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心にゆとりがありません

回答数回答 4
有り難し有り難し 45

嬉しいはずの新築を建てますが世帯主が43歳で今からローンを定年以後も払い続ける事を考えると心にゆとりがありません。
人間なので前向きに考えるときもあれば、気持ちが沈む日もあります。
気分転換すればいいのでしょうに。と思われるかもしれませんが気分転換する気にもなれません。
どうしたら良いでしょうか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

家があれば家に悩むのが人間です。

はじめまして。亀山純史と言います。私なりの回答をさせていただきます。仏教の経典の一つに、『無量寿経』という経典があります。その中で、私たちの在り方を描写して「田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。…(中略)…また、田がなければ田が欲しいと悩み、家がなければ家が欲しいと悩む。」と説かれています。家があればまさしくローンのことや、近年の異常気象による思いがけない水害、震災、火災等で、たちまちなくなってしまうかもしれないと心配します。では、家がなければ心が落ち着くかといえばそうではありません。ローンをしてでも新築の家に住みたい、と思うものです。つまり、家を持っても持たなくても、私たちは悩む存在なのです。では、私たちはどう生きたらよいのでしょうか。私にとっての仏教は、「今」を「生かされていること」に気づかせてもらう教えです。この世は「さまざまなつながり(縁起)」の中で成り立っています。決して、自分一人で自分が存在しているわけではありません。そして、その「さまざまなつながり」は、人間関係だけにとどまらず、ありとあらゆるものが関わってきます。たとえば、時として私たちに災害をもたらす大自然もそうでしょう。また、多くの命ある生き物もそうです。そして、そのことに目覚めた方が仏様です。しかしながら、私たちはそのような「さまざまなつながり(縁起)」によって生かされていることを、常に感じながら生活することは出来ません。でも、静かに両手を合わせて仏様を想うとき、ものがあればあったで悩み、ものがなければほしいと悩む私をも決して見捨てることのないつながり、そのような中に、私自身生かされているに少しでも気づかせてもらえるでしょう。そしてそれが、心のゆとりへとつながる一つの道になるのではないでしょうか。少しでも参考になれば幸いです。

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おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

私もローンを抱えています

心のゆとりがなくなるのは、それを考えるからです。
考えだしたらきりがありません。
うちの立派なお堂は師が物価が上がる前にと、立ててくれたお堂ですが、まだまだローンがあります。
以前川崎の酒屋さんで父親の借金で13億円を抱えておられる方とお話ししました。
結局返していくしかないのです。だけど、そんな事をずーと考えている訳でもありません。
考えた時だけ暗くなるだけです。その方は返していくためにどんどん仕事を効率的にこなしていかれました。まだまだ億単位の借金があるそうですが、着実に返していっているそうです。
私も、抱えている借金の事を考えるとシコーテーシになります(笑)
でも病気も老いも死も、誰でもみんな迎えるのですが、ずーっとその事を考えて握っていたらどうなるというのでしょう。考えている間も時間は流れています。
いくら死の事を考えたとしても生きている間は生きているのです。
延命を祈る間も減る命です。だったら生きるほかありません。
借金、ローンも返すほかありません。ああ、返せるかな…、なんて考えるだけ無駄です。
高い山のぼりは、下をみると危険です。目の前の一歩一歩を踏み出していれば、ちゃんと前には進んでいっているものなのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

不安に勝る安心を得ること

仏様は安心をくださいます。
いつか死ぬ身の私を今抱いて「必ず仏にする」とおっしゃるのです。
だからいつ死んでもいいいのちを今生きているのが私です。

ローンに悩むのであれば、もしもの時の為の案を用意しておくこと。
専門家に頼みそういうことをシミュレーションしておきましょう。
ローンが払えなくなったらどうなるのか、どうすることができるのか。
いくつか方法論があれば安心です。

「心のゆとり」というものは、私のはからいを超えたところから頂くものです。
ローンのことならその道の専門家のご意見を聞きましょう。
人生のことなら仏様の智慧に聞きましょう。

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おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学の身でありますが、多くの方のお支えの中で日々精進しております。 仏教には、「私が知らないことを仏様から聞かせて頂く」という大切な側面があります。 聞かせて頂くのは、仏様の智慧であります。 今まで仏様のご縁が遠いと感じておられた方が、少しでも仏法に触れるご縁になれば幸いです。

悩むことそのものを考えてみましょう

悩むということそのものについてちょっと考えてみましょう。人生相談にご来山される方は大きく二つに分けられます。人生に悩む方もおられれば、人生を悩む方もおられます。人生に悩むとは、人が生きていく過程において生じる、他人との軋轢(アツレキ)や、病気や、貧困などで困る状態です。これをAとしましょう。人生を悩むとは、人が生きていることそのものについて、意味や意義や理由など、あれこれと思いを廻らして答が見つからない状態です。これをBとしましょう。
 Aの解決において必要なのは、知識や才覚や人のつながりなどであり、昨今、大流行のスキルアップや思考の傾向を変える訓練などが役立つ場合もあります。要は、自分を含め、何か因果関係が明らかな力で解決し得ます。最もわかりやすいのは、病院へでかけて病状を明らかにしてもらい、治療を受けて快癒することです。ところがBには、Aのように、誰かにケンカの仲裁をしてもらうとか、気に入らない職場でも気持を入れ替えて頑張るといった根本的あるいは具体的解決法がありません。自分がわからないだけでなく、誰にも教えてもらえません。生きていればやがて〈その時〉が来て、〈気づき〉があるとでも言うしかありません。だから、まず、悩みがある方は、AとBとどちらを悩んでいるか、悩みそのものをよく見つめてみましょう。
これが案外、はっきりしているようで、そうでもないのです。もしもAならば、当山では心がけなどについてお話しし、場合によっては医者や弁護士などをご紹介もします。もしもBならば、話をよく聴かせていただき、当人と一緒に悩みの形を見つけ、それに合った宗教的思考や実践方法などをお伝えし、場合によってはご祈祷やご加持といった提案もします。当然、AとBが入り交じり、ウェイトが変化して定まらないケースもあります。
私たちは悩む時、いつしか呼吸が細くなっています。この呼吸を胸でなく、腹で行うようにしてみましょう。意識的にお腹を引っ込ませながらゆっくりと吐き、吐ききったならば、反動でふくらむお腹へゆっくりと吸うのです。そうすると、いつしか悩みが対象として客観的に観えてくるかも知れません。いつしか〈自分〉が、〈観る者〉としてゆったりと〈居る〉のです。こうした時間の体験はきっと何かの役に立つことでしょう。運命転化を祈っています。
(詳しくはブログ『想いの記』をどうぞ)

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ