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人が怖いです

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有り難し有り難し 34

前回はとても心に響く丁寧な回答をいただき、とても感謝しております。
今回のご質問なのですが、私は人が怖いです。数年前までは全くこのような事はなく、人と話し、人と触れ合い、人と接することがとても好きでした。しかし、歳を重ねると共に世の中の裏を見てしまい、人を恐れ、人を避けて生きるようになりました。外に出る事ですら怖いと感じ始めるようになりました。この世の中の、通り魔殺人や、たちの悪い一部の人間の存在が自分をこのようにしてしまったのだと思います。友達にしても、この人は信用できるという人が1人もいません。女性に関しても、結婚詐欺や金目的の接触には合いたくないですし、良い人と悪い人のはっきりとした判断基準がないため信用したこともなく、恋愛経験も皆無です。常に人を恐れ、疑い、時には耳を貸さずに1人で生きています。でも、これから生きて行く上で必ず人と関わりながら、生きて行く必要があります。そして、自分の目指す仕事場は必ず人と関わりがあります。ですが、突然その職場にコワイ人達が入ってきて、金をゆすられたらどうしよう、などと、常に恐怖心と持っています。どうすれば、人を信じ、以前のように人と関われるようになるでしょうか。また、世の中の全ての人が悪い人でない事は分かってます。しかし、一部の人間がとても怖いんです。普通の人を装って近づいてくる一部の人がとても怖いんです。そんな人がたくさんいるこの世の中で、どう生きて行けばいいのでしょう。人間不信を治したいです。
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

思いの上塗りをしないで、そのままを受け取る。

どうせ疑うのなら、不幸せにさせてしまう考え方やものの見方こそ疑うべきです。
自分の考えを通して物事を取り扱う事は、物事を枉(ま)げて観ている姿であることを知りましょう。
疑いのタレの上塗りをせず、白焼き状態で観てみましょう。
人間というのは元々まっさらな焼き鳥、ウナギの白焼きに、タレを塗り重ねるように、素材そのものの味ではなく思いタレの味に変えているのです。
素材そのもの(真如)を味わうのは塩味、白焼きが一番です。
(あ、食事に関しては私はタレ派ですが(^<^))
仏道修行とは、自分の思いのたれ(観念のタレ)をかける前、塗る前の世界を味わう行です。
自分の考えのたれを重ねて枉げて見ている姿に気づいたら、それをしない事です。
思いのタレを塗って改変されてしまう前を味わえるとよいのです。
そもそも私たちの眼も耳も、それがニセモノ、本物に限らず、まずまっさらな「そのもの」をみています。
たとえば目玉は、それがモナリザの贋作であっても、それをそのものとして、そのまま映すのです。
ニセモノだとか、本物だとかを問わずにそのままを見ています。
思いの上の判別、分別無しに、善人も悪人も、そのものを、そのまま、受け取っているのです。
善し悪しだとか、自分にとっての好き嫌いの取り扱いは、その直後です。
そのものをダイレクトに、そのままに、塗りたくらずに出会ってみましょう。
誰もがもともと、そのままを味わっているのですが、その直後に疑いのペンキを塗っているのです。
自分の私見、私的見解、脳内情報を塗らずに、そのものを見る。
それがお釈迦様の正見です。

恐怖にしても同じことが言えます。
かつてそういう体験があって、同じ体験をしたくないからおびえるのです。
おびえているものの正体は、自分の思いのタレにおびえているだけです。
相手が悪い奴でも、目はおびえない。思いの方でビビるのです。
それを知った人間は、実物そのものを観るから恐れが無い。
まさか、自分の思いのタレによって、事実が捻じ曲げられているとは、ワカランものです。
自分のみつめながら、ものごとに対して、思いのたれを塗りたくって、そのものの素材の味を変えている自分の我見を見極めて頂きたいと思います。
恐怖は自然に消えます。
よかったらフェイスブック参禅会にご参加ください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

人を見る目を養うのは実際の経験から

梨男様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

この世では様々な営みの中、社会生活の中で生かされている以上、人とも否応がなく関わっていかなければなりません。もちろん様々な人がおられるだけに、自分にとって良い人、好きな人、嫌いな人、そのどちらでもない人と、時々の状況や捉え方次第でも色々と変わってしまうのではないかと存じます。

仏教におきましては、代表的な苦しみの一つとして「怨憎会苦」がございますが、これは、私たちは、憎しみ怨むほどに嫌な者、嫌な事にも出会っていかなければならないという苦しみのこととなります。

「怨憎会苦」 に関しましては、これまでにも下記の各問いにてお答えさせて頂いております。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/怨憎会苦

この世では、無明(根本的な無知・愚かさ)・煩悩により悪い行いをしてしまう人が多くございます。そのため、自分が純真で、素直で、無垢な心をもっておりますと、より鮮明にそのような悪い行いをしてしまう人々のことを嫌悪してしまうのも当然のこととなります。

梨男様は、誠に純真で、素直で、無垢な心をお持ちであるのではないかと存じます。どうしても、大抵の場合、やがて社会で色々と良くも悪くも経験し、揉まれる中で、そのような善き心を失ってしまうことになってしまいますが、どうかそのまま大切に育んで頂けましたら有り難くに存じております。

とにかく、社会生活を営んで、人と関係していく上において、恐怖心や不信をもってしまうのもある程度は仕方のないことでありますが、あくまでも人は人、自分は自分として、もしも、怖いことがあったとしても、跳ね返していけるだけの強さと自信を兼ね備えられるように調えられていかれると良いのではないかと存じます。

そして、失敗をあまり恐れ過ぎないことです。拙生もこれまで色々と人間関係での失敗がございましたが、何とか都度に反省して活かせてこられたのではないかと存じます。その実際の経験が、人を見る目として徐々に養われ、少しずつ良いもの、悪いものを見抜いていける力にもなるのではないかと思います。

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

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おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

そのままのあなたを救う仏様

あなたはあなたのそのままに救われていく教えが浄土真宗です。
別に人間不信でもいい。
私達人間は決して完璧ではありません。
私達は凡夫であり、愚かなものです。
裏切り、嘘をつき、当たり前に他の命を食らって生きています。
そんな私を必ず救うとおっしゃる仏様がおられます。
変わりなさいとはおっしゃいません。

>どう生きて行けばいいのでしょう。人間不信を治したいです。

それならば仏法を聴聞することです。
もしかしたら変わることができるかもしれません。
また変わらなくてもよかったと思えるかもしれません。
そのままに救わていくのが浄土真宗の教えです。

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おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学の身でありますが、多くの方のお支えの中で日々精進しております。 仏教には、「私が知らないことを仏様から聞かせて頂く」という大切な側面があります。 聞かせて頂くのは、仏様の智慧であります。 今まで仏様のご縁が遠いと感じておられた方が、少しでも仏法に触れるご縁になれば幸いです。

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