人生の意味
生きる意味を教えてください!
別に自殺を考えたり、リストカットしているわけではありませんが生きている意味がイマイチよくわかりません。
100年後には確実に今生きている人のほとんどが死んでいます。たしかに生きていると悲しい事も楽しい事もあります。しかしこの世にはテロや残酷な殺人事件、強盗、DV、痴漢、いじめなど人生を狂わせることがあります。私は幸運にもそういう事件や事故には巻き込まれていませんがそういう方は多くいますし、見聞きするだけでもとても嫌な気分になります。全ての人が嫌な奴とは思いません。しかし人の人生を平気で壊すような人が大勢いる腐った世の中で生きていくのにはいったい何の意味があるのですか?血のにじむ努力して頑張ってる人にとって、平凡に静かに暮らしている人にとっては理不尽だらけです。さらにいえば貧困やエイズ、戦争、病気で若くして亡くなる人にとってはもっと理不尽です。悪いことをした人に罰は与えられないのですか?反省すれば許されるのですか?何も悪いことをしてないのに被害に遭う人に幸せはくるのでしょうか?毎日毎日学校に通い、手伝いをし、ボランティアや習い事、部活をしている自分が生きている意味がよくわからなくなります。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
不自由の中を自由に生きる
人間が生まれたこと、生きていくことについてたとえば一人ひとり、
あなたは医者になって多くのいのちを救うため
あなたは科学者となって森羅万象を説き明かすため
あなたはスポーツ選手となって人々に感動をあたえるため
となにか特定の意味や目的が与えられているわけではありません。ましてや人間全体が種の繁栄のために存在しているわけでもないでしょう。
そうした特定的、固定的、実体的な意味・目的が与えられて存在しているわけではない。
様々な原因と条件がととのって結果として存在している。今、あなたが人としてのいのちをいただいている。
これを縁起の道理という。
何か意味や目的が先にあって存在しているのではなく、縁起の道理により存在しているという事実が先にある。
そこに特定の意味はない。ないからこそ、あらゆることが意味あるともいえる。
「血のにじむ努力して頑張ってる人」も「平凡に静かに暮らしている人」も「若くして亡くなる人」も「悪いことをした人」も
存在そのものが有り難いという尊厳のもとで、その歩みはあらゆる面で意味をもつ。意味は見出し、作り出し、感じることができる。
あなたが意味を見い出せない、あるいは意味を踏みにじられていると思う人全てにそれぞれの意味はある。
「血のにじむ努力して頑張ってる人」は理不尽かどうかを問うて努力しているわけではない。自らが見出した意味に向かい努力している。悪いことをする人もそこに意味を感じている。
つまり意味があって生きているわけではないが、意味なく生きているわけでもない。
ないものがある。有り得る。よって、もともとないものなのだから、なければ生きられないわけでもない。今、質問しているようにわからなくても現に生きている事実がある。
意味が先にあるのでなく、事実が先にある。で、あるならば事実からはじまるのは自由です。
せっかくいただいたいのちで決められた意味・目的がないのならば
どう生きてやろうかな?とワクワクしませんか?
そうであるならばそれこそ毎日の学校での勉強・部活、家でのお手伝い等にも全て意味があふれていると思いますよ。
思い通りにならない現実(不自由)に苦しみながらも、やりたいように好きに生きればよいのです。
それが自由という人生の意味です。
生きる意味は自分で作る!
生きる意味や目標を誰かが作ってくれたとしたら、あなたはマリオネットですよね?
まだまだ戦火にまみれたり、飢餓や飢饉など、生きることさえままならない方が世界には大勢いらっしゃいます。
私たちは幸せなことに、日本という国に生まれ自由に考え、発言し、行動することができます。
本当にありがたいことだと思います。
ですから、あなたは何でも自由に考えたらいいんです。
生きる意義や意味もご自身で見つけ、
または作られたらいかがでしょうか?
私の生きる意味は、私の師僧であらせられる親鸞聖人が著された、浄土の教えを広めること、誤解がないように附言しますが、弟子はいないと聖人はおっしゃっています。
私は押し掛け弟子です。
また、皆さんのお役に立つという、阿弥陀さまのお誓いのお手伝いをすることです。こちらも、私は阿弥陀さまの救いの目当てに過ぎない私ですが、
私が勝手に代行をお引き受けしているに過ぎませんが、伝道者、代行者を私は自負しています。
誰が何と言おうといいんです。
私は弟子であり、救いの担い手なんです。
これは、信仰とにています。
世の中の不幸を数えたらきりがありません。
私は私以上の私ではなく、また、
私以下の私でもない。
人がどうではなく、あなたがどういきるかですよ。
私の信仰は、
私の阿弥陀さまへの想いなんです。
他の方の信仰ではありません。
そしてこのお粗末な私が阿弥陀さまのお救いを受ける。
どうかあなたにとって素晴らしい生きる意義を見つけてくださいね。
お幸せを祈ります。
ヴィクトール・フランクルの見解
Wikipediaからの引用ですが、非常によくまとまっているので、紹介させていただきます。
真宗大谷派では、ヴィクトール・フランクルを引用することがしばしばあります。
これは、彼の「視点の転換」が、真宗の相通じるところがあるからだと、私は思っています。
より引用
「人間が人生の意味は何かと問う前に、人生のほうが人間に対し問いを発してきている。だから人間は、本当は、生きる意味を問い求める必要などないのである。人間は、人生から問われている存在である。人間は、生きる意味を求めて問いを発するのではなく、人生からの問いに答えなくてはならない。そしてその答えは、それぞれの人生からの具体的な問いかけに対する具体的な答えでなくてはならない」
— ヴィクトール・フランクル 『死と愛』 みすず書房、1961年。(原題『医師による魂の癒し』)
(中略)
態度価値
自分に与えられた運命に対してどういう態度をとるか。それによって実現されてゆく価値のこと。人生には、生まれつき決まってしまっている一種の「宿命」のようなものもあり、「運命」とも言えるものもあり、また生きている最中にはさまざまなことが起きる。このような「与えられたもの」に対してどういう態度をとりながら生きるかによって、その人の人生の真価がわかる、とフランクルは述べる。そして、この態度価値だけは、(前述の二つの価値とは異なり)人がいかなる苦境に追い込まれ、さまざまな能力や可能性が奪われても、実現の可能性がたたれることはない、と述べる。つまり、この価値をもってすれば、人は息を引き取るその瞬間まで、人生から意味が無くなることは無く、「人生の意味」は絶えず送り届けられ、発見され、実現されるのを待っている、ということになるのである[24]。
「心の向上」
Hannah様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
生きる意味、人生の意味、確かに拙生も昔はよく考えておりました。
仏教を修習していくようになりまして、今は一つの結論が出ております。
「心の向上」、あるいは、「人格の向上」と言っても良いでしょうかね。
とにかく、この迷い苦しみの世界に生まれ死にを繰り返す(輪廻)原因として、「心」の問題が大きく関わってしまっています。無明(むみょう)という根本的な無知と、無明によって積みたる業(カルマ)の問題でございます。
来世、来来世へと続く心の状態を、何とか少しずつにでもよりよくに向上させていけるように、今世においてもできる限り努めて参りたいものと存じております。
是非、心をより善くに、より清らかに変容させていくための教えとしてある仏教に、関心を持って修習していって頂けましたら、大変に有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。心を向上させたいと思いました。
たくさんのご回答ほんとにありがとうございます!いろんな意見を聞けて世界が広がった気がします!