仏教に生きる
先日、どなたかの質問に対するお坊さん方の答えが目の覚めるようなものでした。
実はつい最近まで原始仏教こそ仏教なのだと信じて瞑想に励んでいたのです。幸い海外の夏休みは二ヶ月以上あるので、俗世間から離れて実に充実した心の平安を保つことは容易でした。
ところがそんな調子で実生活が始まり、いつものように社会と関わって生活するようになり、欲がないのでなすこと全てが無意味に思えてきたのです。確かに、感情や欲に左右される問題は解決出来たのかもしれません。しかし、私という人間が仕事を持ってお金を稼ぎ、親として子供の健康や幸せを考えたときに、その立場を無視して一人原始仏教徒として忠実に生きてゆくことは不可能だと感じました。
そこで日本の仏教のお坊さん方の言葉を聞き、とても救われました。
生きるからには精一杯生きたい。
無責任に心の伴わない行動はしたくない。
完全とはいかないけど、仏教徒として出来るだけの努力はしつつ、人間人生を全うしたい。
人間くさく、泥臭く生きても救われる道がある、それが日本の仏教なのだ、そう理解しました。
このような理解で良いのですか?
何せ、不器用でくそ真面目な性分で、熱血にお釈迦様の教えに従おうと思うが故に行き過ぎて壁に打ち当たる、の繰り返しです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
歩々 是れ道場(ほぼ これ どうじょう)
歩々 是れ道場
私達が歩く一歩一歩、その場その場が仏道修行の道場であるという意味です。この世は修行の場であり、私たちの人生は修行の旅である。そう考えれば、様々な苦悩や困難も修行の機会と考えることが出来ます。一つ一つの出会いも、有り難く思えます。
修行と言うと、お経を読んだり坐禅をしたり、特別な「行」を想定することが多いと思います。確かに、そういう行も大事です。でも、人によってはハードルが高く感じる場合も多いかもしれません。
特別な「行」でなくても、我々が日常生活の中で実践できることがあります。それが「四摂法」です。仏道修行者(菩薩)が菩薩が人々を救うために用いる四つの方法をいいます。
布施(財物でも、言葉でも、手助けでも、惜しまず分け与える。)
愛語(相手をいたわり、思いやる言葉をかけてあげる。)
利行(他者を利するよう、行に努める。)
同事(自分と他者との間に壁を作らず、相手の立場に寄り添う)
私は曹洞宗の僧侶ですので、道元禅師が書かれた『正法眼蔵 菩提薩埵四摂法の巻』を中心として教えを学び、微力ながら実践に努めております。でも、「四摂法」の教えはいわゆる原始仏教の経典にも見られる教えですので、原始仏教とか大乗仏教とカテゴライズする事無く、実践に努めてください。
範疇を取り払う!
ゆるん さん
素晴らしいですね!
原始仏教の瞑想を極めようとしたり
欲を無くそうとしたりとか、探求心が素晴らしい。
原始仏教でも、慈悲の精神があるれている個所もありますし
在家の形で生活を普通に営みながら、仏教に帰依し
精一杯生きるという、箇所も見られます。
日本の仏教でも、瞑想を中心に、欲を抑え込むという事があります
なので、これが、原始仏教、これが日本仏教とか範疇を限らず
ゆるんさんが精一杯生きようとしている中に、仏様を観られれば
宜しいかと思います。
私の考えは、精一杯生きるという事をよく表現しているのは
宮沢賢治の『雨にもマケズ』です
「雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
欲はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい」
デクノボーの精神という人もいます。
自分を勘定入れず、他人を思いやり
精一杯生きる
これがいいのかなと、私は考えております。
私の考えですから
他の僧侶の方のご意見も参考になさってください。
合掌礼
質問者からのお礼
ありがとうございます。
そうですね、この人生を良くいきてこそ、より良い結果が生じるのですね。
あまり究極を求めすぎず、今この一瞬を感謝しながら生きてゆきたいと思います。