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仏道修行は知恵を鍛える?

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唐突ですが自分の頭が悪すぎて困ってます。

物事を考えてもなかなか答えがわからなかったり、答えが出るまでとてつもなく時間がかかったりします。いつも迷ってる気がします。

これもきっと自分の知恵が悪いからだと思います。

仏教を修行すれば知恵が鍛えられ迷わない心を手に入れることができるでしょうか?

2015年6月13日 1:22

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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

知恵の器

もしも勘違いならば申し訳ありません。

もしかしたらzenshuさんは、長い時間ゆっくりと話を聞くのが苦手ではありませんか?
人の話を聞いていても、どこかで引っかかってしまい、最後まで聞いていてもなんだか釈然としない。
そんな経験はありませんか?

80年も人生経験を積まれれば、どんな方でも沢山の知恵をお持ちです。
もちろんzenshuさんの知恵の器はあふれんばかりの知恵で満たされていると思います。

たぶんzenshuさんは、自分の知恵の器に投げ込むのが、ただ苦手なだけなのではないでしょうか?

人は目の前にあるものを、どうしても先入観や固定観念、興味のあるなし、その時の気分などで判断して、そのつど手に取るものが違ってきます。

人の話を聞くにしても、聴いたものが自分が思っている形と違うと、そこにばかり気を取られてしまい他の話が耳に入らなくなってしまいがちです。

器と呼ばれるものには、どんな器にも出し入れする「口」があります。

同じ容量が入る器でも、ペットボトルのような形の器と、どんぶりのような形の器では、出し入れする口の大きさが違います。

先入観や固定観念は、器の間口をペットボトルのように狭くしてしまいます。

自分の持っている器の間口より大きなものは、小さく砕いて入れなければならず、器に入れるまでに時間がかかってしまいます。

同じだけの知恵があっても、器の中に投げ込めなければ、自分の知恵で練ってあげることはできません。

人一倍頑張って生きてきて、沢山の経験や知識がおありの方ほど、固定観念を捨てられない方も多いようです。

先入観や固定観念は、本来持っているはずの柔軟な判断を邪魔してしまいます。

きっとzenshuさんは頭が良すぎて、物事を考えすぎて迷っているのではないでしょうか?

自分の物差しと他人の物差しは、長さは同じでも目盛りの大きさが違いますし、自分が常識だと思っていることは他人にとっても常識とは限りません。

仏道の修行は、そういった観念を解きほぐすには向いているのかもしれませんね。

2015年6月13日 17:52
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日蓮宗。倉敷市受法寺住職・岡山市妙立寺兼務住職 1965年生。坊主歴35...

執着・迷い・妄想か、具体的な思考か

瞑想したら頭の回転が速くなった、というような体験談は聞いたこともありますが、はっきりとはわかりません。
ただ、仏教では心を観察しますから、迷いに対する処理は上手くなるかもしれませんね。
迷っているときは、まず何かに執着しており、執着によってあれこれ虚しい妄想してします。思考が具体的ではないのです。
たとえぱ、おにぎりを食べようか、パンにしようか、でも昨日もおにぎりだったしな、しかしパンを食べたい気分なんだよな、今朝のグルメ番組でうまそうなパン出てたし
…などと考えている暇があれば、パンを焼いておにぎりも握る時間があるのです。
また、目の前に最初に見えたのがパンならば、今日はパンだなと決めてしまえば早いし。
実は、迷っているときというのは、現時点では自分にとってどちらでもよい(どちらも同じくらいの価値)なのです。
だから、サイコロでも振ってデタラメに決めてもいい。
もしくは、迷っていることについて新情報を得れば、決定の決め手がみつかるかもしれない。
なので、迷っているときは、次の2つのどちらかにすればよいでしょう。
1、今ある情報で考えるなら妄想になるからデタラメにでも決める。
2、妄想してるよりも新情報を得るために一歩でも動き、新情報を得るまでは考えても無駄だから脳みそを別のことに使う。

この2つのどちらかに移れないときは、欲(執着)か怠けの煩悩が邪魔してるのでしょう。

2015年6月13日 12:10
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浄土宗教師。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための...

仏教でいう知恵

私は、知恵とは鍛えるものではないように思います。知識とか、頭で処理する速度ではないと捉えています。世間一般で言われる知恵と、仏教でいう知恵とは違います。

知恵とは気づくものなのかと思います。修行により真理に気づく。気づくと言うと、自分があるような感じに表現されてしまいますが。自分がなくなる事を知るといった、感じだと捉えています。

2015年6月13日 11:20
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知恵と智慧の違い

知恵というのは、知識や言語、分別などといった頭の働きですが、
仏道では、修行をおさめる中で知識などの知恵から「智慧」といって、悩みや苦しみから救われる頭の働きが現われます。これは物事を全体的に捉えて、そのままの状態を受け取る脳に切り替わるのです。
現代風に申し上げますと、
左脳的な働きから、右脳的な働きに切り替わっていく力とも言えます。
左脳は「過去と未来」を処理しますので、左脳的な働きが、知識や判断などの分析的な業務ををつかさどっていると言われます。
よって、知識、知恵、判断、評価と言われる分析思考的なものは、この左脳の働きが中心となります。
右脳は現在、いつでも「いま・ここ・その事」を相手に致します。
よって、右脳の「いま・ここ」に集中している感覚の側面をみますと、過去の苦しみや未来の不安から離れている側面がありますので、ここに着目すれば、それは仏教においてでは救いの力、解脱のはたらきともいえるのです。
物事は考えによって、言語、理論的に答えが出されなくても良い場合があります。
「事実は常にそこで、解決して完結している。知者は知識によって迷い。智慧者は、知識を超えて事実に安住する。」
禅的に申し上げますと、考えることが好きな方は、考えて答えを出そうとすることに縛られて、考え、思考の頭脳から身動きが取れなくなっている場合があります。=思量
目の前の事実は、何かが不完全、未完成に感じられるようなものでも、その状態が今の真実です。=非思量=事実 

食べ終えた 食器を 片付けにゃと 思ゆれど
忘れていたときゃ それがただそれ 
洗わねばの念もなきかな

2015年6月14日 12:35
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丹下覚元(たんげかくげん)
お悩み相談 ❝あなたの悩みという荷物をおろしてみませんか?❞ 「お寺で...

質問者からのお礼

お坊さん方、回答どうもありがとうございます。

お坊さんたちの話を聞いていて、どうやら知恵は鍛えられないかもしれないけど、迷わなくはなるかもしれないというふうに感じました。

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修行と信仰と座禅や念仏

先日私の具体性に欠ける、奥歯にものが詰まったような愚痴のような質問に応えて下さり、ずっと回答を考察してました。 その時々の私の見たてがどうであれ、自分目線で世界を見ていては、環境にフラつきいつまでたっても頼りにならない自分の世界で苦しむ ことになりますよと、言われたように思います。 自分を苦しめているのはあらゆる煩悩で「自我」(自己中)だとココhasunohaでも僧侶の方が口酸っぱく何度も言っておられ、私も何度も自我を手放す手立てを見聞きしてます。 しかし無我や手放すと言うと、主体性を放棄しているように思えてならなかったのですが、自分と言うのは条件次第で左右され頼りにならないから例えば「縁起」や「空」、この世界は常に変化し、お互いに影響を与え合う相互関係にある。 みんな繋がってるから、自分もみんなも尊い存在、軽んじちゃダメ!ピラミッドの頂点に人が(自分が)立ってるんじゃなくて網の目の一つで、人知を超えた自然の働きも誰かに想われてることも誰かに想われてることに気づけなくても繋がってる。 と言ったことついて言葉の上では理解しても、自分が騒がしいのは、禅の方(ザックリですみません)が座禅をして余計(自我)なものを手放すと言う事と、歎異抄の中で親鸞聖人が「何が善で何が悪なのかそのどちらも私はまったく知らない…」と言っておられるのは自分から見たら許せない又は自分が裁きたいと言う想いを手放して、「…この世はむなしくいつわりで真実と言えるものは何一つない、ただ念仏だけが真実(確かなもの)である」とおっしゃり、自己のはからいを捨て念仏し阿弥陀様にお任せすると言う事と同じで、だから座禅する、だから念仏すると言うことでしょうか? だから思考が暴れても身体(振舞い)を整えることができる修行(座禅や念仏)や信仰が必要と言うことでしょうか? いつも長くてすみません。

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この世は魂の修行場と言いますが

この世は魂の修行場と言いますが、自分の人生の汚点を作りつづけている人生の魂は汚れきっている事に気づきました 五年くらい前からネット上の掲示板などに不平不満をぶちまけたり、煽って来た人に煽ったり。いわゆる荒らしという行為 勿論いつもではありませんがストレスが溜まると息を吐くようにしている気がする 元々悪いんでしょうね悪役として生まれたんですね。   しかも自分は潔癖症なところがあり、ネット上と記憶ににこれらの汚点が残りつづけることが不快でたまりません。 相手に仕返しするために煽る際、汚い言葉を考える脳の思考回路が太くなって来る感じ 恥ずかしい話ですが、小説等創作物の登場人物を無意識に自分の理想にしてる事があり、その理想の登場人物と 自分の汚れきった自分を比べてひどくひどくひどくひどくひどく落ち込みます。 できればこの点をどう思うのかお聞きしたいのですが、ネット上のサービス(知恵袋)を使う際、本名で登録するのですが、 そのサービスを管理している人は自分がどんな事を書き込んでいるか知っているわけですよね? 勢い余って言ったことも残るし例えば仮に自分が有名になったら、あの人こんなこと書き込んでいたのかと しられますよね?自分の中を知られるのが急に怖くなるんですが、死ぬしかないんですかね 高校からネットなんか触れなきゃよかったと後悔していて、そのせいで人格も更に歪みましたし良いことがありません いまさら気づいてもネット上に何かを残すのがいつからか習慣になっているんです。 自分のしてることが全て悪手なんです 某動画サイトのコメント欄にレッテルを貼り言論弾圧してるやつがいたから 正論言ったら人格攻撃して来るしヒートアップして最終的には障害者扱いされてとても気分が悪い。 極論しか言えないのか 最終的に煽り合う事になりこれならその人にに最初から話しかけなきゃよかったと思うのですが。 この際ネット上にろくなやついないんでいい機会だと思い動画サイトのアカウントを 消したのですが、自分のコメントが消えるため向こうからすれば逃げたように見えますよね? ストレスがハンパないのですがどうすりゃいいんでしょう。  特定して個人的に会って潰さないかぎりおさまりそうも無い。

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スッタニパータ「874形態は消滅する」の内容について

いつもご回答ありがとうございます。 スッタニパータの中の理解できない箇所の一つに 以下の箇所があります。 お坊さんの御教示お願いいたします。 873で「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。」とあります。  次の874で「①ありのままに想う者でもなく、②誤って想う者でもなく、③想いなき者でもなく、④想いを消滅した者でもない。──⑤このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」 註では、①を凡人②を狂人③を滅尽定④を四無色定とありますが、873で修行した者について問うているのに①、②は修行者の範疇ではないようです。また、③が四無色定で④が滅尽定のように思われます。 勝手な考察ではありますが、 ①ありのままに想う者は、 ・概念で構築された言葉と一体となっている形態(個々の対象)をそのままに想う者  ・名称と形態は、妄想の元であると理解に至っていない修行者 ②誤って想う者 ・形態によって迷うのではないと想っている者 ・諸行無常を理解していない者 ③想いなき者 ・形態に対して想いをめぐらさない者。 ・想わないようにしている者 想わないようにしただけでは形態は消滅しない。形態には実体が無く、妄想(=苦)の元凶であると理解していない者。 ④想いを消滅した者 ・形態に対しての想いを想いで消滅させている者 ・想いを想いで取り扱っているかぎり想いはなくならない。 ⑤理解した者の形態は消滅する。 ・消滅させる(人為的)ではなく消滅する(自動的に消滅されている) ・想いなく形態が消滅する者でなくてはならない。 名称と形態が分離されたものと理解しなくてはならないのではないでしょうか。 名称は社会生活のために便宜的に付けられたものでしかありません。 例:お金(お金という名称)の本質は印刷されたただの紙。為替交換のできない国に持ち込んでも交換価値はありません。使用価値としては火をつけるときに使える程度のただの紙でしかない。 「私」というのも「私」という概念に付けられた名前だけであって、想いが続くことによって「私」が存在していると勘違いしているのではないでしょうか。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 50
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全体と一体となる具体的な修行を教えていただければ幸いです。

 お坊さんにおかれましては、一年で一番お忙しい時に恐縮です。いつも具体的で親身な回答ありがとうございます。アドバイスよろしくお願いいたします。  宇宙は「無」から生じたという物理理論があります。宇宙の一切も遡れば所詮は「無」でしかない。  宇宙の一部である我々も「無」ではないでしょうか。 地球においても、創成期から多様な生物が存在していない。単純な単細胞生物から、多様な生物が進化したようです。地球の生命の源を辿れば、一つに繋がっている。気の遠くなるような年月を経て、生存競争を生き抜いた最強の遺伝子を携えた生命が今ここに生きています。  今の我々が、より恵まれたいとかより充実して生きていたいと個々に願うことは、遺伝的な本能から湧き上がる自然の衝動のように思われます。あらゆる生命の刹那の反応は、あらかじめ生命にインプットされた生存欲による自動的なものであると思われます。  我々人間は、生命として生きるために我に固執する「小さき心」が休むことなく働いていることに気づかされます。  「無」から生じた宇宙の一切は無限に広がり、「本来の心」も無限であり穢れのないものと思われます。我欲に縛られた「小さな心」は自由で無限である「本来の心」の一つの現れであると思われます。  「小さき心」が幻であると気づくか、「本来の心」と一体になれば、今まで対峙していた「対象」と「我」という二元の境は無くなると思います。個ということをあまりに重視した生命の本能から脱し、分離など無いとの気づきが訪れるのではないかと思います。  各宗派によって異なると思いますが、全体と一体になるような具体的な修行を教えてください。

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