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お釈迦様を知りたいです。

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有り難し有り難し 28

今月の頭に、有名な神社に行って、家の間取りや、家族の原因を見てもらいました。今は良い方向に向かっているので、本当に感謝しています。

お釈迦様のお話を聞き、すごく知りたくなったのですが、
生き方について学びたいなと思っております。

お釈迦様を深く知りたいのですが、どうやったら知ることができるのか教えてください。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お経はお釈迦様の説法です。

お経は八万四千種類あると言われます。
現在、実在するのは1万種類強とも言われます。
これらのお経は、お釈迦様が説かれたもの、またお釈迦様と同じ悟りを得た仏様が説かれたものです。

お釈迦様の生涯はネットでも簡単に見つけることができるでしょう。
大切なのはお釈迦様がどんな事をお説法なさったかです。
お経によって内容は様々です。
難しい論理や真理を説かれたものや、昼ドラに出てきそうなサスペンスの物語なんかもあります。

「お釈迦様を知る」ということは=「仏教を知る」ということです。
本屋さんで気になった仏教の本を読んでみてもいいと思います。
私は釈徹宗先生の著作をオススメします。
お寺に参って法話を聞いてもいいしょう。

そして一番いいのは信仰することです。
仏教は学問ではありません。
宗教は信仰から始まります。
私は『「私は仏教徒です」と言える人が少しでも増えたらいいな』と思って僧侶をしています。

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始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...
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自らが覚者になる事

参禅だの、坐禅って結局、なにするの?
ハイ、お釈迦様の体験をズバリ自分で味わう事なんです。
仏を知りたきゃ、自分がなればいいのです。
具体的には、静かにすわって自分に向き合い、坐っていると次々ぽんぽんと出てくる思いを更に別視点でホッタラケにしておきます。そしてそこに自分の判断や評価をくわえずに過ごす。
そうすっと、ある時から、ノーミソが左半球から右半球に切り替わって、モノは見えながらも考えを絶した状態になります。
モノは見えても聞こえても、思いが出てきても、その思いに影響されないから縛られない。涅槃、悟り、ホトケ状態になりますです。
通常これを悟りと言いますが、禅では悟りがスタート地点。(皆ここを勘違いしている)
この状態をキープしながら生きる事が修行ならぬ、修証ですわいの。
その状態になることこそ宗教宗派、年齢性別、県民性問わずに、本当のお釈迦様を知るということです。
だって、そうでない絵空事のホトケさん勉強したってしょうもないも-ん。
歴史学んだり仏教知識学んでも知識貯めただけで役に立たないもーん。
仏教は「仏サマとかいうアイドルに会いに行くスタンス」ではないのです。
むしろ自分がアイドルになってしまおう、なのです。外から眺めていたって力にはなりません。
自分が仏と言う神格化して祀り上げてしまって「ほとけさま化」してきたナゾの存在の精神状態をじかに味わう教えです。
あなたの求めとは違うでしょうが、心の片隅に置いておいてください。いつかきっと力になります。

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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

ありがとうございます。

自分と向き合ってみたいので、深く知りたいと思います(^^)

「お釈迦様・ブッダ」問答一覧

釈尊の教えについて疑問があり悩んでいます

人生がつらいので少しでも楽になりたくて仏教の勉強をしているものです。 お釈迦様の説いた教えについて質問です。 最近、初期仏教の経典スッタニパータを読みとても感動しました。 その結果お釈迦様はこの世の全てが縁起によって繋がっており結局は全てが同一の価値ある存在である事を理解すれば最終的には自己に囚われることもなくなり現世の苦しみをなくすことができると説いているのではないかと自分なりに解釈しました。 しかしそう考えるといくつかの疑問が浮かびました。 スッタニパータでは父母や我が子に対する愛執を捨てる事を悟りへの道とする一方で、父母に従うことが幸せであり老いた父母を養わない者は卑しいと書いてあります。 しかし無我の境地を目指すのであれば血縁関係に固執してはいけないのではないでしょうか?何故父母に限定して言及したのでしょうか?目の前で父母と知らない人が同じ様に病気や貧困や老いに苦しんでいてどちらかにしか手を差し伸べられない状況の時、知らない人を切り捨てて親子だからと特別扱いして父母に手を差し伸べるのは果たして正しいのでしょうか?両親が仏法を汚す人間であってもそれに従うことが幸せなのでしょうか?  私の父親は酒に溺れた非常に暴力的な人間で犬や猫に対して無益な殺生もしていました。母も暴力的な人間でしたし噓つきでした。私はこの両親に従うべきだったのでしょうか?老後の面倒も見なくてはいけないのでしょうか? また怒りや嫌悪についても疑問があります。 スッタニパータでは怒りや嫌悪を煩悩とし捨てることのできないことをなまぐさと言い汚らわしいことだと言う記述があります。 しかし世の中ではしばしば想像を絶するほど卑劣で残忍な事が起こります。  例えば女子小学生に乱暴して殺害した犯人をたまたまニュースで見て犯人に怒りや嫌悪感を覚えるのはなまぐさなのでしょうか?実際に知り合いの僧侶はその事件について犯人を殺してやりたいとまで言っていましたが彼は僧侶失格なのでしょうか? 自分の周りでより強いものによって不当に傷つけられている弱者を見ても怒らず苦しみも感じないことが美徳なのでしょうか? 他の記述が自分の人生価値観を根本から変える素晴らしいものだっただけに、私はこの二つの疑問に苦しみ悩んでいます。 悟りを目指す僧侶の方々にお話を聞きたいです。

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真言宗と浄土真宗の中のお釈迦様

はじめて質問させて頂きます。 プロフィールに記載しておりますが、家族の問題を抱える中、昨年暮れに仏教の教えに出会い、本当に心が穏やかになれた体験を得る事ができました。 それまでの私は、実家が高野山真言宗のお寺とご縁があり、結婚後も実家の仏壇を預かり、月参りや納骨堂のお参りをはじめ、いろんな関わりを持ってきて、仏教と深く関わってきたつもりでした。 しかし昨年暮れ、心身共に行き詰まり疲れ果てた時に出会った教えは浄土真宗(真宗大谷派)の教えだったのです。 その時はじめて、今までずっとお寺に関わってきたつもりだったのに、「仏教の教え」についてほとんど何も知らなかった事がわかったのでした。 それから改めて今求道中なのですが、今まで聴いてきた真言宗のお経と、浄土真宗のお経がまったく違うのにびっくりして、元は同じお釈迦様なのに、どうしてこうも違うのか。 両派ともご本尊がお釈迦様ではないとはどういう事なんだろう。 両派の中の、お釈迦様の教えと、各ご本尊様(大日如来様と阿弥陀様)の関係性って何なのだろうと、今切実に知りたく質問させて頂きました。 私にとって真言宗は小さな頃からずっとずっと触れてきた大切な宗派であり、また浄土真宗は昨年暮れ、本当に行き詰まってどうしようもなくなっていた時に、私の心を救っていただいた大切な宗派なのです。 どちらも私にとっては大切な宗派なので、どうしたらいいのかわからない状況になってしまいました。 ただその中で、元はどちらもはじめはお釈迦様だったのでは?と思い至り、タイトルにある質問をさせて頂きました。 どうぞよいお導きがあればよろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 6
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