哲学専攻の友達に論破されてしまいました。
僕は日々陰鬱に生きていて、変わらなければならい節目を迎えた時、生きる意味について考えるキッカケを授かりました。生きる意味というか、今、生きているということに納得する理由がほしくて。僕はその理由をなんとなく自分の中に見出しました。
それは「人は善を為そうとし、真に為し得ない。優しくあろうとし、真に優しくあれない。愛そうとし、真に愛せない。」その善を為そうと、優しくあろうと、愛そうと努力することこそが生きる悦びだと、僕はそう納得していました。そしてその「生きる意味」を職業(カウンセラー、精神科医、臨床心理士、お坊さんなど)にしようと、大学を入り直すことさえ考えました。
しかし、その友達は、僕の生きる理由を「現実を決済する」こと、僕が信じる「美しいものを美しいものだと感じる心そのもの」を妄想と否定し、浄土、成仏の存在を真っ向から否定しました。
僕は、その友達の考えを否定することはできませんでした。かといって僕の本来持っていた考えを否定する気を起こそうとも思いませんでした。
またある人は「誰かがあなたに、本音や弱音を告白しているときに絶対に言ってはいけないことがある。正論です。」と言いました。
浄土、仏性、成仏は、そして仏教は、自己満足させるためだけの嘘なのでしょうか?美しいものを美しいものだと感じる僕のこの心は妄想でしかないのでしょうか?
それは僕が在る、と考えれば在る、のだと信じておりますが、僕はこの途方もないやるせない気持ちをどうにかしたいのです。
僕は恐らくこの(実存哲学?という)正論を信じると一生不幸だと思い、しかも僕はそれに対してどうしようとすることもできないのです。
僕は、仏様から授かった自分の寿命を全うするために死ぬまで生きようと思っておりましたが、その考えが不安定にならざるを得ないのです。
僕はこの儚い気持ちにどう向き合えば良いのでしょうか?お智慧をお貸しください。
長く稚拙な文章となってしまい申し訳ありません。また仏教思想を自分勝手な解釈で捉えております。それは違うというところ、誤解があれば、感謝と敬意をもってお説教を受け賜わります。
便宜的に、思想的に、僕はその人を友達だと書きましたが、本当はツイッター内において、フォローフォロワーの関係にすらなっていない、赤の他人です。
(´・ω・`)...
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
いろんな考え方があって良いのですが、とりあえず
仏教は心を細分して解釈します。心理学も同様です。心は言うほど心じゃないんです。一言に心と言ってもいろいろあるんです。
まぁ、小難しい話は置いておくとして、花を見ました。花が見えるのは目と脳の仕事です。これは私の意志ではありません。んでもって、パッと「あ、キレイだな」と思う。この一次的な意識も脳が勝手にやっていることであって、私の意志ではありません。けれども、「でもアッチの花と比べれば見劣りするよねー」とか「このキレイさをどう保存しようか」みたいな二次的な意識は、私の意志です。
唯識というジャンルの仏教の言葉でいうと、目から一次的な意識までが眼耳鼻舌身意の前六識、二次的な意識がマナ識です。仏教では前六識までは否定せず放置し、マナ識を最小化するように頑張ります。前六識まで否定する虚無主義は、仏教的には外道の考え方であって、苦から離れることに何の役にも立ちません。だってある意味、無いものねだりならぬ無いことねだりみたいなもので、地に足ついてない考え方ですもの。自分が自分であることからは逃れられないんです。そこを否定しても誰も救われないんです。
仮に全部妄想だとして、それを言って誰か救われるんでしょうか?みんな自死してハイおしまいでしょ。それこそ自己満足です。慈悲も智慧もない。
仏教にも唯識にもいろいろ派がありますので、同じっぽいけど違う話があったら違う派なんだなと思って下さいm(_ _)m
「本音を…正論を…」は半分共感します。私も地元の先輩和尚さんにいろいろ相談すると良いよと言われ、自分の心を弱さを相談したら、正論で叱られました。二度とこの人には相談すまいと思いました。叱っていただけるのは有り難いのですが、人間的な弱さを受け入れた上で叱ってくれないと相談のし甲斐がありません。教科書に載ってるような正論で返されたって哀しいだけなんです。まぁ、明日は我が身でついつい私もしてしまって凹むのですが(´・Д・)」
正論自体は時と場合によって間違いではありません。誰かが言わねばならないのですから。でも、正論を包み込むオブラートにイチゴ味とかハッカ味とか、あるいは食後に飲むようにとか、処方用法用量にいろんな引き出しを持ちたいなと思います
あ、書きそびれましたが一次的な意識も習慣の力で調えることができます。
全ての物事は心によって成り立つ、追伸
その友達は現実主義なのだと思います。
実はお釈迦様も超現実主義なのです。
しっかり現実を見ること、妄想や思い込みにとらわれないこと、自分の価値観で物事を判断しないこと、このようなことが大切だと説きました。
そのような考え方も仏教なのです。
上座部仏教や禅宗の教義に近いと思います。
ただ、それで乗り越えられない苦しみがあること、それを実践できない人がいること、などから、他の宗派(教義)も存在するのです。
人によって感性は様々ですから、苦しみを無くす目的の仏教も様々な教義があるのです。
例えば浄土宗では浄土の存在を信じています。
妄想だと言われても否定はしません。
物理的に証明できませんし。
ただの自己満足かもしれません。
しかし、超現実主義のお釈迦様はこのようにも言いました。
「全ての物事は心によって成り立つ。」
つまり、私に浄土を信じる心があれば、私の前には浄土は存在するのです。
あなたに美しい物を美しいと思う心があるから、あなたの前には美しい物は存在するのです。
例え他人がそれを美しいと思わなくても。
どの道でも構いません。
あなたの心の声を聞いてください。
あなたの心が納得できる道(教義)を選び、精進してください。
そうすれば、どの道を歩んでも後悔はないと思います。
なお、机上の論だけに囚われずに、実際に行動しましょう。その行動から得られる答えもあると思いますよ。
追伸
彼に対して喧嘩腰にならなくてもいいのですよ。
彼の思想を尊重しましょう。
この世は諸行無常ですから、将来、彼の心が変わることもあるかもしれません。あなたの思いを理解することもあるかもしれません。
ある浄土宗に否定的な禅宗のお坊さんが、歳をとって病になり、死を目前にして初めて念仏の良さを感じ、念仏を唱えて安らかに亡くなった、という話もあります。
今の彼は誰の助けも要りませんが、もし将来、助けを求めて来たら、その時に助けてあげてください。
また、この世は諸法無我ですから、彼のような人がいるから、あなたも存在しているという事も忘れてはいけません。
また、自分の信じる道が正しいかどうか、それは道を歩んで初めて分かることです。道を間違えていたら、そこから方向を変えたらいい。一番良く無いのは立ち止まって何も行動しない事です。知るだけで終わればそれこそ自己満足になってしまいますよ。
そのまま、そのまま。(間違うものであることを知りつつ)
ご自身の生きる意味を、善・優しさ・愛を為そうとすることに見出されたのですね。しんしょうさんがご自身の中における直感や議論を経て見出された当面の結論・果なのでしょうから、他の人がどのように感じどのように反論しようと(放っておくのはよくないだろうけど)、参考程度に受け取れば良いのではないかと思います。
タイトルでは「論破」とお書きですが、それは論破ではないように思えます。ただ「言い合っている」状態では「論」が噛み合わないので「反論」も「論破」もあり得ないと思えるからです。哲学専攻であれば哲学が出来るというわけではありません。少なくともわたしにはその方のその言い方はまったく哲学っぽく感じられません。(ちなみにわたしは国文科出身ですが物語をよく誤読します。)
しんしょうさんが得られた結論(果)に至る道筋(縁)をたどらず、なぜそのように考え始めたのか(因)も知らないまま、果の表面だけ「否定」? それは、花が咲いているのを見て「その花には意味がない」と言っているようなものです。その言葉にこそ意味がない。実際に花は咲いているのですから。その「反論」の周りに論理的な香りが漂っているのかも知れませんが、その人がおっしゃっているのは単なる「決めつけ」です。日常生活でもネット上でもよくあることです(わたしがよくやります。今もやっているような気がしてならない)。
「否定」には何種類かあると思います。存在を否定する、概念を否定する、現象を否定する。思想体系の不備を指摘する種類の否定もあると思います。「それは認めたくない」という否定もある。…発言の内容を問わずに発言という行為を遮ることも「否定」ではあると思います。
別の方がおっしゃった「正論」云々の話は、その人の人生訓のようなものだと思います。その方がどのように考えてそうおっしゃっているのかを聞いて、しんしょうさん自身がそれをどう受け取るかを決めれば良いと思います。箴言の体裁を取ると事実っぽく聞こえるけれど、必ずしも事実ではない場合があります(芥川の『朱儒の言葉』がその好例かと)。
【ただ、自分がどこまでも間違う現象であることを知りつつ、いってほしいです。また、知識も圧倒的に不足しています。このまま学び続けてください。】(最後とタイトルを変更)
「自灯明 法灯明」
しんしょう様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
生きる意味も理由も価値も、縁起、因縁(原因と条件)次第なるもの。
実体として「これだ」と言えるものがあるわけではなく、因縁に依るものとなります。
世間的な良き因縁によれば、良き結果としての意味、理由、価値に恵まれることもあるでしょうし、またその逆もしかり。
更に出世間的(仏教)に説かれる教えを実践する善き因縁に依れば、仏教的(勝義的)な善き結果としての意味、理由、価値に恵まれることもあるでしょうし、またその逆もしかり。
あとは、実際に自らで実践しながら、それを確かめていくしかありません。
「自灯明 法灯明」となります。
実践するに際しては、批判的・合理的な検証ももちろん大切になります。盲目的・盲信的なものであってはならないと存じます。
まあ、善や優しさや愛も、あるいは仏教の慈悲などについても、もちろん実体としてはあり得ているものではないけれども、「縁起」としてはあり得ているものとして、ある程度は実感して頂くことはできていくのではないだろうかとは存じます。
但し、それらについては、よく仏教では「幻のようなもの」とも表現することにはなりますが、、
また、「縁起」については、大きく三層の考え方があり、第一層は、因と縁と果の依存関係、第二層は、全体と部分の依存関係、第三層は、概念(分別)と仮名(仮設)の依存関係とございます。
是非、モノ・コトのありようについての仏教の考え方について、更に学ばれてみて下さいませ。きっと色々と気づきがあるのではないかと存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
>大慈様
仏教を心理学の観点から、猿でも分かるくらい非常に分かりやすく説明していただき有難うございます。僕はただ、なるほど、なるほど、と感心するばかりです。
僕はできるだけ多くの人が幸せになれる手助けをしたい、と考えております。そのためには心理学、特にユング心理学、及び仏教思想を体系的に学ばなければならないと痛感しております。そしてそれは尽きることのない無知の「知」の欲求であり、僕はこれを満たすことのみによって、真に幸せだと感じ得るのだと自認しております。
僕の目指すものが仏教と目指すものが同じであると信じ、全ての人に寄り添い、手を取り合って真に幸福であることが満たされる世界にしていければな、と、そう存じます。
>聖章様
非常に有難いお言葉をいただき、感服の至りでございます。僕はその友達の思想、仏教思想に優劣をつけようという気は起りませんが、確かに「全ての物事は心によって成り立つ。」という言葉は、すべての人において当てはまる真実なのだと、僕は信じて疑いません。(本来は疑うべきである)
果たして僕は、その僕の納得できる信条を真であると信じ、精進して良いのでしょうか?僕はそれに対し甚だ疑問を感じざるを得ません。僕は、この世は虚無で空虚で価値のないものだと真に信じる真の虚無主義者のことを救えない、その上「孤独に自殺しろ!」とさえ思うわけであります。恐らく仏様を仮想したときに、仏様は真の虚無主義者である彼をも愛し、救うのだろうと、そう思うわけであります。
僕は恐らくその人と相容れないし、救おうと行動してもその行動は無意味だと信じます。恐らく僕の不勉強がその原因だと考えておりますので、日々勉強を積み重ねていきたいと存じます。
>石田智秀様
僕も昨夜、3時間ほど信頼できる友達との対話と孤独(承認欲を伴わないこと)を伴って自問自答し、その結論に至りました。と、同時に、「なんなんアイツー、ほんま死ねや」という怒りの感情が、自らの内に湧き起ってしまいました。彼には彼の信条があり、僕には僕の信条があり、僕と彼は本質的に相容れない、縁がない、と考え割り切ることにしました。
僕は「この俗世の真の最大幸福」が、僕にとって真に幸せであることだと信じ、その信条を愛していきたいと存じます。
>川口英俊様
僕は経験を通して両親からの「盲目的な愛情」を「悪意」だと感じ取り、自らの行いや思想について、「自灯明 法灯明」ということを念頭に置いて、常に感じ取らなければならない、と痛感しております。その「盲目的な愛情」は時として人種差別、ヘイトスピーチなどという形に現れ、僕はそれを忌み嫌うべきもの、人類の最大幸福には繋がらないもの、であると認識しております。
なにぶん僕は仏教、その他人間に働く心理作用に対して浅学でございまして、「自灯明 法灯明」という考えについて誤解があれば、感謝と敬意をもってお説教を承ります。
「縁起」については見聞によってそれを学び、実体との対話を通してそれを会得して参りたいと存じます。
>回答をくださったお坊様
本当に有難うございます。是非ともこの日本語という文字のみを媒体とせず、実際にあって実体として対話を重ねることによって、仏教それ自体を学びたいと心より感じております。しかし、宗派について、「仏教の捉え方の違い」だと僕は読み取り、僕はその全ての宗派について否定的な立場にならざるを得ません。もし僕が間違っているのであれば感謝と敬意を以てお説教を賜ります。僕の薄学をお赦しください。
この俗世の最大幸福を願っております。
合掌