を説明しているものがあれば教えていただきたいと思います。 化学実験でいえば「再現性」、こうすればこうなる、というものです。それがなければ「どうなるか解らないのに信仰するの?」となってしまいます。 また、どうしても論理的に根拠がしっかりしているものでないと認められない性格なのですが、「いやいや宗教というのはそういうものじゃないんだよ」というのがあれば教えていただけないでしょうか。

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宗教、神道、スピリチュアル

今の世の中は情報で溢れています。 スマホって簡単にいろいろ調べることができて、情報で溢れかえっています。 心がツライときや精神的にしんどいときに、 精神的に弱く強くなりたいなぁ 傷つきやすい性格を変えたいなぁと思い、 検索魔になって検索すると、 あれやこれやいろいろ出てきて、 何が良くて何が悪いわけではないと理解していますが、情報が多すぎて、よくわからなくなってきます。 何がホントなのか?何を信じていいのか? きっと私意外にも藁をもすがる思いで、いろいろ検索する人もいると思います。 (確固たる宗教など崇拝してる方は、このような迷いはないかと思いますが…) 信じたいことだけ信じてればいいのでしょうか? 仏教的な目線は下記のことはどのように思われますか? 全ての出来事は引き寄せ? 出会う人や出来事は偶然?必然? 自分に起こる出来事は必ず必要? 乗り越えられない試練はない? 健康に問題があるときは暗示? 仏様にお願い?神様にお願い? 宇宙に任せる? 自分の胸にすーっと収まった言葉こそがご縁があり、その時に、ん?なんか腑に落ちないなって思う言葉は受け入れなければいいのでしょうか? そのような言葉でも後から受け入れるようになるかもしれませんが… 私自身、家に仏壇もあり仏教ですが、正直、意識するときはお墓まいりや法事の時だけです。ですが、今度はお墓があるお寺に仏教講座があるので、参加しようと思っています。 自分勝手な考え、散文、お許し下さい。 お手数お掛けします。よろしくお願い申し上げます。

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信仰ってなんだろう

私は、信仰するということの概念について悩んでいます。何故なら、私は、神様や仏様の存在を信じてはいるのですが、それは人間の心の内にある概念に過ぎず、形而下で捕捉できるものではないと思っており、この考え方が取っ払えない以上は心底から神仏を信仰することは叶わないのではという疑念を抱いているからです。 私がこのような考え方をもったきっかけは、遠藤周作さんによる著書「沈黙」を読んだことです。ご存知でない方に簡単にあらすじを説明しますと、キリスト教の弾圧があった江戸時代に、ある宣教師が拷問の末に棄教したという報を受けてその弟子が真相を求めて来日し、救いを求める弱い隠れキリシタンや彼らを拷問にかける大名と出会いながら、仏教との相違や絶対神の是非について考え、葛藤するというものです。 私がこの小説で衝撃を受けたのは、諸行無常の考えを礎とした仏教を信仰しているはずの大名が、キリシタンだというだけで農民の魔女狩りを行い、キリスト教の弾圧に執心していたことです。 宗教というのは、固まった思想を提示することで人々の心を安定させたり、民衆を統制させる側面があるとは思うのですが、劇中のように政の道具としての扱いにとどまったり、科学が普及した現在において金稼ぎのダシに成り下がってしまったりする宗教文化を多々見ると、もしかして心の底から神仏の存在を信仰することは最早なり得ないのではないか、という疑念を感じずにはいられません。 こうした疑念に輪をかけるのが、自然の脅威です。現在猛威を振るうコロナウイルスや、台風、地震などといった災害は、私たちにとっては害悪でしかなく、早期の収束や撲滅を願われるばかりですが、それらの現象は我々の嘆願とは関係なくただ事実として存在するのみであり、これらを既成の宗教概念によって説明するには限界が生じるのではないかと思います。それを考慮すると、我々に都合の良い神仏への疑念が益々助長されるばかりです。 私は、目的によっては多少の方便は許されても良いと思っていますが、神仏を本気で現実のものと信じている方々のことを考えるとどうしても後ろめたいものを感じます。こうしたことについて、僧侶の皆様はどう思われるのでしょうか。冒涜と思われるのでしょうか。それとも、これも信仰と思われるのでしょうか。 大変無礼な質問であると承知しておりますが、何卒宜しくお願いいたします。

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