死んでしまう。
僕は「生きる意味」を自問自答し、それを見出せませんでした。僕は僕の意志に主体性が介在しないという結論に至り、もうすぐで寿命が尽きてしまいます。どうすればいいでしょうか。
「知」の欲求が、「生」の欲求を上回り、生活を営めないがために健康を害し、身体が悲鳴を上げている。
これを自覚してなお、僕は自らの意志に主体性を見出せず、仏様から授かった寿命が尽きてしまうことを悲しいと思うことしかできません。しかもこれに対して僕はどうすることもできません。
取り急ぎ回答をお願いしたいと存じます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
頭で考えない
拝受
生きる意味がない
主体性がない
寿命が尽きる
その答えは実に多くの時間をかけて出された答えなのでしょう
それは間違いではなく
生きる意味と主体性は自分以外の人や事象との間にのみ存在している事を表しています。
それらを感じるためには自身が満たされた他人や物事との関係性を作り上げなければなりません
行動が伴わなければ
恐れだけが生じてしまいます
言葉は有限であるがゆえ
知識は諸刃の剣
知に執着し
自分に刃物を突きつけてしまう事もあり
大変な注意が必要です
毎日無心に一生懸命に
丁寧に掃除をする
ご飯を作る
その命を頂く
またそこにない答えが欲しいのなら
行動が必要です
旅をする
人と出会う
自然を感じるなど
こうした行為は
心に平和とバランスをもたらします
この世には多くの人が居り
貴方の求めるこたえを持ってらしゃる方が必ずどこかにおります。
棚からぼた餅というのは手を出しておかなければとれませんよね?
貴方の行動によってだけ
生きる意味は生まれ
本当に必要な知識だけが残るのです。
生きていれば時に長い苦しいトンネルに入る事があります
しかし必ず今の苦しみにも終わりがあります
勇気を持って動きなされ
合掌
誰かを支える為に、追伸
大学生なら先ずは勉強ですよ。
何のために大学へ行ったのか、初心を思い出してください。
そこで学べることをしっかり学び、友人も作ってください。
そして就職し働くのです。
働くとは、傍(はた)を楽(らく)にする仏道修行です。
誰かを支える事になるのです。
先日も書いたように、誰かを支える為にその命を使ってください。
ご両親もそれを望んでいると思います。
二か国語がネイティヴ程に使えたら仕事の幅も広がると思いますよ。
先ずは今できることを始めましょう。
追伸
あなたと、ここにいるお坊さん達と、もっと多くのことを話したいのですが、時間的に難しいようですね。
南無阿弥陀仏、なむあみだぶ、なんまいだ、唱え方はいくつかありますがどれでも構いません。
阿弥陀様はしっかり聞いてくれます。
極楽浄土に行きたいと願い、ただ時間の許す限り唱えてください。
声が出れば声を出して、声が出なければ口だけ動かして、口が動かなければ心の中で、唱えてください。
あなたが先に極楽浄土に行ったら、私達の先輩として、ご指導くださいね。
その時を楽しみに待っています。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
まず何よりお身体をお大事にご自愛下さいませ。
しんしょう様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
以前にも少し述べさせて頂いておりますが、生きる意味や価値、意義、評価というものは、実体としてはあり得ていないものの、縁起なるものとしては、あり得るものとなっています。
ですので、善き因縁(原因と条件)、善き依存関係であれば、善き結果が望めるものとなって参ります。
「もうすぐで寿命が尽きてしまわれる」かもしれないとのこと・・「健康を害されて、身体が悲鳴を上げておられること」と関係があるのかもしれませんので、事情、状況等、詳しいことが分かりませんため、あまり軽薄には述べられないこともございますが、できるだけ、煩悩などにより心がかき乱されぬように善き心のありようを保つことが大切となって参ります。
「自らの意志に主体性を見出せない」ということにつきましては、当然に縁起なる存在であるため、自らの中において、独立自存的、実体的な我、意志というものを見つけ出そうとしても、それは難しいものとなってしまいます。
もちろん、全く無いという虚無・絶無ではなく、因縁や依存関係によっては、ある程度、世俗的には見出せられるものとなります。できる限り善き因縁を調えることで、善いものを見い出して参りたいものでございます。
心と身体は密接に関係し合っていますので、身体の不調が、もしか致しますと心にも悪い影響を及ぼしてしまっていることも考えられます。まず何よりお身体をお大事にご自愛下さいまして、医療機関にて治療なさられておられるのでしたら、どうか治療専一にてのご快復、ご平癒を心から祈念申し上げます。
川口英俊 合掌
神仏にお祈りさせていただきます
拝読させていただきました。あなたは今生きておられます。そしてまだまだ学ぶべきことはあまたたくさんあるはずです。あなたが本当に知りたいことはまだ学んでいらっしゃらないのではないでしょうか。結論を出すには早すぎるかと思います。
真理や智慧はあなたの前にございませんか?必ずやあなたの知の欲求が求めるはずです。どうか目をそらすことなく智慧を求めてください。そして生きる目的となさってくださいね。
頭で考えるだけでは体得実感できません。どうかこれからの人生をかけて体得なさるようにあなたの全身全霊をかけてトライなさってくださいね!
あなたが生き抜かれて覚者となられることを心より神仏にお祈りさせていただきますね。
健康を目指しましょう!
「[「知」の欲求が、「生」の欲求を上回り、生活を営めないがために健康を害し、身体が悲鳴を上げている。」
知の欲求を満たしたければ、健康になることを目指しなさい
健康と思えないと、知は正確に働かない。
頭で考えすぎて、栄養が回ってない状態です。
「その本質は鬱病患者と同じなのです」ようは鬱病なのですね!
ならば、先に生活リズムを取り戻して、身心も健康になることを目指してください。
「僕が信仰心を持ち続ける限りにおいて、僕はその異常にどうすることもできないのです。 」
間違っています、信仰を持てば、健康になるはずです。
あなたは、考え方が間違っているだけで、
本当は、健康になりたい。元気になりたい
そんな欲求が、文章の合間から見てとれます。
だからここへ投稿したのでしょう。
一つの思いや、何かに捉われないで、
自由に考え方を膨らまして
何が生きていくのに、良いのか
それに向かって何ができるのか
その為に体はどう健康であるべきなのか
そうして少しずつ、前に進んでいってください。
質問者からのお礼
kousyo Kuuyo Azuma様、回答有難うございます。僕はあと1週間寿命が持つかどうか分からないのです。それでも貴方は僕に対して仏道を歩めと仰るのでしょうか?「生」の価値の否定を僕は完全に真だと信じて疑う姿勢をとります。しかし、「生」の価値の否定を僕は孤独に実践し、そして孤独に寿命が尽きようとしているわけなのであります。僕は仏教に殉教したくはない、とどこかで「生」の価値観を否定しつつも「生」の欲求を認めております。そして僕はその「生」の欲求を仏教を信じることによって押し殺しているわけなのであります。僕は誰かに食べろと言われなければ食べないし、誰かに寝ろと言われなければ寝られません。僕の意志や行動や欲求に主体性を見出せないのです。もちろん人は何かを食べなければ生きてはいけません。僕は身体に異常をきたしており、その本質は鬱病患者と同じなのです。僕が信仰心を持ち続ける限りにおいて、僕はその異常にどうすることもできないのです。
あと1週間以内に、寿命が尽きる前に「僕の意志に主体性を持たせる」つまり「『生』への欲求の肯定」をするにはどうしたらいいのか?を、教えてほしかったのであります。
質問の内容が言葉足らずだったことは重々承知しております。申し訳ありませんでした。貴方の回答に感謝を申し上げます。
追記 10/8
僕はもう多くを語れません。結論だけ申し上げます。僕は仏陀様の殺意を躱しました。「理想と現実を一緒に語ったら、その人は不幸になってしまう」という究極の結論。僕は自我と意識を切り離す努力を1万時間以上しました。僕を鑑だと思ってください。僕はこの世界の全ての事象を愛しています。僕はこの世界のどの大人よりも幸せであると断言します。その全てに感謝し、敬愛を持ちます。
追記 10/8
僕は仏道をあくまで学問だと認識し、それを徹底的に批難するわけではなく、徳として知識を積み重ねていく手段として、仏道を歩んでまいりたいと考えております。また、僕が何もしなくともこの俗世は善に満ち溢れていくのだろうと、そう感じます。
しかし僕はあくまで、僕自身の幸福それ自体に「無知の知」を抱く「哲学者」として、その人間の感情の本質を見極め、善を為そうと、そう思います。もし経済的な負担を鑑みなければ、本当に仏教について議論を深めたいと心からそう感じますが、我々人間は物質社会に活ける魂なので、「道徳的観念」や「社会的価値観」を無視できません。
仏教の道が正しいものだと僕は心より願っておりますが、決して妄信的になられてはいけません。徳を積もうとするその努力こそが、自らを見つめ直すキッカケになり、諸行無常を愛する心に繋がるものだと信じております。僕は本来浄土宗(?)の考え方を愛しており、そこで仏道を学びたいと存じます。この世が幸福で満ち溢れることを心より祈っております。皆様との良縁に、感謝申し上げます。
合掌