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「法」という言葉について

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有り難し有り難し 30

「法」と言えば、真っ先に「法律」が思い浮かびますが、
そもそもの成り立ちは、「さんずい(川)」を「去る」と書きますよね。
そしてこれは漢字、すなわち中国が統一する直前の漢の時代に、
漢字文化を輸入したと考えられます。
紀元前300年程の、2300年程前ですね。

私なりに考えると、「(架空の)川を去るもの=魂」に行き着きます。
すなわち、仏教で言うところの輪廻転生という揺るぎのない約束事で、そこに疑問を感じてはいけないことです。

ところが、現在の法律の多くは、理由が存在しています。

民法で言えば、「20を迎えてタバコやお酒を許される」など。
20を超えると日本人は体の完成に近付くからかな、というきっかけがありますし、
刑法で言えば、「他人の物(命を含む)を奪ってはいけない」など。
堕胎なんかでは平気で殺しますよね。

精進料理だってそうです。
「命を授けてくれてありがとう」という意味なため、本来は動物も食べていいことになっていると思いますが、その文化は既に廃れています。
植物だって生き物ですし。

定理でありながらも、きっかけや理由が存在する。
その事自体が疑問です。
掘り下げて考える癖がついているため、ぜひ納得行けるご説明をお願い致します。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

御釈迦様の最後の教え「自灯明」「法灯明」!

貴方が考える法と仏教の法は違います、お釈迦様がお亡くなるときに残された教えに「自灯明」「法灯明」があります。

ここで簡単に納得できるような事を書くととんでもない事となります。日頃より我々は法を説く事、法を常に考え行動する事、法の奥深さに悩み苦しむのです。
説明を受けるよりご自分で調べると面白く又奥が深い事が分かります。

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「法」と「律」は別物

私たちが「法」についてかんがえるとき、習慣的な無意識によって「法律」と混同しがちです。

「法」とは、宇宙における普遍的で揺るぎないルール、真理であり、自然界における水の振る舞いのようなものです。

それに対して「律」とは、人間がTPOに合わせて自分たちのコミュニティの調和に役立てるために「法」を解釈して制定されたルールです。もちろん、時代や立場によって変化していくものです。

この二つが揃ったものが「法律」です。

単なるシンボル(法)があり、人間がそこに解釈を与えて用いている(律)。前述したように、私たちがそれをきちんと区別しないため、様々な認識エラーが起こるのです。

だから、現代の法律や慣習の中において違和感を感じるのは、おそらく「法」の部分ではなく、「律」の部分。形骸化とは、「法」の部分(=物事の本質)が見失われ、「律」にがんじがらめになってしまった状態のことです。

世の中のさまざまな矛盾も、そうやって整理してみると、意外とシンプルなものかもしれません。
お役に立てれば幸いです。

合掌

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有り難し
おきもち

法 「人の手が介入されないもの」 ダルマ

ちょっと深い話をします。
「だーるーまーさーんーがー転ーんーだー。」
と言ってみましょう。
実物のだるまさんは何処にも無い。転んでもいない。
「だるまさんがころんだー。」
人も物も転がる時には転がります。転がって、風に吹かれて、流れ流れても、それがそうあるだけです。
人がそうだ、私はこう思う、といっても事実、実物がはたして本当にそうであるかどうかの見極めが大事です。
ボブ・ディランもライク・ア・ローリング・ストーンで転がり続けて、ローリング・ストーンズやホフディラン、世界中の多くのミュージシャンに影響を与えて、ノーベル賞。今後亡き後も、転がり続けるでしょう。
お釈迦様も「法」輪を転じて「法」相を顕示し、苦悩の衆生をして大歓喜を得せしめられました。(法華経)
「法」とは、人間の手の加えられた「人法」ではないのです。人の手が加わったもの、人のルールは人法というべきもの。仏法とは、人の手が加わる以前のもの。
たとえて言えば、川が自然に流れて、サイクルをくりかえして雲になったり雨になったりしているさまも人の手が加わっていない様相です。
ですが、ブッダ説いた「法 ダルマ」とは、いつでもそこにあるものですが、自分を運んで観んとするにも「わたし・おれ・じぶん」が観ようとすれば、かくれてしまうものです。
お釈迦様も人間らしいものを離れ切って坐禅瞑想してはじめて法を悟った。法そのものになった。
法相。諸法実相。
あなたが本当に法を知りたければ、その「わたし」という自分意識や、あなたのイメージする「法に対する思い」も捨て去った時はじめて、リアルの「法」を自覚するでしょう。
「理由」や「意味づけ」や「条件付け」という事、自体がすでに人の見解が介入されているという事をよく見て欲しいのです。ああ、俺が法という事に自分の見解を入れとるじゃないかぁ、という自覚を持ってほしいのです。
本当の法は、そういうもの(おのれ)がない。
精進料理にしても、どういう訳かワカランですが、シイタケの煮ものを作る時にソースはあわん。
どういう訳かワカランですが、塩を入れ過ぎたらしょっぱい。
好き嫌い言うないっても高血圧の人にそんなものを食わせ続けたらしんでしまう。それだって人が決めたものではない。
自分が自分を運んで「法とはこういうものだべ」という事を「やっている」こと自体が法に背くスタンスになってしまうのです。

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おきもち

質問者からのお礼

授戒も得度も行っていないので、単に「法事」と「法律」について、
割と自由に考える余裕が私にはございます。
共通しているのは「法」が約束事であること、ですよね。

日本を構築する法と、宗教を構築する法は別物であり、
興味が尽きないようなら自分で考え、自分なりの解答をまず見出しなさい、ということですね。

ありがとうございます。納得行くまで調べ続けます。
遅い時刻にありがとうございました。

大変為になるお言葉を、本当にありがとうございます。

とどのつまり、
「法」は、かくあるもの。
「法律」は、かくあるべきもの。
と解釈いたしました。

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