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わたしが死んだら

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有り難し有り難し 16

時々不安になることがあります。悲しくなったり、寂しくなったり嫌なこともあります。もちろん時間を忘れるくらい楽しいこともありますが、、。みんなそうやって生きていて、死んでゆきます。そして何千年も経った後私たちは忘れられてしまうのでしょうか。自分の死後、誰も私のことを覚えている人がいなくなったら、私は無になってしまうのですか?まだずっと先のことだとわかっていても、すごくすごく怖いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

空と縁起

ハナ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

確かに存在していた証が何もかも無くなれば、無に等しいものになると考えてしまわれるのも仕方のないことです。

昔に、「無帰論」という論立てをしていた拙生と同じような、虚無感・ニヒリズムでございます・・

しかし、それは何か自分というものの実体的なモノへのとらわれから生じてしまっていたことに気づくことで、有にも無にもとらわれない「中道」を理解することにより、ある程度克服することができるようになって参りました。

とにかく、元々、無になるもならないも、「無」になる自分という存在とはどういうものかについて、難しいところもございますが、仏教的にしっかりと考えていくことで、「無」になるもならないも、何を前提として「有る」・「無い」として錯誤しているのかを理解していくことにより、きっと虚無的・ニヒリズム的な考え方から離れることができていけるのではないだろうかと存じます。

そのヒントは、「空と縁起」という仏教の考え方にあります。

今はまだまだ理解できなくても、関心を持って仏教の修習を進めていって頂けましたら、きっといずれ分かる時がやってくるのではないだろうかと存じます。

焦らずに少しずつでも。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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名もなき人にも、価値はある。

誰もが、縁の輪の中で、生かされて、生きています。
何百年も、何千年ものちに、名前を残すことのできる人もいますが、
そうでない人の方が大半です。

でも、名を残すことができない人たちの人生に、価値がない訳ではありません。
たまたま、名を残すことができた人々も、
多くの、そうでない人々たちの縁や力がなかったら、
名を残すことなど、できなかったからです。

お釈迦さまは、2500年前に実在した人ですが、
お釈迦さまの存在や教えを、今の世に伝えてきたのは、
名もなきたくさんのお弟子さんたちです。
その中の、誰かが足りなかったとしても、
お釈迦さまの尊い教えは、今の世に伝わることはありませんでした。

聖徳太子も、徳川家康も、坂本竜馬も、まわりの人々や、
当時のたくさんの一般人たちがいたからこそ、名を残すことができたのです。
そこには、平等に価値があります。

われわれ、応援するファンがいるからこそ、
イチローはヒットが打てるのです。
何千年かのちに、教科書にイチローの事が載っているかもしれません。
その横に、「当時のファンたちは、彼の偉業に歓喜した」と書かれていたら、
私もあなたも、「当時のファン」って、自分のことなんだぜ!
って、仏の国から、一緒に自慢しましょう(笑)。

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有り難し
おきもち

佐山拓郎
浄土宗の佐山と申します。 浄土宗教師の資格を得たあと、10年間のサラリー...
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質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
理解することだけも難しいです。
難しいとわかっていてもついつい考えてしまうので困ってしまいます笑
死んだ後のことを考えないくらい今を生きないといけないのかも知れませんね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ