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仏教に生きる

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有り難し有り難し 93

先日、どなたかの質問に対するお坊さん方の答えが目の覚めるようなものでした。
実はつい最近まで原始仏教こそ仏教なのだと信じて瞑想に励んでいたのです。幸い海外の夏休みは二ヶ月以上あるので、俗世間から離れて実に充実した心の平安を保つことは容易でした。
ところがそんな調子で実生活が始まり、いつものように社会と関わって生活するようになり、欲がないのでなすこと全てが無意味に思えてきたのです。確かに、感情や欲に左右される問題は解決出来たのかもしれません。しかし、私という人間が仕事を持ってお金を稼ぎ、親として子供の健康や幸せを考えたときに、その立場を無視して一人原始仏教徒として忠実に生きてゆくことは不可能だと感じました。
そこで日本の仏教のお坊さん方の言葉を聞き、とても救われました。
生きるからには精一杯生きたい。
無責任に心の伴わない行動はしたくない。
完全とはいかないけど、仏教徒として出来るだけの努力はしつつ、人間人生を全うしたい。
人間くさく、泥臭く生きても救われる道がある、それが日本の仏教なのだ、そう理解しました。
このような理解で良いのですか?
何せ、不器用でくそ真面目な性分で、熱血にお釈迦様の教えに従おうと思うが故に行き過ぎて壁に打ち当たる、の繰り返しです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

歩々 是れ道場(ほぼ これ どうじょう)

歩々 是れ道場

 私達が歩く一歩一歩、その場その場が仏道修行の道場であるという意味です。この世は修行の場であり、私たちの人生は修行の旅である。そう考えれば、様々な苦悩や困難も修行の機会と考えることが出来ます。一つ一つの出会いも、有り難く思えます。

 修行と言うと、お経を読んだり坐禅をしたり、特別な「行」を想定することが多いと思います。確かに、そういう行も大事です。でも、人によってはハードルが高く感じる場合も多いかもしれません。
 
 特別な「行」でなくても、我々が日常生活の中で実践できることがあります。それが「四摂法」です。仏道修行者(菩薩)が菩薩が人々を救うために用いる四つの方法をいいます。
   布施(財物でも、言葉でも、手助けでも、惜しまず分け与える。)
   愛語(相手をいたわり、思いやる言葉をかけてあげる。) 
   利行(他者を利するよう、行に努める。)
   同事(自分と他者との間に壁を作らず、相手の立場に寄り添う)

 私は曹洞宗の僧侶ですので、道元禅師が書かれた『正法眼蔵 菩提薩埵四摂法の巻』を中心として教えを学び、微力ながら実践に努めております。でも、「四摂法」の教えはいわゆる原始仏教の経典にも見られる教えですので、原始仏教とか大乗仏教とカテゴライズする事無く、実践に努めてください。

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おきもち

 目の前の方の悩みや気持ちをしっかりと受け留め、心を開いてもらうように努め...
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範疇を取り払う!

ゆるん さん
素晴らしいですね!
原始仏教の瞑想を極めようとしたり
欲を無くそうとしたりとか、探求心が素晴らしい。

原始仏教でも、慈悲の精神があるれている個所もありますし
在家の形で生活を普通に営みながら、仏教に帰依し
精一杯生きるという、箇所も見られます。

日本の仏教でも、瞑想を中心に、欲を抑え込むという事があります

なので、これが、原始仏教、これが日本仏教とか範疇を限らず
ゆるんさんが精一杯生きようとしている中に、仏様を観られれば
宜しいかと思います。

私の考えは、精一杯生きるという事をよく表現しているのは
宮沢賢治の『雨にもマケズ』です
「雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
欲はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい」

デクノボーの精神という人もいます。
自分を勘定入れず、他人を思いやり
精一杯生きる
これがいいのかなと、私は考えております。
私の考えですから
他の僧侶の方のご意見も参考になさってください。
合掌礼

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おきもち

お寺の法務(法事などのご先祖の供養)と 唱題行・写経・法話・カウンセリン...
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質問者からのお礼

ありがとうございます。
そうですね、この人生を良くいきてこそ、より良い結果が生じるのですね。
あまり究極を求めすぎず、今この一瞬を感謝しながら生きてゆきたいと思います。

「仏教全般」問答一覧

「麼吒」の梵字を教えていただけますか?

はじめて投稿させていただきます。 とある梵字が分からず苦慮しており、どなたか教えていただくことはできますでしょうか。(教理上の理由で回答が難しい場合には、そのように仰っていただければと思います。密教に関することで在家が伺って問題ないことと、伺うこと自体が失礼なことの境目が分かっておらず、もし失礼でしたら申し訳ありません) 空海筆『秘蔵宝鑰』冒頭部分にて「麼吒の恵眼は無明の昏夜を破し、日月の定光、有智の薩埵を現ず」という一文があります。吒は日の種子、麼は月の種子を表して密教行者は修行の際にこれを左右の目において修行すると辞典や註釈にあるのですが、吒の字が一体どの悉曇文字であるかが分からず困っています。 とある注釈書には「慢」を表す字義の文字が、とある辞書には字義「住處」の文字が、『青龍寺儀軌』にはまた別の文字(判別できませんでした)が書かれてあり、同じ「タ(もしくはダ?)」をふりがなとする悉曇文字の中で何が相当するものなのかの解釈が文献によってバラバラのように見受けられます。おそらく悉曇文字が音写された漢字が時代と人によって変遷しているのかもしれませんが、結局のところこの修行を行う際に観想する「麼吒」の吒の字はどれに当たるのか、もし可能でしたら教えていただくことはできますでしょうか。 また、そもそも種子に字義解釈と相応する仏尊があることは知っていましたが、月の種子とか日の種子とかいうのはどういう分類法から生まれた解釈なのでしょうか…この辺りの思想がもしわかる文献があれば教えていただけないでしょうか。 大変申し訳ございませんが、よろしくお願いいたします。

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仏さまは「人を殺せ」と命令しうるか?

 いつもお世話になっております。先日ツイッターを見ていたら、 「私が信仰を辞めた理由は、アメリカに住んでいたとき、宗教の 違う信者10数名に対し『もし、神が、人を殺せと命令してきたら、 あなたは人を殺すか』と尋ねたら、全員が『殺す』と答えたから」 「『もし、ここで誰かが、『神はそんな事を命令なさらない』と 答えていたら、私も信仰を続けた」 「彼らは、皆生活や対人面で問題を抱えている。宗教は、人を 救えていない」 と言っている方がいました。  それに対し、 「シューキョーなんてそんなもの。シューキョーをやってる奴ら のことは、狂人だと思って扱えばいい」 と言っている人がいて、その発言には19もの「いいね」がついて いました。  私は、あくまで、この10数名に問題があると思いたいのですが、 実際、私は色々なお寺で問題のある僧侶や信者をたくさん見てきて います。  既婚なのにヤリ目ナンパする者。友だちになるふりをして 近づいてきて、他の信者をいじめる者。宗教をオカルトと勘違い している者。境内に女がいると、後をつけたり見つめる者(お寺 を発展場と思っているのでしょうか)。  あげく、「慈悲殺生」など、荒唐無稽な論を唱える僧侶もいれば、 「他の宗派はろくでもない」などと宣ったり、大きなお寺はお守り やおみくじなど、霊感商法まがいの事を平然としています。  戦国時代には、徳川家康の軍勢が、のぼり旗に念仏を書いていたり、 今も、外国では仏教僧団が中心となってイスラム教徒さんを弾圧 しているそうです。これじゃ、誤解されるよな。と思います。  しかし、本当の仏様の教えには、 「体を切られても怒るな」 「恨みに恨みで返すな」 という平和的な教えがあることを知っています。ですが、これを 知っているのは一握りの仏教徒でしょう。  私はお寺の山門をくぐるとき、周りに人がいないことを確かめて からくぐるようになりました。また、出るときに人と鉢合わせして しまった際は、その人に頭を下げるようにしています。 「私たちはが欲の塊ではないぞ」 とアピールするためです。  仏さまは、「人を殺せ」なんて命令しませんよね?あくまで、 その人たちが愚かだっただけですよね?混乱しています。

有り難し有り難し 8
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ