「法」という言葉について
「法」と言えば、真っ先に「法律」が思い浮かびますが、
そもそもの成り立ちは、「さんずい(川)」を「去る」と書きますよね。
そしてこれは漢字、すなわち中国が統一する直前の漢の時代に、
漢字文化を輸入したと考えられます。
紀元前300年程の、2300年程前ですね。
私なりに考えると、「(架空の)川を去るもの=魂」に行き着きます。
すなわち、仏教で言うところの輪廻転生という揺るぎのない約束事で、そこに疑問を感じてはいけないことです。
ところが、現在の法律の多くは、理由が存在しています。
民法で言えば、「20を迎えてタバコやお酒を許される」など。
20を超えると日本人は体の完成に近付くからかな、というきっかけがありますし、
刑法で言えば、「他人の物(命を含む)を奪ってはいけない」など。
堕胎なんかでは平気で殺しますよね。
精進料理だってそうです。
「命を授けてくれてありがとう」という意味なため、本来は動物も食べていいことになっていると思いますが、その文化は既に廃れています。
植物だって生き物ですし。
定理でありながらも、きっかけや理由が存在する。
その事自体が疑問です。
掘り下げて考える癖がついているため、ぜひ納得行けるご説明をお願い致します。
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
御釈迦様の最後の教え「自灯明」「法灯明」!
貴方が考える法と仏教の法は違います、お釈迦様がお亡くなるときに残された教えに「自灯明」「法灯明」があります。
ここで簡単に納得できるような事を書くととんでもない事となります。日頃より我々は法を説く事、法を常に考え行動する事、法の奥深さに悩み苦しむのです。
説明を受けるよりご自分で調べると面白く又奥が深い事が分かります。
『お詫び』
投稿した文章は仏典・論書・祖録等を引用して予め法理を明示しなかった為に、回答内容が仏教とは異なった通俗的な価値観に比重を置いたアドバイスになっておりました。
この回答が仏教を学ばれる方々の妨げとなる可能性がありましたので、まことに勝手ながら回答を全て削除させていただきました。
代わりにここでは、仏教の概要を少し紹介させて頂きたいと思います。
『仏道』
仏教の門戸とその修行法は多種多様でありますが、その道のりの先にあるのは解脱です。
大乗仏教では、菩提心がその人に現れる時から仏道は始まり、数多の転生を繰り返し、数多の大師や仏菩薩と出逢いながら、久遠の修行の時を経て、その人の全てが捧げ尽くされ、そこで菩提心が開示されます。
道の始まりから人は、菩提心に導かれ解脱へ辿り着きますが、そこで悟るものも菩提心です。
道の初め、自らの苦しみからの解放を求める切なる純粋欲求であった個人的な菩提心はやがて、すべての存在を救いたいという祈りに裏打ちされた不屈の意志と信心をその人に刻み付け、非個人的な菩提心が解放されます。
そのような菩提心と與に道を歩む人を菩薩と呼びますが、菩薩の意志や信心、原動力の源が解脱の時に悟ることになる菩提心です。
菩薩が歩む大道の上には、見道や解脱、その先に続く仏としての完全な成就の因となる多種多様な修行が立ち現れます。
日本仏教という道もこの大道を源としているので、全ての道はそこへ還りつくようになっています。
その人の道はその人にとっての真性の師である覚者との邂逅や、久遠の時を與にしながら道を歩んだ法友との再会によって開かれ導かれていく歩みであると伝わっております。
どうかご質問者様の出逢いとその歩みの上に障碍がありませんように。
願以此功徳
普及於一切
我等與衆生
皆共成仏道
合掌
法 「人の手が介入されないもの」 ダルマ
ちょっと深い話をします。
「だーるーまーさーんーがー転ーんーだー。」
と言ってみましょう。
実物のだるまさんは何処にも無い。転んでもいない。
「だるまさんがころんだー。」
人も物も転がる時には転がります。転がって、風に吹かれて、流れ流れても、それがそうあるだけです。
人がそうだ、私はこう思う、といっても事実、実物がはたして本当にそうであるかどうかの見極めが大事です。
ボブ・ディランもライク・ア・ローリング・ストーンで転がり続けて、ローリング・ストーンズやホフディラン、世界中の多くのミュージシャンに影響を与えて、ノーベル賞。今後亡き後も、転がり続けるでしょう。
お釈迦様も「法」輪を転じて「法」相を顕示し、苦悩の衆生をして大歓喜を得せしめられました。(法華経)
「法」とは、人間の手の加えられた「人法」ではないのです。人の手が加わったもの、人のルールは人法というべきもの。仏法とは、人の手が加わる以前のもの。
たとえて言えば、川が自然に流れて、サイクルをくりかえして雲になったり雨になったりしているさまも人の手が加わっていない様相です。
ですが、ブッダ説いた「法 ダルマ」とは、いつでもそこにあるものですが、自分を運んで観んとするにも「わたし・おれ・じぶん」が観ようとすれば、かくれてしまうものです。
お釈迦様も人間らしいものを離れ切って坐禅瞑想してはじめて法を悟った。法そのものになった。
法相。諸法実相。
あなたが本当に法を知りたければ、その「わたし」という自分意識や、あなたのイメージする「法に対する思い」も捨て去った時はじめて、リアルの「法」を自覚するでしょう。
「理由」や「意味づけ」や「条件付け」という事、自体がすでに人の見解が介入されているという事をよく見て欲しいのです。ああ、俺が法という事に自分の見解を入れとるじゃないかぁ、という自覚を持ってほしいのです。
本当の法は、そういうもの(おのれ)がない。
精進料理にしても、どういう訳かワカランですが、シイタケの煮ものを作る時にソースはあわん。
どういう訳かワカランですが、塩を入れ過ぎたらしょっぱい。
好き嫌い言うないっても高血圧の人にそんなものを食わせ続けたらしんでしまう。それだって人が決めたものではない。
自分が自分を運んで「法とはこういうものだべ」という事を「やっている」こと自体が法に背くスタンスになってしまうのです。
質問者からのお礼
授戒も得度も行っていないので、単に「法事」と「法律」について、
割と自由に考える余裕が私にはございます。
共通しているのは「法」が約束事であること、ですよね。
日本を構築する法と、宗教を構築する法は別物であり、
興味が尽きないようなら自分で考え、自分なりの解答をまず見出しなさい、ということですね。
ありがとうございます。納得行くまで調べ続けます。
遅い時刻にありがとうございました。
大変為になるお言葉を、本当にありがとうございます。
とどのつまり、
「法」は、かくあるもの。
「法律」は、かくあるべきもの。
と解釈いたしました。



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