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後悔してばかりしている性格を変えたい。

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私は何事にも後悔してばかりでなかなか前向きな気持ちになれません。
なにか失敗するといつも「あの時、こうしておけばよかったのにどうしてこうしなかったのか」と後悔してしまい、いつも自分を責めてしまいます。こんな性格を直したいのですがなかなか治りません。どうしたらこの性格を治せるのしょうか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「失敗」というレッテルに振り回されないようにしましょう

人は誰でも失敗します。あなただけでなく、私も失敗します。後悔することもしばしばです。でも、科学者は失敗から新しい発見をします。実は、私たちにも失敗を通して新たな道が開けてくることがあるではないでしょうか。これは、私たちは一つひとつの行いに、これは「成功」、これは「失敗」というレッテルを貼っているにすぎないことを意味しているのです。毒が薬になることもあれば、薬が毒になることもあるのと同じです。つまり、大切なことは、そのようなレッテルを私たちの行いに貼り、それに振り回されることではなく、「私は何をしたのか、そしてその結果どうなったのか」という因縁によって物事は生起するということに、目を向けることです。なお、これは「失敗」という意識を持つことの否定ではありません。失敗という意識を持つことは、一方では大切なことだと思います。(あくまでも、「失敗」というレッテルに振り回されないことです。)失敗という認識を持つことは、物事をより良い状態に持っていこうとする力になります。また、失敗という経験を持つ人は、相手の失敗も許せるのではないでしょうか。(もちろん、許せない失敗もありますが…)「失敗」という経験は、あなたを思いやりのある人に育ててくれると思います。
以上、私からのアドバイスです。少しでも参考になれば幸いです。

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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

それが失敗化されるのはいつ、どこで、誰がやっているのか?

(´-ω-`)←「私の顔は失敗作である。」とします。
それは、何処の何が何時から失敗であるというのでしょうか。(笑)
誰がその判断・ジャッジを下すのでしょうか。₍泣₎
何歳の時から失敗と言えるのでしょうか?
☆それは、私自身がそれを自分で失敗なんだと思いこんだ時だけです。
◎それを忘れている時は、失敗でも何でもありません。
△「失敗ではないよ」と言ってくれる人がいても、本人が失敗だと思い込んでいれば、失敗化されてしまうのです。
自分でイケていると思っていれば、周りがいくらダメ出しをしても失敗ではありません。
イチロー選手も、失敗かどうかは乗り越えてみてからでないとわからない、と言っています。
失敗は、失敗という思い、一時的なジャッジなのです。
一時的なジャッジで自分をネガティブにさせてはいけません。
失敗という思い、ジャッジを働かせたときにだけ、「そのこと」が失敗❝化❞失敗❝ナイズ❞されます。
☆ココ大事☆【事実は、その通り】なのです。
空振りしても、落っこちちゃっても、フラれても、ミスしても、やらかしても、それがその通りそのまんま。それがいつでもの真実のすがた。仏法なのです。
交通事故は、事故を起こした瞬間だけが、交通事故です。
それを永遠の負の砂漠にしてはいけません。
私も過去に多くの失敗をやらかした失敗ダーマンです。
ですが、私はそこの失敗の沼にいつまでもハマってはいません。
今の目の前の現実をしっかり生きていればます。

事実はその通りでしかない、という事を知るべきです。
それが仏道です。
そこに失敗のラベルを貼るのか、教訓のラベルを貼るのか、軌道修正、学び、向上、発見、ターニングポイント、再スタート地点のラベルを貼るのか、あなた次第。
私?私は、そんなラベルも貼りません。
ただ、いつも目前を生きています。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

雨男なんていません。もちろん晴れ男も。

まず、「もしこうだったら」は存在しないので、考える必要はありません。
世の中の出来事はすべて、因縁によっておこります。ですから、ご自分の決断も、その時は良いと思ったわけで、自信を持って良いのです。失敗し、後悔すると、すべて自分が悪いと思い込む癖があるのでしょう。
そのうち何の根拠もなく、わたしは雨男だなどと言う方もいます。
ご自分をただ負のスパイラルに巻き込んでしまっているだけにすぎません。

一人の人間の力だけで世の中の悪い事を引き付けるなんてないですよ。そんな力ありません。ご安心ください。
さまざまな条件が重なり結果がでるだけです。
きっと良い事もたくさんあっても、気付かなく通りすぎてしまってますよ。かわいいお花が咲いたのを見つけた。とか、好きな人ができたとか。空が綺麗だとか。良い事探しをして、そういうご縁に感謝し、謙虚に生きてください。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

後悔を反省に変えていく

マッピーさん

あの時、こうすればよかったという気持ち
良くわかります。

後悔をして、自分を責めてしまうのは
それだけ、真摯に生きている証拠だと思います。

過去と他人は変えられません
ただ、受け止め方は変えられるかもしれません。

人間である限り
万全を期しても、間違いを犯してしまうと思います。

その間違いをどう今後に生かすのか

人間は悲しいかな、間違いを犯してしまう。
ただ、その間違いを間違いのままにしてしまうことが
本当の間違いなのだと思います。

後悔を反省に変えていく
自分を問う眼は変えなくていいのではないでしょうか。

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おきもち

質問者からのお礼

たくさんのアドバイスありがとうございました。
アドバイスを参考にしながら少しずつ改善していこうと思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ