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般若心経を写経すると・・・

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以前、友人とお参りしたお寺で「般若心経を写経すると病気が治る」等のお話を聞かせてもらいました。
大学時代から仏教が好きで個人的に学んでいたのですが、「般若心経を写経するとご利益がある」等の考えにどうも違和感を覚えます。

般若心経を写経すると願いが叶うのでしょうか?


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

筆を手にとるひと時

シャ家族さま
こんにちは、なごみ庵の浦上哲也です。

今回のご質問、宗派によって回答は異なるかも知れませんが、浄土真宗では「写経をしても、読経をしても、それが直接原因となって病気が治る」とは考えません。

病気になる因・縁(直接原因や間接原因)が揃えば病気になることもあるでしょうし、また逆に治る因・縁が揃えば病気が治ることもあるでしょう。病気であっても願いであっても、それは同じことです。

ただ、こんな新聞記事があります。
「認知症予防の効果立証、写経で脳イキイキ」
http://blog.goo.ne.jp/fukujukai/e/9366cdcfe1b8df5113cafbb178789f39

ご質問にあるような、因・縁を無視したような病気回復、諸願成就という「ゴリヤク」は無いと、私は思います。

けれど、私のお寺でも写経会をしていますが、その時間はすごく集中力が発揮されますので、リンク先のような「効能」はあるのかもしれませんね。

ひと文字ひと文字、ていねいにお経を写すことは、ひとつのことに打ち込む集中した時間を作ってくれます。病気とか願い事とか考えず、筆を手にするひと時があってもいいのではないでしょうか。

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おきもち

浦上 哲也
横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗...
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願いは「叶う」ものではなく「叶える」ものです。

写経をすれば願いが叶うか?という問いには、正直申しまして「否」というしかありません。
ですが、「叶わないのか?」と言われれば、叶わないとも言い切れません。

一般的に願いというのは、人に対して聞き入れてもらえるか、物事に対して実現できるかどうか、ということだろうと思います。

写経をして得られる功徳は、何もお経に説かれている功徳だけではありません。
威儀を正し、静かに墨をすり、真っ白な用紙と向き合い、経文の文字を「一字一仏」と感じながら一文字一文字丁寧に書き写す。
その姿勢は、とりもなおさず「自からと向き合う」ことにほかなりません。
自からと向き合うということは、自分の生活観や人生観を見直すことにつながります。

自分の人生観が変われば、自ずと行動や言動に変化が現れます。
もちろん、物事に取り組む姿勢も変わってきますし、人の見る目も変わるでしょう。

願いというものは、何かに頼って叶うものではありません。
自からの思いや努力、その姿勢によって初めて叶うもの、すなわち自からが「叶える」ものです。

写経をする中で自分自身と向き合い、自からを見つめ直して、そこから何らかのきっかけを得たならば、それも写経から得られる功徳です。
そしてそれは、願いを叶える大きな力になるかもしれません。

「病は気から」とも申します。写経をしたから病気が治るとは思いませんが、写経をすることで少しでも心が安らかになり気力が充実したならば、ひょっとしたら病も快方に向かうことがあるかもしれません。

「般若心経を写経すると病気が治る」とおっしゃったお寺さんも、もしかしたらそんな意味でおっしゃったのかもしれませんね。

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おきもち

願い事は叶いません。

そのお寺さんが何故そのようなことをおっしゃったのか真意はわかりませんが、私の宗派ではそのような考えはしません。
おそらくシャ家族さんは般若心経を読まれたことがあると思いますが、般若心経のどこにもそんなことは説かれていません。
般若経はたくさんありますが、その中の般若心経は大乗仏教の縁起である「空」が説かれています。
その教えは決して願い事を叶える教えではありません。

しかし、写経はとてもいいことだと思います。
写経はかつては許された人しかできない高貴はことでしたが、もちろん現代では誰でも簡単にできます。
写経をすると文字一文字一文字と向き合い、お釈迦様のお説法をじっくりと味わうことができます。

「写経をする」という行為自体が尊いのであって、写経をすると願い事が叶うということはありません。
そもそも願うことすら必要なくなるのが仏教の教えです。

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おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...
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間接的に病気が治る力になるのです

こんにちは。(-ω-)
以前、曹洞宗の大本山総持寺で写経会講師をしながら、筆先三寸、舌先三寸で多くの人をたぶらかしつつ現在は、指先三寸、口先三寸で多くの人をたぶらかしている丹下覚元と申します。

まず、一度食わず嫌いを無くす前に、やってみることです。
今あなたは、写経をする以前から自分の考えで一面的に写経をとらえていると思います。  
理屈をごねているうちは一行も一字、一仏心も現れません。
まず、写経でなくとも、そこに自分の考えやら、流儀を持ち込まずに一字が書けるようになることです。これを「❝わたくしをはなれる❞といいます。」
本当に【理想的】な写経をしている時には、そこに字の上手下手はありません。
❝理想的❞とはどういうことか?
人間的価値観、我見を離れるということです。
人間的価値観、我見を離れると、仏になる、仏の行、仏のさま、仏のあらわし、仏あらわれになるのです。(無為の行為)
写経、写仏という は、おのれの中の我欲まみれの人間性ならぬ、仏性、仏陀性を引きずり出すことです。
自分の中の人間(自我)が書いているうちでは駄目です。自分を放ち忘れて、
自分の中の人間(我見)を離れて、無為の行為の中で仏(本来の自己)に書かせて、仏の字にならんうちは写経、写仏ができたとは言えんのです、
仏の一文字、一書には、人間の願望、目的がありません。
そこに勝ち負けもありません。
そこに優劣も生まれません。
そこに疑問も無く、一字一字の真実があるだけです。
その時、病気を厭う心も忘れます。
病気でありながら、病気であったことも忘れ、何の問題も無くなります。
人間の心でいれば、社会にいても価値観や理屈、都合に蝕まれましょう。
仏の心(和・安心・笑顔・柔軟・無・無為・無作)でいれば、当然、病気も回復する、治癒する、治癒力を高める効果もきちんと期待できるのですよ。
勿論それが為にやろうというのは、我欲です。
おのれの心が仏心に転ぜられた結果、自ずから病気や病苦から離れているのです。
まずは、一文字でも書いてみてください。
そこにあなたの迷いの理屈が無くなるかどうか。
真実の一文字、無為の一字が書けるかどうか。
写経をやらぬにせよ、写経に疑いがあるにせよ、あなた自身に迷い、疑問があるのだから、それを滅却することが一番の功徳です。

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おきもち

「写経」について

シャ家族様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「写経」に関することでは、以前に下記の問いにお答えさせて頂いております。

問い「写経は高僧のもの」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002966096.html

『・・写経による功徳に関しての典拠としては、法華経・法師品第十の中に、「・・妙法華経の、乃至一偈を受持、読、誦、解、説、書写し・・」とありますところにおいて、書写することでの功徳が説かれているところから、やがて更に利益(りやく)や供養、または祈願の意も含まれるようにもなっていったのではないかと存じております。ただ、しかし、機械的に、作業的に「写経」をするだけではなくて、それを本当の功徳や利益、供養と致すには、やはりその内容もしっかりと理解して、その教えを実践することが最も大切になるのではないかと存じております。・・』

特に般若心経は、仏教における智慧の獲得のために最重要となる「空」の真理について扱われております。この「空」を理解することが、利益という結果へと向けて確実に繋げられる理、法則を知るということにもなり、ひいては、その理、法則に則って実践していくことで、やがては、ある意味で「願いが叶う」と言っても実は過言ではありません。

ただ、その願い、幸せ、利益というものは、私たちが普段世間一般において考えているようなものと違うものになるのですが・・まあ、それは後からの楽しみにしておいて下さいませ。

とにかく、これを機会に般若心経の言わんとするところの理解をしっかりと一つ一つ進めて頂ければと存じております。「無」・「不」という否定辞が多用されていますが、決して「何もない」ということではありません。まずは何が否定されているのかということをしっかりと押さえていくのが大切となります。

また、「般若心経」のことにつきましては、これまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いておりますので、是非ご参照下さいませ。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/般若心経

これからも仏教の学びを進めていかれます中で、般若心経の内容の理解にも取り組んで頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

写経に特別な法力(?)のようなものはないと聞いてストンと落ちました。
「病は気から」や「精神統一」というようなことならばよくわかります。
また自分でも写経をしてみたいと思います。
一文字一文字大切に書いてみます。

「般若心経」問答一覧

般若心経(2)

 「舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」   これが第二のキーフレーズです。  「諸法」について花山勝友先生は「この世の中のあらゆる存在や現象」と解釈されていますので「宇宙」と解釈するのが正しいと思います。  横道にそれますが、「空相」は「空の姿」ですから、それに対比する「実の姿」があっての「空相」です。  従って本来はその前に「是諸法実相 生滅 垢浄 増減」(諸行無常)があるべきです。  「如是我聞」は釈尊が弟子(比丘)に説教するのが大部分ですから、常識的な会話は無に近いです。だから重要な「輪廻転生」の話はほぼ皆無です。  ここでも「諸法実相」が省略されたのでしょう。  では「諸法空相」に戻って、ちっぽけな「色」(身体)の説明になぜ宇宙を持ち出さなければならないのか不思議です。ここがキーポイントです。  「空の姿」の宇宙は自然界で唯一「閉じた系」です。  「閉じた系」の有用性は、皆様も中学、高校時代に物理で教わったように、「エネルギー保存の法則」です。  同じ空相でも「閉じた系」でなければ、「不増不減」(一定量)とはなりません。だから「色空相」として説明できないから宇宙を持ち出したのです。 これで「空(空性)」が「エネルギー」であることが確定したのです。    「是故空中、無色、無受想行識 無眼耳鼻舌身意無色声香味触法 無眼界  乃至 無意識界、無無明 亦無無明尽 乃至、無老死、亦無老死尽、 無苦集滅道、 無智亦無得、以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃」  「是故空中」とあるので、諸法空相を受けて、宇宙全体をエネルギーと見做せば、総てが無になることを説明したに過ぎません。  以上が「色即是空 空即是色」に関する説明です。  明治時代以前迄は、釈尊が悟りを開いたとき「これは非常に高尚で誰も理解できないだろうと」と布教を諦め、「この喜びのうちに生涯を終えたい」と神通力を駆使して自殺をし、彼岸に渡って「梵天勧請」事件を経て、再び生き返り諸転法輪を回したほど、難解な内容でしたが、現代では教科書で学ぶほど、「般若心経」は科学的常識となったのです。

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般若心経(1)

 今更ですが、仏教の体系が「真理」として「般若経」、「真実」として「般若心経」、論理として「阿含経」でまとまっていると考えていますので、今度は「般若心経」の解釈を試みたいと思います。  「観自在菩薩」とは釈尊が如来になる前の尊称であると思います。  次の「行深般若波羅蜜多時」が菩薩が如来になった瞬間と考えられます。  「照見五蘊皆空 度一切苦厄」 がこの般若心経の結論です。即ち「空(正確には空性)」を発見して、悟りを開いたのです。  「舎利子 色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」が第一のキーフレーズです。  「般若経」は「色即是空」だけですが、それは「真理」であって「色即是空、空即是色」が真実です。  色即是空の「空」が真実であれば、空即是色の「色」も真実です。しかし「空」と「色」は別物ですからこの「即是」は定性的な即是で、「物体」は総て「空」の集合体であるという意味です。  定量的にはそこに「縁起」が加わって「色」=「縁起」X「空」、「空」=「縁起」X「色」となります。  「色」は五蘊の中の身体です。身体はこの世限りの命ですから、科学の真実と一致するはずです。アインシュタインはe=mc^2の公式を発表し、広島、長崎の実験でこの公式が真実と確定されたのです。  e(空)=m(色)Xc^2(縁起)と対応します。  「受想行識亦復如是」  「受想行識」は通常総括して「心」と訳されてます。心も「空」で出来ているのです。

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無と空について

複雑な状況を抱えてしまい、何年か悩んでいます。詳しくはなしても分かりにくい、のと話したくない気持ちと話さない方がよいともアドバイスいただいたこともあります。自分の言ったことが原因で、人のうわさ話が原因ですが、それだけが問題ではありませんが、地域中にひろまり、仕事場にも影響を及ぼすようになり、うまくいかなくなり、悪意や馬鹿にされるだけでは終わらず、、嫉妬、妬みまでもかい、支障をきたすようになって困っています。 真実を打ち明けようと思っても、逆に悪くまわる可能性があるのと意味のないことに終わりそうなので、やめています。問題を解決するために般若心経や般若経などに興味をもち、無や空を行ずるようにこころがけています。しかし、無や空について、知識があまりなく、どう考えていってよいか分からず悩んででいます。以前、宗教に入っており、この世は現象世界だから、すべては実体のないものと教えていただきましたが、いざ問題がおこってしまうと現象としてほっといておいてよいはずがなく、どういう風に手をつけて解決しておいていいか分からずこまっています。現象を空と感じるとそこにいろいろな神様の守護がうけれるようなことを般若経には書いてありました。それから空を行ずることによって得られる功徳はかぎりないものだということも書いてありました。私も空を行して現象をすこしでもよいものにしていきたいのです。現実界で講じれる手段はしつくしたように感じることもあります。というかする手立てがあまりないのです。下手にかかわるとよけいひどく非難を受けたり、都合の悪い結果を招きそうな気がしています。自分を変えていきたいという願いも含めて、無と空をぎょうじていきたいです。 また、私は護摩をお寺にお願いしてやっていただいたこともあります。神社仏閣に参ることも好きで頻繁ではありませんが、参っています。困ったときには神社に参ってたよったこともあります。信仰を志したいとかもおもったことがあります。 般若経や般若心経に詳しいお坊さんがおられたらご回答をおねがいしたいです。無や空についてしりたいです。

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般若心経を学びたい

はじめまして、お世話になります。 私は看護師の主任をしています。 3月から毎日コロナ対応に追われています。 自分が感染するのではないかと言う不安にかられながら、スタッフの体調、メンタルに気を配ってきました。 ですが長引くコロナの蔓延にスタッフの体調が悪くなり仕事ができなくなったり、怒り不満不安をぶつけてくるスタッフがいたりと、色々なことが起こり自分自身が疲弊してしまいました。 そんな中、般若心経に出会いました。 もともと信仰に関心がなく、宗教といえば勧誘、お布施、入信しないと悪いことが起こる的なイメージが強かったのでなんとなく避けていました。 ですが般若心経に触れ、「全ては空である」 体、感情、もの、全ては空と言う考え方に何か 安心?安らぎのような物を感じました。 難しくて、わかったような?分からないような?全然理解できていないのですが、般若心経を読むと少し心が落ち着くのです。 早く般若心経を読みたい、学びたいと焦燥にかられ近くの高野山真言宗のお寺さんで般若心経の経本をさっと買ってきました。 もっと般若心経に触れたいのですが、私は独身で家に仏壇もなく檀家にはなれません。 調べたら入信の制度はないようで、もっと般若心経や仏教の教えについて深く学び、私の中に落とし込んでいきたいのですが術がわかりません。 お寺さんのホームページに月二回の読経会があるようなのですが、このコロナ渦の中医療従事者の私がお寺で他の皆様と一緒にお経をあげる、お話を拝聴するのは難しいです。 本当はお香の香りに包まれたお寺さんで、自分と向き合いながらお経を唱えてみたいのですが。 まだまだ続くであろうコロナと向き合うために どのように般若心経やお釈迦様の教えに触れ、 お経を唱えて行ったら良いか迷っています。 読み方も分からないのでyoutubeの読経に合わせ読んでみたり、文献やyoutubeで学ぶのが精一杯です。 何か良い方法はないでしょうか?

有り難し有り難し 45
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お坊さん達ではどう実態の話をしてますか

私は般若心経に影響を受けています。 ここに机があります。私達はこれが無いと知っています。誰かが、それは机でそこにあって、木で出来ていて茶色で硬いと言います。 私にも茶色に見えるし、ぶつければ私は痛いです。 でも、やっぱり茶色は無いし、机もないし、私も無いです。 それでも痛いのは嫌で、そこに机があると考えて生活します。でも、あらためて眺めると、やっぱり無いです。 強いて言えば、さっきまであった、と言うかなと思います。でも、無いから『さっき』と言うのもいま言ったけど変だと思っていて、さっきも無いんだけど強いて言えばにすぎず、とにかくいま、机は無いよ、と思います。 私達はそこに水色のティーカップが見えていて、私にも見えています。でも、無いし、としか言いようがないく、水色もない。強いて言えば、その子が自分を水色と思っているでしょう、私もそれを水色と思っています。でも、そこに水色は無いと私達は知っています。 私達は、と言ったのは、きっと同じ話をしていると思っていますが、お坊さん達の間では違うのか、聞きたいと思いました。どこかは違うと思います。 その子の水色が無いと知っていますが、その子が「私、水色でかわいいの」と言ったら、ああ、水色だよ、それにかわいいよ、と言うと思います。 私は無いです。神も無いと思っています。私がいたら神もいる、私が無いなら神も無いと考えています。両方ある、と両方ないのどっちかしかないと思い、ところで実際どっちも無いよねえ、と思います。お坊さんはこう言っていないと思いました。 目の前に、机があり、傍らにまた水色のティーカップが見える、でも私達はこれが無いとしか見えないと思います。 私は、ひょっとして自分は時間の話をしているのかなとよく思います。 時間の話であれば、さっきと呼ぶものもなく、今机があるという事も起きていません。 今そこにあるという概念がなく、この机に対して机があると言える事実はなく、とにかくえんえん無いんだが、と思ったり仏陀は荒唐無稽で精神世界に限った話をしたのでは無さそうに思ったりします。 あると思っていて、としか言いようがない机をまた見て、もう無いとしか見えないし、ところであらためてそこに机があると言ってみる必要あるんだろうか、言わなくていいと思う、と考えたりします。私は時間の話をしているのでしょうか。 お坊さん達は違う話をしていますか?

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ