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ごはんが作れません。

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有り難し有り難し 18

夫、3才、1才の子どもがいます。
数ヶ月前からの気持ちの落ち込みや食欲不振で心療内科にかかっています。元々料理も得意ではないところに、子どもの偏食、自分も台所に立ちたくなくて、ここのところ毎日手抜きの料理です。
下の子の夜泣きが数日続き、主人は別の部屋で寝るようになりました。主人からちょっとしたことを注意されるだけですごく気持ちが落ち込み、いてもたってもいられなくなります。何もする気になれないのに、過去の失敗ばかり思い出しては後悔してしまいます。自分がどうありたいのか、何がしたいのか、わからなくなります。どう心を保てばよいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ご飯という考えを捨て❝吸収❞❝摂取❞という考えで乗り越える

わかります。子育てって人生史上、最大の関門です。
本日までよくぞ生きていてくれました。ありがとうございます。
うちの6歳の子どもは朝から毎日チョコパンやメロンパンしか食べません。
最近ようやく総菜パンを食べられるようになりました。
6年間で朝食に白飯を食べたのは数回。
朝から菓子パン!?というのは私には理解不能でした。…本当に食べられない子っているのです。
臭いに敏感な子や体が受け付けないのです。
ゼッタイに大人の感覚で無理強いしたり、何で食べないのよっ、とか思わんでください。
偏食は一生続くわけではありません。あなたもある時から急に何でも食べられるようになったはずです。
時期が来れば何でも食べられるっ!ようになります。
色んなものを食べてくれるに越したことはないですが、元気で生きててくれるだけでもありがたいこと。食事、お菓子、ケーキ、惣菜というジャンル、隔てを取ってください。栄養素を摂取さえさせればいいのだと思えばいいのです。体が最終的に吸収するのは液体レベルになってからですからジュースやスープ、ご飯の炊き汁、自家製麵、自家製パン、味噌汁に混ぜたり、けちょんけちょんにしてコッソリ混ぜ込んだり、ミロやセノビックル、プロテインいちご味などでも結果的に体が吸収します。
旦那は別の部屋で寝てくれてOKです。
その方がお互いのストレスにならずプラスだと考えましょう。
私はHOTOKEの修行、禅の精神によって平気になりましたが、通常の男性は子供の泣き声を聞くと大体【発狂しそうに】なります。これは女性にはあまり言えないことですから口にこそしません(だってそんなこと言ったら人によっては離婚!とかスゴイ反応を起こされるから)。
子供の泣き声をずーっと聞いていると【あ、発狂しそうに】なる男性は実際に多いものです。
これは女性には意味不明かもしれませんが、男性からは逆に「なぜこんな悲痛な叫び声を聞き続けていて女性たちは平気なのだろう?」と思っているものです。
ご主人はあなたに「なんとかしろ。お前がダメなんだ。」とダメ出しをしているようでもホントのところは単に「あの、そのギャーギャーをなんとか、して、くれま、せんかね…(-_-;)」と❝発狂寸前❞なだけだったりします。
このように物事は冷静に噛み砕くと話でも吸収されやすいように「やはらかく」「吸収できるように」、をテーマにしましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お忙しいところ、長文でのお返事ありがとうございました。すぐ目先の不安や心配事で頭がいっぱいになって、考えがまとまらなくなるのですが、お返事を読ませていただき、心が軽くなりました。今はしんどい時期ですが、いつか「あの頃はしんどかったな」と子どもが食べ盛りになる頃がくるのだろうと考えられるようになりました。もう少しがんばってみます。

主人からの言葉も注意や文句と捉えるのではなく、やわらかく受け止められるようになりたいです。男性側の意見もいただき、ありがとうございました。

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