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貫道老子とスマナサーラ長老の仏教の実践

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有り難し有り難し 22

お疲れ様です。
いつも真摯なご回答をありがとうございます。
又、日頃お忙しい中のご回答をありがたく存じます。
尚、今回のご質問も優先ではありませんので、深刻な
ご相談を優先させて下さい。

仏教には色々な宗派がありますが、最初に出会った
のが、初期仏教で、以下サイトから学び始め、
スマナサーラ長老の書籍も購読してまいりました。
■根本仏教講義、パティパダー巻頭法話
http://www.j-theravada.net/kogi/index.html
http://www.j-theravada.net/howa/index.html

このhasunohaで、井上貫道老師の以下サイトが
あることを知り、拝見させて頂きました。
■貫道老子の言葉
http://zazen.blog.jp/archives/cat_958260.html

仏教は、苦集滅道の四聖諦、縁起などの教えが
基本となっていますが、では何を常に精進するか
を考えておりました。

初期仏教では、観瞑想(身受心法の随観)を、
禅宗は座禅を重要視するように感じます。

どちらも、今この瞬間の自分の身・口・意の行為の
事実を観ることを大切にしていると思います。
(今の瞬間に気づいていること)

普段の生活でも、朝起きて朝食を摂り、歯磨き
洗顔、通勤、仕事、掃除、風呂・・・・
色々なことをやっていますが、それぞれの行為
に集中できていないことがほとんどです。

それぞれの行為の最中にも、他のことや過去、
未来のことを思ってみたり、「今この瞬間」の
事実から離れてることが多いかと思います。
だから、考えたり、悩んだりするのかと
思いました。

貫道老子もスマナサーラ長老も、今この瞬間を
見続けていれば、変化しない「もの・こと」は
ないってことが、自然と分かるでしょ。
と言っておられるように感じたのですが、
この理解で宜しいのでしょうか。

普段の修行などの内容について、ご教示頂けたら
幸いです。

勿論、慈悲の実践など利他行の善行為も修行
の実践の1つと考えています。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教の「表現」には相違点があっても「仏心」には相違点なし

何を常に精進するか→ 向かっているモノ・コトに、です。仏教教理らしいものを精進する事と思っておられませんか。そういうものを握っている必要はありません。
これを読んでおられる時、目にされている時は、ものに「触れている」という様子が自覚無しにある。
ものに触れているという様子が、精進しようとせずとも(精進)なされている。
これから精進らしいことを精進するという図式を捨てましょう。
本有の精進とでもいうべき、もともとこの身心が天然無為に精進(な)されている(た)ことを覚するのが精進のコツです。

あ、あと、老師です。老子ぢゃありまへん。

今の瞬間に気づいていることについて
👉❝観よう❞とすれば有為です、観よう、観ていようとする、はからいのイチモツ残る。
気づきを大事にしようとすればオニモツがのこる。
本当に歩いている時、観ている時にヨモツ(余物)なし。

普段の生活、歯磨き、洗顔、通勤、仕事、掃除、風呂・・・・
色々なことをやっていますが、集中できていないことがほとんどです。
👉❝集中❞らしいもの、理想的な集中を描いていませんか。それに適さないとあなたがプチ・ガッカリ感を生じたり、自分にこんなことじゃダメだ、と要らぬ思いを生ずる事でかえって集中できていないのかと。

今の事実から離れている事について
☞「事実から離れちゃいけない!」という想念、理想設定を想起して、心の中でDISり行為、自分へのダメ出し行為をしています。そのモクモクした想念こそが一番事実から分離させているのです。

事実から離れていることが多いという事について
☞事実から離れることは本当はありません。思考がそうではないと「思い」をなすのです。
100点取ったのにまだまだと思っているようなものです。

普段の修行の内容について
☞ものに触れて、それがそうある様子のままに私見や主観を差し挟まずに「只」やる。真の只には「只」すらない。
観る自分、観察する自分も要らぬことだと気づけるまでやってみてください。

慈悲・利他行について

慈悲は己意識、自己意識が滅されてゆくとおのずから自他の隔てが無くなり、相手の困った事などが我が事として自然に行為されることです。慈悲らしい実践を無理くりしなくてもよいかと。(^<^)

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下様

誤字、大変失礼致しました。 老師でした。
また、早々のご回答ありがとうございます。

> 何を常に精進するか→ 向かっているモノ・コトに、です。
> 仏教教理らしいものを精進する事と思っておられませんか。

ここが、難しいと感じています。
目の前のモノ・コトの事実があるのに、それ以外のことが
頭の中に出てきてしまいます。悩み、苦しみ、卑下、高慢と
いった類のものではなく、仕事や、趣味など感情とは別物です。
そして、事実に全く関係ないことを思っているなと気づい
たりします。

> 理想的な集中を描いていませんか。
ここも、難しいと感じます。上述の通り、事実とは無関係の
ことを思ってしまいます。それも、凄いスピードで色々な
ことを思っているな、と感じることがあります。
つくづく、人間って勝手に色々なことを思ってしまうんだな
と感心してしまいます。「思いは」止まらないですね。

> 自分へのダメ出し行為
ここは、マイナス感情は起きてはいませんが、眼前のモノ・コト
以外の思いが出てしまうことに、何故と考えてしまうことは
あります。

> 事実から離れることは本当はありません。
> 思考がそうではないと「思い」をなすのです。
貫道老師の「事実に即していれば、考えが「止める」
でなく「止まる」んです。の、この言葉の「事実に即して」
のところで苦労しています。

> 観る自分、観察する自分も要らぬことだと気づけるまで
> やってみてください。
はい。気づけるまで。

> 慈悲・利他行について
これは、大した事をしているわけでなく、家庭、仕事で
少し気を利かせている程度です。

貫道老師の少林寺は、隣町なので近いうちに
お伺いしたいと考えております。

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