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仏道修行は知恵を鍛える?

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唐突ですが自分の頭が悪すぎて困ってます。

物事を考えてもなかなか答えがわからなかったり、答えが出るまでとてつもなく時間がかかったりします。いつも迷ってる気がします。

これもきっと自分の知恵が悪いからだと思います。

仏教を修行すれば知恵が鍛えられ迷わない心を手に入れることができるでしょうか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

知恵の器

もしも勘違いならば申し訳ありません。

もしかしたらzenshuさんは、長い時間ゆっくりと話を聞くのが苦手ではありませんか?
人の話を聞いていても、どこかで引っかかってしまい、最後まで聞いていてもなんだか釈然としない。
そんな経験はありませんか?

80年も人生経験を積まれれば、どんな方でも沢山の知恵をお持ちです。
もちろんzenshuさんの知恵の器はあふれんばかりの知恵で満たされていると思います。

たぶんzenshuさんは、自分の知恵の器に投げ込むのが、ただ苦手なだけなのではないでしょうか?

人は目の前にあるものを、どうしても先入観や固定観念、興味のあるなし、その時の気分などで判断して、そのつど手に取るものが違ってきます。

人の話を聞くにしても、聴いたものが自分が思っている形と違うと、そこにばかり気を取られてしまい他の話が耳に入らなくなってしまいがちです。

器と呼ばれるものには、どんな器にも出し入れする「口」があります。

同じ容量が入る器でも、ペットボトルのような形の器と、どんぶりのような形の器では、出し入れする口の大きさが違います。

先入観や固定観念は、器の間口をペットボトルのように狭くしてしまいます。

自分の持っている器の間口より大きなものは、小さく砕いて入れなければならず、器に入れるまでに時間がかかってしまいます。

同じだけの知恵があっても、器の中に投げ込めなければ、自分の知恵で練ってあげることはできません。

人一倍頑張って生きてきて、沢山の経験や知識がおありの方ほど、固定観念を捨てられない方も多いようです。

先入観や固定観念は、本来持っているはずの柔軟な判断を邪魔してしまいます。

きっとzenshuさんは頭が良すぎて、物事を考えすぎて迷っているのではないでしょうか?

自分の物差しと他人の物差しは、長さは同じでも目盛りの大きさが違いますし、自分が常識だと思っていることは他人にとっても常識とは限りません。

仏道の修行は、そういった観念を解きほぐすには向いているのかもしれませんね。

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執着・迷い・妄想か、具体的な思考か

瞑想したら頭の回転が速くなった、というような体験談は聞いたこともありますが、はっきりとはわかりません。
ただ、仏教では心を観察しますから、迷いに対する処理は上手くなるかもしれませんね。
迷っているときは、まず何かに執着しており、執着によってあれこれ虚しい妄想してします。思考が具体的ではないのです。
たとえぱ、おにぎりを食べようか、パンにしようか、でも昨日もおにぎりだったしな、しかしパンを食べたい気分なんだよな、今朝のグルメ番組でうまそうなパン出てたし
…などと考えている暇があれば、パンを焼いておにぎりも握る時間があるのです。
また、目の前に最初に見えたのがパンならば、今日はパンだなと決めてしまえば早いし。
実は、迷っているときというのは、現時点では自分にとってどちらでもよい(どちらも同じくらいの価値)なのです。
だから、サイコロでも振ってデタラメに決めてもいい。
もしくは、迷っていることについて新情報を得れば、決定の決め手がみつかるかもしれない。
なので、迷っているときは、次の2つのどちらかにすればよいでしょう。
1、今ある情報で考えるなら妄想になるからデタラメにでも決める。
2、妄想してるよりも新情報を得るために一歩でも動き、新情報を得るまでは考えても無駄だから脳みそを別のことに使う。

この2つのどちらかに移れないときは、欲(執着)か怠けの煩悩が邪魔してるのでしょう。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

知恵と智慧の違い

知恵というのは、知識や言語、分別などといった頭の働きですが、
仏道では、修行をおさめる中で知識などの知恵から「智慧」といって、悩みや苦しみから救われる頭の働きが現われます。これは物事を全体的に捉えて、そのままの状態を受け取る脳に切り替わるのです。
現代風に申し上げますと、
左脳的な働きから、右脳的な働きに切り替わっていく力とも言えます。
左脳は「過去と未来」を処理しますので、左脳的な働きが、知識や判断などの分析的な業務ををつかさどっていると言われます。
よって、知識、知恵、判断、評価と言われる分析思考的なものは、この左脳の働きが中心となります。
右脳は現在、いつでも「いま・ここ・その事」を相手に致します。
よって、右脳の「いま・ここ」に集中している感覚の側面をみますと、過去の苦しみや未来の不安から離れている側面がありますので、ここに着目すれば、それは仏教においてでは救いの力、解脱のはたらきともいえるのです。
物事は考えによって、言語、理論的に答えが出されなくても良い場合があります。
「事実は常にそこで、解決して完結している。知者は知識によって迷い。智慧者は、知識を超えて事実に安住する。」
禅的に申し上げますと、考えることが好きな方は、考えて答えを出そうとすることに縛られて、考え、思考の頭脳から身動きが取れなくなっている場合があります。=思量
目の前の事実は、何かが不完全、未完成に感じられるようなものでも、その状態が今の真実です。=非思量=事実 

食べ終えた 食器を 片付けにゃと 思ゆれど
忘れていたときゃ それがただそれ 
洗わねばの念もなきかな

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

仏教でいう知恵

私は、知恵とは鍛えるものではないように思います。知識とか、頭で処理する速度ではないと捉えています。世間一般で言われる知恵と、仏教でいう知恵とは違います。

知恵とは気づくものなのかと思います。修行により真理に気づく。気づくと言うと、自分があるような感じに表現されてしまいますが。自分がなくなる事を知るといった、感じだと捉えています。

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禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

お坊さん方、回答どうもありがとうございます。

お坊さんたちの話を聞いていて、どうやら知恵は鍛えられないかもしれないけど、迷わなくはなるかもしれないというふうに感じました。

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