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これが空病なんでしょうか?

回答数回答 3
有り難し有り難し 37

気付けば真昼間に歯磨きしてました。意識してない。
ボーっとして、坐禅に身が入らない。
目が浮いて、足元がふらついています。

只管を練るとはどうすればいいのか?
感覚に生きるのが正解という事は分かったのです。
悟りすら余計事という事が分かりました。空も思えば荷物です。
何を思っても重しになる。悟りを捨てて木阿弥に戻ったと思っても、既に重し。

真理が空であろうとも、一時的に現生している縁起の世において、
日常の悩み苦しみは、ついて回り、いかに空を日常に生かしていくかが大事で、勝義諦を日常である世俗に活かしていくかが大事と知りました。
服、ご飯、PCも縁があってのもの、息吸うのも酸素が無いと、生きられません。 生活をホッポリ出せば観念遊戯に終わると思いました。

機縁が整ったのか、天狗になった私の前に、ネット上ですが川上雪担老師の、弟子という人物に会うことが出来て、話を数回交わしたら、スッカリ楽になったんですけど、ここから先が分からないのです。

一体何をしたらいいのでしょうか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏法と世間

すでにご自身でおっしゃっているのではないでしょうか、

→「いかに空を日常に生かしていくかが大事で、勝義諦を日常である世俗に活かしていくかが大事」
→「生活をホッポリ出せば観念遊戯に終わる」

この世間を離れて我々の仏道はないのだと思います。

真宗宗歌
「六字のみなをとなえつつ 世のなりわいにいそしまん」

御文一帖目第三通 「猟漁」  蓮如上人
「まず、当流の安心のおもむきは、あながちに、わがこころのわろきをも、
 また、妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよというにもあらず。
 ただあきないをもし、奉公をもせよ、猟、すなどりをもせよ。
 かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどいぬる我等ごときのいたずらものを、
 たすけんとちかいまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、
 一心にふたごころなく、弥蛇一仏の悲願にすがりて、
 たすけましませとおもうこころの一念の信まことなれば、
 かならず如来の御たすけにあずかるものなり」

蓮如上人御一代記聞書157
「仏法をあるじとし、世間を客人とせよ」といへり。「仏法のうへより、世間のことは時にしたがい、相はたらくべき事なり」と云々

世のなりわい(生活)を通して、これからも仏道を歩んではいかがでしょうか。
何か世間でやりたいことも探してみてください。

合掌

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おきもち

個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

川口さんのおっしゃられるように福徳を積まれることです。

私には慈悲がなかった。
血が通ってなかったのです。
シャカの両脇の文殊が智慧で、観音さんが慈悲。
それは知識ではわかっとったのですが、実になっていなかった。
それを反省する衝撃的な事件がありました。
その事件とは、あれがあの時ああで、こうでして、それがもとで、ああなって、こうなってもうて。(文字制限上ご想像にお任せします。)
「私には慈悲がなかった」
あなたに足りないのは血の通った真実。
何かを満たそうとして禅や何かを習得されようとしていませんか。
まず、そこに向き合う事です。
自分の弱さやらなんやら向き合いたくないことを禅で埋めようとしてませんか。
禅なら何でも解決してくれるとか思ってませんか。
人生に代用品は無いのです。
アッハッハ と川上せったん老師に代わって笑う人はいません。
お弟子さんが笑っても川上せったん老師じゃありません。
あんたが心底笑えるようにならんといけません。
自分をなんかしら持っちょる人は、心底笑えません。
自分でオニモツじゃ、と分かってるなら捨てたらいいです。捨てられんのでしょう。
じゃ、捨てりゃいい、川上せったんさんも、捨てたと思っているアンタの思いも、空やらなんちゃらも。
「空にしたがえば空に背く。」知ってますか?と私が訪ねる。
「知ってますよ。」どういうことですかと私聞きます。
こういう事ですよ、と語りだす。
その語っている時の使ってるノーミソや載ってこいでいる自転車をよくみましょう。それが思考。思考のペダルなのです。
それをその場でのりすてて、
「アーーー!!」と、そっちの脳味噌断ち切りましょう。
そこでは初めて、本当の文殊の智慧が授かれます。事実です。想念ではない所。
だから、たんげのこんな教えも捨てちゃえばいい。ここは、紙面、想念だから。
何所かしら構え事やこうしたらうまくいくというあなたのあらかじめ事前設定イメージ図式を勝手に思い描いている自分がいるのではないでしょうか。それこそ捨てましょう。
あっはっは
という、川上せったんさんでも、誰でもないあなたの微笑を聞かせてください。
自身の今に眼を向けて。
あなたが目を向けているのは、こうすればこうなるはずだというあらかじめ悟りビジョンではないでしょうか。
今から行くところは、今の中でならえばいいのです。
そうすれば、即、目のツケドコロが今までの悟れんかった方から外れます。
👀

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

智慧と福徳

天友童様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

空と縁起の理解は、仏教における智慧の要諦。

しかし、悟りへと至るためには、もう一つの資糧である福徳も欠かせないものとなります。

そして、正しい福徳の資糧は、正しい智慧に支えられてこそ、真なる資糧ともなり得ます。

智慧の正しさの確からしさが向上していけばいくほどに、その智慧に支えれた福徳の資糧の正しい確からしさも向上していくことになります。

是非、智慧の資糧と共に、福徳の資糧も向上、集積に努めて参りたいものとなります。

共に頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

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おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

吉武文法様

特にやりたい事もないです。
ありがとうございました。

川口英俊様

功徳なんて知りません。
至る悟りなんてものは、存在しませんでした。地獄も天国も知りません。輪廻も知りません。
もう仏教の教えについて回ることもありませんし、お釈迦様を有難いとも思いません。
お経を有難いとも思いません。仏像を有難いとも思いません。
阿羅漢をなじったら、地獄行きなんていう大嘘も知った事ではありません。
戒とは悪口を言わなければ反感を買わないという、身を守る程度のもので功徳なんて微塵もありません。
善悪の基準が空なるものであり、そこに囚われる必要もありません。
魂など汚れないし、悪しき所へ転生もしません。
しかし、人は社会動物であり共存して生きていくものです。身の回りにあるものは全て他者が作りました。
世間的,常識的に認められる真理こそが大事と思います。
社会的な悪事を為せば、相応の報いが社会から帰ってきます。共存してますから。

弛まず実践を積んで参ります。これでいいと満足せず常に励んでいきたいと思います。
合掌。

丹下覚元様
背中を押してくださり、ありがとうございました。
今から行くところは、今の中でならえばいい…その通りですね。

>>何所かしら構え事やこうしたらうまくいくというあなたのあらかじめ事前設定イメージ図式を勝手に思い描いている自分がいるのではないでしょうか。

はい、いました。どうすれば只管を練られるのか?だとか、頭の中で餅つき大会してました。
自身の今に眼を向けて。目の前、来るまま行こうと思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ