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信ずるものの矛盾について

回答数回答 3
有り難し有り難し 18

前置きとして、私は仏教に深く関心し、このサイトでも別の質問をさせて頂き有難い回答も頂いております。

お気持ちを害するかもしれませんが純粋な質問として受け止めて頂ければ幸いです。

私の現状はご指摘もしてもらいましたが煩悩により、自らを囚え振り回されている状況です。

まず、仏への道として宗派は道程であり、すべからく目的は苦からの脱却、解脱であると勝手に認識しています。事実、それぞれの教えから自己満足の範囲でいろいろ学ばせてもらいました。
煩悩を拭いひたすらに。
しかし、人を救いたい、苦から解放されたいと願うことこそ人智を超えた最大の煩悩の気がしてきてしまいました。だからこその仏様でしょうか。
これが一つ目の問いになります。

心の有り様。全てはここに集約されているのかも知れませんし、因果や縁、前世、今世、来世の繋がりも頭では理解していますが、私個人として、苦がなければ生ではないと強く根底にあります。
苦しみこそが人を最大限に無意識のうちにでも足掻かせ、思考を巡らし、結果が悪かったとしてもその後も全力を尽くした経験値として忘れることがないものと思うのです。好きなことより回避したいことの方が望む望まないに関わらず人は本気を出せると思うのです。出さざるを得ないという方が多いですかね。
往々にして心が弱いですから。
それが成長の種になると。

纏めますと、私は己の弱さ故につまらない選択肢と隣り合わせな苦しい日々が続いていますが、この苦しみから解放され
楽しい、安楽なことだけになることも怖いのです。
弱い心が解放も囚われも恐れるのです。

一つだけ身を投げ打ってでも生きる意味として手に入れたいものがあります。
これは教えに反していますよね。
また、その対価としてというわけではないですが苦難を望んでいる自分がいるのはおかしいですかね。

宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

悩み苦しみをなくす教え、法則の理解

煩悩とは悩み苦しみの原因であり、煩悩を制御したり消したりすれば悩み苦しみを制御したり消したりできる、というのがお釈迦様や仏様達が発見した法則性なのです。
我々一般人レベルの者が人を救いたいというのも、欲の煩悩かもしれませんね。
お釈迦様の場合は、梵天という神様から頼まれて、人々を救う活動に入ったのです。
自分から貪欲に求めたわけではないが、頼まれたら、軽々と、しかも徹底的にやりぬかれたのです。
完全に煩悩がなくなると、輪廻転生から解脱してこの世から消えてなくなることができるようになるのです。
あらゆる苦楽を超えるのです。
仏教は、まず、楽と苦のセットが生命だから苦は必ずあるよと覚悟させます。
そして、苦しみとセットでもいいから生きて楽しみたい、という愚かな執着こそが煩悩の親玉だと気付かされます。
ただし、悟って速やかに消えるばかりが仏教でもなく、他人を救う活動もするのです。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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何でもかんでも煩悩にしない

煩悩という言葉をよく分っていないままに使っているように感じます。(^<^)
でてくる思いや尊い誓願も何でもかんでも煩悩扱いしてはダメでしょう。
人を救う、苦しみから解放されたいという思いまで煩悩扱いならば釈迦も泣きます。達磨も笑います。
立派な理論のようでも実際にそこに救われがない。それが、あなたの中で矛盾になっている。
煩悩とは、字のごとく、煩い悩ます思いの事。
煩悩ということばに使われ溺れているのが今のあなたの状況です。
考えてみておくんなまし。あれもこれもそれもどれも煩悩ですかい?
おシャカ様は、そんな全否定論を説いてません。
禅では、煩悩即菩提という。
でてくる思いそれ自体には、煩悩だ、妄想だというラベルはどこにもついていないからです。
思いそれ自体には何の罪咎もないことを悟れ、と言っています。
自分の思いをよくみてください。
思いの発生時点、一発目は全自動で自然にぽんと起こっただけでしょう。
どんな思いも第一段階、ファースト時点では、ただオフィシャルな状態なのです。
そこに、二次的に自分の価値観や私的な解釈、善し悪しの好き嫌いのジャッジを加えるから、あなたの中でそれらがセカンドインパクトを引き起こし煩悩化されてゆくのです。
何でもかんでも「煩悩」とラベルを張り付けている自分の取り扱いこそ最大の煩悩発生マシーンであると知るべきです。
('ω')厳しい禅寺で「悟りを得たいという思いも煩悩」なんて言おうものなら「その論が正しいと思って握りしめている割にキサマは今、結局自分も誰も救えんままにいる。心晴れぬまま、その論に逃げて、ぬるま湯につかろうとしていることがお前を仏にさせない最大の煩悩、甘え、言い訳であることに気づかんのか!!」と一喝一蹴です。ひー(゚д゚)
人は、コンフォートな状態、安全地帯を求めるもの。
飲めば治る薬を「どうせ治る訳ない」「煩悩だから…」と言葉に逃げてぬるま湯に浸っていてはダメです。
苦しみから救われたければ、その論がいくらご立派そうに思えても結局自分が苦しみや煩悩から救われていないことに向き合って、救われのない独自の仏教自論をやめ、ちゃんと救ってくれる覚者の説く仏教を求めることです。厳しいですが、愛語だと思ってください。
論を捨て、百尺竿頭さらに一歩を進める、あるのみです。

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おきもち

他を救う為に何ができるか。

他を救う為にはまず自分が仏にならなけばいけません。
「救い」とは「仏になる」ですから、まず自分が仏になって他を仏にならしめる活動をしなければいけません。
仏になれば、時間も場所を選ばず六道全てで遊ぶが如くに法を説き伝えることができるとお経に説かれています。

逆に自分が仏になっていないのに他を仏にしようという話はかなり無理が生じてきます。
幼稚園児が同級生に東大合格させるようなもので、自分も悟りの境地を知らないのに他を悟らせることは困難です。

他を救いたいと考えるならば自分が仏になることをまず考えなければいけません。

もし「救い」が「願い事が叶う」「お金持ちになる」等だと考えるのであれば、それは仏教では方向が違いますので、他の宗教を信仰することが好ましいと思います。
「苦から解放される」のは最終的に「成仏」以外に方法はありません。

浄土真宗は他力の法門ですから、私は「みな一緒に救われていきましょう」とお話しています。
皆共に阿弥陀様の本願力によって、来世成仏することが確約されます。
私もいつか命尽きて成仏したならば、今度は仏として他に仏法を説き広めたいと思います。

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おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...
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質問者からのお礼

願誉浄史様
ありがとうございます。
私はまさに煩悩の親玉と対峙してしまっているようですね。
参考にさせて頂きます。

釈心誓様

親鸞聖人の教えは素人でもわかりやすく浅学ながら学ばせて頂いております

それ故に深遠なるものを感じます。

この歳になり、ようやく誰かを幸せにすることが自分の幸せと想えるようになってきましたので今後の参考とさせて頂きます。

丹下覚元様

深いですね。
単純に現在の力量不足。
人である以上、解脱できない事が
再認識されました。
ありがとうございます。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ